叶うなら
『──ここは、お前の墓だ』
その言葉を何度も脳内で反復させながら寝台に腰かけ、皺まみれのパンフレットを握りしめて部屋の隅の炎を凝視していた。
どう考えてもおかしい。彼曰く、KV62だと確信したお墓は私のものだと言う。正確には、もともと突然早世したアンケセナーメンのために作られたものであるため、あの墓は必然的に彼女を名乗る私のものであるということだった。そして「アンケセナーメンが急な病死だったために制作時間があまりにも少なく、とても狭い墓になった」という驚く私に続けられた彼の言葉。事実、ツタンカーメン王墓は王家の谷の64か所の王墓の中で一番小さく、狭い。それこそ王家の墓なのかと疑われてしまうくらいに。
KV62が狭いという点と、KV57の墓の位置という点では古代と現代で一致している。なのに、違う。彼の墓KV62だと思っていた所が今、私アンケセナーメンの墓とされ、現代で誰の墓であるか知らないKV57が今、彼の墓だとされている。考えれば考えるほど頭痛が重くなる気がした。
分からない。睨んでいた部屋の端の炎から目を背けて両手で顔を覆い、背を丸める。背中まで伸びた髪が前に垂れて膝上が陰った。
ああ、もう。
57が誰の王墓だったかが思い出せれば今の状況が少しは分かるのに。こんな不安に駆られることは無いのに。肝心なところでいつも思い出せない自分が腹立たしくて仕方がない。
「まだ考えているのか」
覆っていた手を離して顔を上げると、目の前に彼が呆れ笑いを浮かべて立っていた。
「今日は久々に外に出たのだ、疲れているだろう」
炎からの光が遮られ、私は彼の影の色に染まり切る。
「……つまり、ヒロコが悩んでいるのは私の墓が誰かのものと入れ替わっているということだろう?」
さらりと言って私の隣に腰を埋めた。寝台が小さく軋み、彼の顔で炎の橙と夜の影が競うように揺らめく。黄金を外した肌の褐色が黒に溶けていく。
「お前の時代で私が眠っていたのは今日私が連れて行ったあの墓ではなく、ヒロコが何も目印も無しに場所を当てて見せたアンケセナーメンの墓だったと」
そう。KV57は他の誰かの墓で、KV62こそがあなたの墓だった。
「勘違いではないのか?」
「そんなはずない……!」
へらりと鼻で笑うものだから、ついむきになって言い返した。
「あなたは私をあそこから呼んだの。絶対そう。間違いない……」
そう言うのに、自信というものが伴ってくれなくて声は徐々に消えてしまう。けれどあんな大切な、すべてが始まった地を忘れるはずがない。それに私の何かがここだと悲鳴を上げた。この胸が張り裂けるくらいに。あの時のことを思えばますます勘違いとは思えなくなる。
「ねえ……お墓の位置を変えたいという要望はあったりする?」
自分の足先に視線を落としている彼に期待半分で聞いてみた。もしそんな希望を持っているのなら、彼が自らの意思で墓をKV62にしたということになり、すべては丸く治まる。
「全く持ち合わせておらぬ」
難なく否定。
「なら誰かに譲りたいとか」
「私が選んだ最高の場所だ。誰に譲ると言うのだ」
「冗談、とか」
「嘘やら冗談の類は好きではない。今日見せたのが私の墓だ、間違いない。一体何度言わせれば気が済むのか」
挙がっていた可能性をすべて叩き落された。
確かにあれだけセテムの話を聞きながら満足げだったのだから彼が自ら変えたいなんて思うことの方が考えられない。
でもこのまま彼がKV57に埋葬されるなら、私が21世紀で見たツタンカーメン王墓KV62は何だったのかと言う疑問が残る。彼のミイラがあり、名前が記された副葬品で溢れていたからこそ、KV62が少年王の墓だと断定された訳で、あの墓がツタンカーメン本人の物であるのは明らかだったのだ。
何故、古代と現代で事実が違うのか。私の知識と今持つ情報ではどうにもこうにも進めない。思考は迷路の行き止まりにぶち当たるが如く行き迷う。
「それにしてもヒロコが私の声を聞いた場所か」
目を伏せがちにした彼が、何だか嬉しそうに口を緩ませて呟いた。
「え?」
「いきなり走り出したものだから何事かと思ったが……なるほど、私の声を聞いたのがあそこだったとは。それならば納得だな、なかなか面白い」
