遠き日
* * * * *
「弘子ちゃんが3歳だなんて。ホントに時間が経つのって早いわねえ」
「ねー。生まれたばかりだと思ってたのに。最近はおませなことも言うのよ」
「可愛いじゃない。うちの良樹なんておませどころか一丁前にこっちがむっとするような大人ぶったこと言うんだから。誰に似たのかしらねえ」
「あんなに小さかった良樹も8歳だもんね。きっとあっという間に大人になっちゃうんだろうなあ」
ケラケラと賑やかな母親たちの会話を少し離れた所で聞いていた。白いカーペットに座る俺の向かいには、一生懸命に千歳飴をしゃぶる紅色の着物に身を包んだ3歳になりたての弘子がいる。名も知れない白い花が咲き誇る紅の着物は彼女の祖母が七五三のためにわざわざ購入したものらしい。幼児特有の繊細な髪が日本伝統とも言える髪飾りで綺麗に結われ、彼女が少し身を動かすだけで藤の花を象った簪の薄紫がきらきらと揺れた。
視線を横のテーブルに移すと、食べかけの食事や空になったビール缶が沢山乗っている。散乱した割り箸の数からさっきまでいた工藤家の親戚は5、6人くらいだったのだろうとぼんやり考えた。
「ひろこ、いつまでやってんだよ。べとべとだろ」
千歳飴から口を離さない弘子に対し、もどかしさを露わにした俺の声が放たれる。
「いーやっ」
いくら取り上げようとしても、身体を捩ってまた千歳飴をしゃぶり始める弘子は、取られまいと小さな両手で飴をぎゅっと握り、丸い目で俺に精一杯の睨みを利かせてくる。せっかく会いに来たのに肝心の彼女は写真を撮った時にもらったという飴に夢中なのだ。慣れない真っ赤な口紅は口周りに広がって、挙句の果てには白い千歳飴にまで侵食している。何度引っ手繰ろうとしても無駄で一向に放そうとしない。いつもなら笑顔で走り寄って来てくれるものだから、見向きもしてくれない今日の彼女に俺は次第に高まる焦りやらじれったさで板挟みにされていた。このままでは塾の時間が来てしまう。
「あ、良樹」
やきもきしていると、母親のふと思い出したような声が掛けられた。
「4時から英語でしょ?ちょっと家に帰って準備してらっしゃい」
「してきたってば」
母が作ってくれた車の柄が刺繍された青い手提げ袋を見せてでかい口で返す。中身はデッサンが崩れた外国人がわんさか描かれたテキスト2冊と筆記用具。どうせ言われることは目に見えていたら準備しておいたのだ。
「あら偉い。さすが良樹ね」
驚かれるかと思いきやさらりと微笑んだだけで、母は弘子の母親の方に向き直ってしまう。
「英会話?」
「そう、もしかしたら数年内って話があるから」
大きな医科学研究所で働く父は発表した論文が評価され、アメリカで研究する機会を手にして、アメリカ移住への手筈を整えている最中だった。その一環として両親は半年前から英会話教室に俺を通わせている。アメリカと言われても8つの子供にはよく分かっていなかった。英会話教室なんて面倒なものに通わされて苛立ちの方が大きかったかもしれない。ただ塾が終わった後、最後にご褒美として配られるお菓子だけは間違いなく嬉しかったのは確かだ。
「アメリカかあ……もし行ったら良樹は日本人学校に?」
「ううん、うちの人が普通の学校に通わせたいって。いつか国籍も取らせる気でいるみたい」
日本人のために建てられた学校ではなく、現地のアメリカ人と同じ学校への編入。父は最初からそのつもりだった。アメリカに行ったら技術的に後れを取る日本に帰る気など初めから無かったのだろう。
「あっちの学校にも英語が母国語じゃない生徒のための授業があるんだけれど、地域によって力の入れ方が随分違うみたいだし、それに今は英語ができて困ることなんてないでしょ?だから今の内からやっといた方がいいかなあって」