面白いだなんて。私がKV62に相当する場所を見つけて驚いていた彼は、その理由を聞いて何だかんだで納得していた。普通なら地図なしで見つけることが相当難しい場所を、私が迷わず探し当てることが出来たのは、タイムスリップしたその場所だからだと。自分の声が届いた場所だから本能的に探し当てられたのだろうと。カーメスとセテムは、自分の墓になるはずの場所であったから神の導きで見つけられたのだろうと非科学的な話で解決してしまっていたけれど、彼はそうだと信じて疑わない。
「全然面白がるところじゃないの、おかしなことが起きてるのよ」
歴史が違っている。問題はそこだった。墓の位置が違っているだけの話でも、それがどれだけ大きく重大な事実か。歴史が違っていることを、歴史が変わったという解釈に繋げるならそれでいい。反対に、この先が歴史通りで彼の墓が無理に62になるのだとしたら、墓を奪われるくらいの失脚が彼を襲うことが今後に予測され、若いまま命を失うことは変わっていないことになる。
歴史が変わったのか。変わっていないのか。このどちらか。
「それは?」
ふと、彼が私の横にあった無雑作に巻いたパピルスを指差した。
「色々と書き出してみたの。書いてまとめてみれば分かることもあるか思って」
手に取って彼に渡す。
「大したことは何もわからなかったの。むしろ謎が増えたみたい」
分かっていること、知っていること。今までこの目にしてきたこと、初めて聞いたこと。すべてを書き出して、もう一度よく考えて謎解きをしてみれば何かが見えてくるかも知れないと、谷から帰って来てすぐに箇条書きで項目ごとにまとめてみた。ナルメルにも今までの王墓の記述のあるものを借りて、過去に王墓の移動が行われたファラオがいるかどうかも尋ねた。どうにかしてこの不安を拭いたくて。何かしていないと、その不安に沈んで溺れてしまいそうで。
「何を真剣に書いていたかと思えばこれか」
彼は少し考える素振りを見せただけで、すぐにそれを巻いて傍のテーブルに置いてしまった。
「それほど悩むことはないだろう、皺が取れなくなるぞ」
眉間に皺を寄せ続ける私の顔を見て、やっぱり面白そうにそんなことを言う。
「私の墓だろうがそうでなかろうが、お前と私を結んだ場所だと思えば悪い気はせぬ」
淡褐色の目が柔らかくこちらを捕え、彼の手が動いて肩に流れた私の髪を一房取って指に絡める。いじっては解いて、いじっては解いての繰り返し。
「あの場所には感謝せねばならぬな」
あの場所が無ければ、きっと今こうしていない。あなたと私を繋いだ場所。
あなたには悪い気がしなくても私の気持ちは曇ったまま、現代と古代の王家の谷の違い過ぎる風景が頭の中を交互にちらついて私の意識を放してくれない。焦りと不安ばかりが追いかけてくる。
「場所が違う。ならばそれで良い」
くいと髪を引かれて隣を見たら、伏せがちだった彼の瞼が開いて、穏やかさを灯す淡褐色は迷わず私を映し出していた。
「未来が、変わった」
低い声が、鼓膜を揺るがす。
「そう思えば良い」
褐色の手は髪から離れて慈しむように私の頬を撫で、夜に溶ける声が耳元で囁かれる。彼の手が頬から肩へと渡って私を引き寄せた。私たちの間には互いの吐息が感じられるくらいの距離しかない。
「お前の知る未来と今が違う。私の墓が狭いものから広い立派なものへと位置を変えた。ならば未来が、とも考えられる。そうではないか?」
眼差しで同意を求められ、私は何と返したらいいか分からず俯いてしまう。
未来が変わる。それこそ古代に残ると決めた瞬間から望んでいたこと。彼を死なせやしない、それだけを思ってここまで来た。未来が変わって、彼の墓の場所も自ずと狭い62から立派な57へと変わった。今回目にしたのは、歴史が変わったことによる現象の一部。それならいい。それならば私たちの未来は元来の歴史を外れ、新たな歴史というものを辿ることになる。あなたの早死にという未来は変わる。
「……でも、文字が」
「文字?」
ひとつの気掛かりがある。
「変わらないの……変わってくれないの、何をしても」
ずっと手に握っていた、彼の略歴を乗せたルクソール博物館のパンフレット。随分前から持ち歩いているのもあり、皺が折れ目になって所々インクが消えかかっていた。歴史が変わるならこの文字も変わる。そう思って持ち続けていたその中の文字は一文字たりとも変わっていない。彼は若くして死に、KV62に埋葬されて1922年にハワード・カーターによって発見される。すべてがそのままで、歴史は変わっていないのだと私に結論を下しているようだった。
「もしまだ歴史通りだと言うのなら、これからきっとあなたの身に何かが起きる……私はそれが怖い」
王墓が奪われるという、今では考えられないようなすべてを引っ繰り返す何かが。権威を奪われ、命を落とすのかもしれない。殺されてしまうかもしれない。彼が。この人が。
見えない未来がとても怖い。
「そのようなことを気にしているのか」
泣き出しそうになる私とは反対に、目の前の淡褐色はしっとりと微笑む。
「必ずしも文字が変わるとは限らぬだろう。これとて人の手によって書かれたものに過ぎぬ。神の成した物ではない」
私の手からパンフレットを取り上げて、そっとこちらの腕を掴んで引き、抱き込んだ。
「私は未来が変わったと信じている。今回の墓の位置はその証だ」
真っ直ぐな迷いのない声で、私の頭を包み込むようにして撫でてくれる。
「ヒロコもそう信じれば良い。大丈夫だ」
言葉と一緒に額に落ちてくる唇の柔らかさ。抱き込まれ、耳に響く相手の鼓動。息遣い。鼻孔を掠める淡い香り。それらに包まれ身体を埋めて、胸を侵していた不安が陽に照らされたように薄まっていく。
「これから変わるのなら、未来を変えていくつもりでいるのならば、お前の知っていることなど次から次へと変わっていくはずだ。一々悩んでいたら切りがない」
書き出しても調べても分からないのなら、今私が出来ることはこの人が言う通り信じることだけなのだろう。
視線を上げた先には見惚れるくらい澄んだ眼差しがある。これからも色々と変えていってやろうと肩をそびやかすその人に、微かながらも頬が緩んだ。両手をその頬に添えると、少しくすぐったそうにしながらも微笑を浮かべて嬉しそうに私にその顔を寄せてくれる。
ああ。笑って欲しい。もっともっと、笑っていて欲しい。
何度も繰り返し思う。
それでも私は知っている。こんなに穏やかな綻びを描いていても、あなたは今回のことも深く考えているのだと。真剣に、そうなったらどうするかということまで頭を巡らせているのだと。そうでいながらそんなに強く、戸惑うこともしないで迷わず前を向いていられる。私に大丈夫だと笑う余裕を持っていられる。それに比べて私は、と情けなくなった。
「……ごめんなさい」
私の言葉に首を傾げるその人から手を離した。
「いつもあなたに慰められてばかりね。私はあなたに何もしてあげられない」
なかなか役にも立てず、落ち込んで。助けてくれるのは、私に手を差し伸べてくれるのはいつもこの人だ。
肩を落とす私に、彼は息を吐くようにして笑った。
「まあ、それが私の役目でもあるからな。それが嫌だと思ったことはない。むしろやり甲斐があるというものだ」
一緒になると決めた頃から覚悟していたと、からかうように続ける。
「それにヒロコには自覚がないのだろうが、私はかなりお前に助けられている。そこまで己を卑下することはない」
「そうだと良いのだけれど」
自分がこの人の助けになった心当たりがなくて苦笑する。もっと私に強い心と力があれば。
「私としては……」
肩を落とす私に彼は軽くふざけるように言った。
「謝られるよか、何かをもらった方が私としてはいい気がするのだが」
そう言われて、あっと思った。夫婦になって以来何か贈ろうと思っていながら、結局彼に何も贈れていなかった。唯一贈ったものと言えば、夫婦になる前、ナイルの氾濫の習慣に則って衣服を繕っただけだ。
「何がいい?」
この際だからと思い切って聞いてみると、彼が少しだけ驚いた表情を見せた。
「あのね、前々から何かあげたいってずっと思っていたの。でもあなたが欲しいと思ったら手に入らないものはないでしょう?それに私も出来ることは限られてくるし……なかなかいいものが思いつかなくて」
彼が望めば何だってすぐに手に入る。ならば未来にいたことのある私にしかできない、手に入らないような珍しいものがいいだろうと考えついてはいた。
「料理なんてどう?作ってあげたことないから。私のいた時代の料理なら私にしか作れないでしょう?数年ぶりになるけれどお母さんの手伝いもそれなりにやっていたから、そんなに不味くはならないと思うの」