トランペット、スイミング、バスケ。習字に硬筆。そろばん。母はいつも同じようなことを言って、俺にいくつも習い事をさせてきた。やらされている当時は本気で投げ出してやろうかと思った時もあったが、書く字が整っているのも、そこらの奴以上に体力があるのも、リズム感が良かったり肺活量があるのも、数字を見てもそれほど抵抗がないのも、アメリカに移住してから言葉に苦労しなかったのもすべて母親のおかげだ。今では感謝している。
「弘子は?エジプト行くかもしれないなら今から言葉やらせてみたら?ネイティブ並みになれると思うよ?」
「ううん、まだ予定の話だから。それに幼児向けのアラビア語教室なんてあまりなさそうじゃない?」
「それもそうか。アラビア語ってなるとまた違ってくるもんねえ。英語と比べて限られた地域しか使えないし。難しいわ」
弘子も弘子で、この頃からエジプトへの話が出ていた。彼女の父親は昔からエジプトに住んで考古学に携わり、いつかはエジプトへ移住というのが夢で、弘子の母親もそれを了承で結婚したという話だった。
夫がエジプトへ行くと言うなら、娘を連れてついて行く──きっとそんな覚悟が初めからおばさんにはあったのだと思う。小さな博物館の学芸員として働く夫のエジプト好きを、本当に理解し、応援している人だった。
「ああ、弘子!!」
急に立ち上がったおばさんが跳ねるような声を出して俺たちの方へと走り寄ってきた。
「着物汚れちゃうでしょ!」
よくよく見てみれば、弘子の口から太めの銀の糸がべろんと着物へと伸びている。言うまでもなく、涎だ。
「もう飴はおしまい。だーめ」
「いやっ!ひろこの!!いやー!」
弘子を後ろから手を回して抱き込み、慣れた手つきで千歳飴を取り上げて皿の上に置いた。
「かえしてー!いやー!」
お気に入りを取り上げられた幼い彼女は、今にも泣き出しそうに顔を大きく歪ませて遠くに置かれてしまった飴に向かって手を伸ばすが勿論のことながら届かない。そのまま弘子は母の胸に抱かれて向こうへ連行された。
「それ、クリーニングかけないと厳しいかもね」
「うんまあ、最初から綺麗なまま済むとは思ってなかったからいいんだけど……あーあ」
白い花についた紅を布巾で叩くように落とそうとするけれど、飴のべたべたと口紅が混じった涎の跡はしぶとく張り付いて取れないらしい。
「い、やあーあっ!!」
癇癪を起し始める弘子を見て、俺は部屋の隅に放られていた茶色のぬいぐるみを鷲掴み、走って顔をぐしゃぐしゃにする彼女に素早く差し伸べた。
「ひろこ、ほら」
名前を呼ばれてきょとんとした彼女は俺が差し出したものを見て、ぱっと顔を輝かせながら小さな両手を伸ばし、それを胸に抱く。当時の俺には何なのかよく分からなかった、得体の知れない茶色のぬいぐるみ。人のような。宇宙人のような。ぽっかりと空いた穴の目が奇妙で気味が悪くも見える。それでもこれが3歳の弘子にとっての一番のお気に入りだった。
「あら、良樹ありがとう。弘子もありがとうって」
「ありがとー」
二人にお礼を言われて嬉しさに心を躍らせつつ、自分の母親の隣に戻った。
「何それ、埴輪?」
弘子がぎゅっと両手で抱きしめる奇妙なぬいぐるみを見て、母が笑った。このぬいぐるみのモデルが日本古来の遺物であることを俺が知るのはこれから数年後のことだ。
「そう。最近はこれがこの子のお気に入りみたいで。もっとかわいいぬいぐるみもあるのに、何故かこれなの」
おばさんは膝に抱く弘子の口元を手拭きで拭ってやりながら苦笑した。
「何で埴輪?どこで買ったの?そもそも売ってるの?」
「この前行ってきた国立博物館で。お父さんがどうしても弘子を連れて行きたいっていうから3人で行って来たの」
「国立博物館って、上野の?」
JR上野駅公園口。そこから出て上野動物園や西洋美術館、国立科学博物館が立ち並んだその奥に明治5年から続く東京国立博物館という場所がある。
「そう。その中に東洋館っていう別館があるんだけど」
うんうんと首を上下にさせながら母はお茶を一口含む。
東洋館はアジアからエジプトまで幅広い小さな展示品を集めた、本館の横にある展示館だ。エジプトの品はあるものの、白骨化した頭部を持つ貴族のミイラと小さな木製人形、木製食器ぐらいしかない。学芸員がぽつりと座っているだけの黄金というものは一切ない、寂しい展示室。
「そこのエジプトの展示品を見た途端、弘子ったらそこから離れなくなっちゃって。帰ろうって言っても嫌だの一点張り。無理に抱き上げて引き離そうとしたら今までに無いくらいの凄い声で泣くものだから私もびっくりしちゃった」
「あー、それで慌てたお父さんがお土産屋さんでそれを買って来たってわけか。お土産屋さんにそんなの売ってた気がするもん」
「そう。小さいのもあったのに、わざわざ大きいやつを買ってきちゃって。でもね、渡したら気に入ったみたいでこの調子。ようやく泣き止んでくれてそのまま帰って来たってわけ」
母は身を乗り出して埴輪を抱き締める弘子に「良かったね」と笑って見せると、弘子も満面の笑みで大きく頷き返した。林檎のように紅潮した頬が光っている。
「帰りの車の中でなんて、お父さんったら『弘子も俺と同じでエジプトに興味があるんだ』って喜んじゃって」
「案外そうかもよ。弘子ちゃんって生まれてすぐ辺りからエジプト関係のものがテレビに映ってると泣き止んだり、目を真ん丸にして見入ったりしてたじゃない?ほらお父さんの持ってる写真とかにも」
「本当に不思議なのよね。でも別におかしなことではないから様子見てるんだけど……こんな色濃く父親の遺伝子を受け継ぐものかしら」
「まあお父さんのことを考えるとね、確かにね。エジプト好きの遺伝子、強そうだもの」
わっと、二人の笑い声が部屋一帯に響き渡る。いつもながらよく通る、頭にきんと来る二つの声。
そうだった。弘子はよくエジプトのものに見入る癖があった。大きな丸い瞳で、安っぽいミステリー風味で映されるピラミッドや神々の像に夢中になる。エジプトの雄大な夕陽や青い海原のようなナイルに釘付けになる。これは何だとか、これは誰だとか、いつもは人を質問漬けにするくせして、その時ばかりは凛々しいくらいに口をへの字に結び、図鑑の中の古代エジプトの世界を食い入るように見つめ続ける。そんな娘をおじさんは「弘子はエジプトが好きなんだ」で通していたし、おばさんは「大人しくなるから丁度いい」と不思議がりながらもあまり深く思うことはないようだった。
だが、その癖は弘子が年を重ねる毎にいつの間にか消えて行き、十代になる頃にはエジプトについて俺より興味を持たなくなっていた。まるで幼い日の記憶が次第に自身の中から薄れ、跡形もなく失われていくのと同じように綺麗さっぱり消えたのだ。
「でも良樹、よく弘子ちゃんを泣き止ませる方法知ってたね!偉いぞ!」
急に話がこちらに戻って、母さんの手が楽しそうに俺の頭を強めに撫でてくる。
「毎日弘子と遊んでくれてるもんね」
俺はおばさんの言葉に勢いよく頷いた。
放課後に校庭で少しサッカーを友達とやってから、走って自分の家を越え弘子の家まで行く。習い事の時間が来るぎりぎりまで弘子の相手をするのが俺の日課。絵本を読んだり、背に負ぶって走ってみたり、喜びそうなおもちゃを見つけては持って行って見せたりした。とにかく弘子が笑うことなら何でもした。弘子の笑顔が好きで堪らなかった。
「いっつも良樹がお邪魔しちゃってごめんね。本当にこの子ったら弘子ちゃんが大好きみたいで止めても無駄なのよ」
「いいの、いいの。面倒見てくれて私も助かってるし、弘子も良樹くんが大好きだものねー」
埴輪をぎゅっとしながら、かけられた問いにうんと大きく頷く弘子に、母がきゃっと声を上げた。
「あら~!それじゃ弘子ちゃん、うちにお嫁にくる?おばさんの子供になっちゃう?」
母がからかう。それに反応した俺は「えっ」と声を上げて顔を赤らめる。
「俺しないよ!」
「一丁前に照れちゃってんの、この子!」
否定しても母親はにやにやをやめず、おばさんも楽しそうににこやかに頬を緩ませている。
「弘子ちゃん、きっと大きくなったら美人になるよ。今だってこんなに可愛いんだから」
好きだと言う色めき立った感情はこの頃の俺には全く無い。ただ嬉しくて、でも気恥ずかしくて俯いた。これくらいで耳まで真っ赤にさせる俺は、生意気ながらも幼くて無垢だった。
ふふふ、と笑い合う母親たち。着物から覗く細い腕を回して母親に必死にしがみつく弘子。弘子の手から落ちた埴輪のぬいぐるみを拾い、そろそろ英語の時間ではないかと時計を気にする自分。
世界を包んでいた柔らかな母の笑い声が掠れ、愛しいくらいの視界がぼやけ、やがて消えて──俺は、遠い日の夢から目を覚ました。
部屋はまだ夜に浸り、暗闇に包まれている。おぼろげだった視界は黙って天井を見ていたら焦点が合い、徐々に目が闇に慣れていく。深く息を吐き、まだ重たい瞼の上に右手を添えて自然と漏れた自分の間抜けな声を聞いた。
喉がからからに乾いている。それなのに立ち上がって侍女に飲み物を頼む気にもなれない。瞼から手を動かして、前髪を掻き上げた。
嫌な夢だった。約束があるのだと3歳らしからぬ様子で口にした夢の中の幼い弘子。これが本当の記憶なのか、それとも俺の脳が作り出した偽りなのかは判別がつかない。それくらい遠い日の話だった。おそらく弘子自身も覚えていない。昔の自分がエジプトのものにどれだけ見入っていたかなんて。埴輪のぬいぐるみも捨て、エジプトの地にいても遺跡等の文明の遺物には見向きもせず普通の学生として暮らし、その両親でさえも記憶の隅に置き去りにしてしまっているくらいなのだから。なのに、消えていたはずの記憶ばかりが俺の中で噴水のように湧き上がってくる。
「……疲れた」
酷く掠れた声は、水を渇望していた。自分の声とはこんなものだっただろうかと内心ものすごく驚いたが、それだけだった。誰かに話すこともなく自分で思って、それで終わり。伝える相手もいないのだから、それ以上のことを口にする必要はない。
最後に弘子に会った日から2か月以上経っているのに、どうしてこんな夢ばかりを見るのか。幼い弘子の笑顔と、数か月前に見た俺に憎しみの切っ先を向け、涙を散らしたあの表情が交互に瞼の裏に現れる。瘡蓋も取れ、赤い筋となって残った弘子に切られた腕の跡も、目にするたびに胸に痛みを生んだ。安らぎも穏やかさも与えてはくれない。忘れようとしても消えてくれない記憶は止めどなく溢れて、俺の思考を覆い隠してしまう。引き剥がそうとしても俺を苦しめたまま離れない。何をしても。
「……どうしたの?」
隣からも同じくらい掠れた、それでも綺麗とも取れる声が囁き、滑らかな手が俺の頬へと伸びてきた。頬から顎先へ、細い指は流れていく。
「ヨシキ」
視線をずらすと、隣で寝息を立てていたはずの美女がとろりとさせた瞳でこちらを捉えていた。薄い瞼に囲まれた色気を含んだ瞳は幻想的な光が灯り、薄い形の良い唇は柔らかく弧を描いている。
俺の存在を消せると言った女。犯罪者の烙印を押された俺を匿う唯一の盾。弘子を失い、人のぬくもりを欲してようやく掴んだ絶世なる美女。慰めるように頬を撫でる細い手を掴み、彼女をそっと引き寄せる。
「何でもない」
迫った瞳にそう放ち、彼女の腰元に腕を回して肩口に顔を埋めた。何かしらの花を使った香油がこちらの鼻孔を掠めて、俺の狭い世界をそれだけが支配する。
この胸の隙間を埋める温もりが欲しい。彼女を失った、身体の中枢を吹き抜けるものを堰き止めてくれる器が。差し伸べてくれる暖かな手が。満たされることはないと嫌と言うほど思い知ったはずだというのに、俺は今もこうして無力さを晒し縋り付く。腕を回し肌に唇を落とすと、俺の頭を包み込む手がそっと添えられるのを感じた。女の柔らかな腕に抱かれて目を瞑る。
そうしていても瞼の裏に思い浮かぶ、ただ一人の面影がある。
未来も何もいらなかった。ただ、お前が欲しかった。始めから幻だったと思えればどんなに楽だろうか。
どれだけ抱いても。誰もが羨むような美女を手にしても。
弘子。お前を愛した記憶は、煙のようには消えてくれない。