未来にあった食材や調味料がこの時代で手に入るか不安はあるものの、代用品は見つかるだろう。砂糖は無くても蜂蜜はあるから甘さにおいては何とかなる。塩は存在しているし、ケチャップ類は今まで食べてきた料理を思い返せば相応のものが見つかりそうだ。
「口に合うか不安だけれど、初めて食べるものだろうから新鮮だと思うのよ」
唯一浮かんだ料理を提案してみたものの、彼は迷うような様子を見せた。料理は、駄目だっただろうか。
「あのね、嫌だったらいいの。何か別のものを」
そこまで言って、相手の息の詰まるような真剣な眼差しに気づき、口を噤んだ。こんな表情を見るなんて私が古代に留まると告げた時以来で戸惑う。先程まであれほど飄々としていたのに、何か変なことを言ってしまったのかと心配になって口を開きかけると。
「いや」
彼が静かに首を振った。
「……料理は嬉しい。お前が作ると言うのなら、どんなに不味くとも食べよう」
不味くてもだなんて真剣な面持ちで言われて、私はそんなに料理下手に見えるのだろうかと笑ってしまう。でも彼の口調から望みはそれではないと言っているのが遠まわしに伝わってきた。
「望みを、言ってもいいのか」
私の手を掴んで、握った。熱い体温が肌から身体中に流れ込み、私の胸は早鐘を打ち始め、彼が言わんとすることに緊張が走る。強い力を手に感じながら私が頷くのを見届けた彼は、こちらに僅かに身を乗り出して唇を開いた。
「子が、欲しい」
ああ、と息が止まる。
「今何よりも、ヒロコとの子が欲しい」
目を見開く私を見て、彼は迷うように唇を噛みながらも手を優しく握り直す。
「無理にとは言わぬ。まだお前が完全に立ち直ったという訳ではないのも分かっているつもりだ」
再度、強い眼差しが私に向けられる。
「だが今、何を望むかと聞かれて正直に答えても良いと言うのなら、」
見入られて視線を逸らせなくなる。呼吸の仕方さえ忘れてしまう。
「お前を抱きたい」
あの子を失ってから台風のように様々なことがあった。私自身立ち直るのに時間がかかって、互いに互いの気持ちを何となしに分かっていながら言葉にして話し合えていなかった。これからのこと。子供のこと。あなたや私が、新しい命を望んでいるかどうかと言うこと。
『──やっぱりもう一度授かるしかないと思う』
ヌビア王妃の最後に向けてくれた言葉を思い出す。彼の中にもこの言葉があるのだろう。
望んでいない訳ではない。切望していると言ってもいいくらいに授かることを願っている。けれど、今まで彼にそれを言い出せないで何もせずここまで過ごしてきたのは、また流産して愛しい命を失ってしまうのではないかと言う気持ちが拭えないでいるからだ。
流産の出来事は今でも時折夢に見る。恐ろしいくらいに鮮明な夢だ。その度に怖くて堪らなくなって様々な感情に苛まれ、夢から覚めた後に泣いている時が少なからずある。彼もそれを知っていて、そんな私をずっと支えて来てくれていた。
押し黙ったまま、私を捕えて離さないその人を見上げた。切なげで苦しそうでもある熱い瞳が私だけを映している事実に、自分の胸に火が灯る。私が落ち着くのをずっと待っていてくれた。文句も何も言わず、責めることもなく待っていてくれたのだ。慰めて慰めて、辛抱強く傍にいてくれた。
ずっと記憶に縛られ、同じ場所で足踏みをしていては何も始まらない。このままではいけない。私も進まなければならない。
意を決して一度閉じた瞼を開く。熱を伝えてくる相手の骨ばった手に、私のもう片方の手を添え、そのまま彼の腕を辿って肩へ回した。広い肩口に額を寄せ、彼の胸に身を預けてそっと頷き、自分の望みを相手の耳元に囁く。煩わしいものを振り払ってしまえば、私は一身に彼と同じことを望んでいた。
こちらの返答を耳にした相手は、私の背に腕を回して自らの胸に押し付けるように強く私を抱いた。
「──ヒロコ」
熱い吐息と共に唱えられた私の名。片腕が背に回り引き寄せられ、指先が頬から首筋を辿り、重なって来た唇に柔く食まれて吐息を奪われる。始めの軽い口付けから、時間をかけて繰り返し深まっていく甘い口付けに息が上がる。何度も紡がれる名前が掠れ気味になり、胸の奥は愛しい人の吐息で満ち、私の世界は彼だけになる。心音や息遣い以外の煩瑣な音が、止んでいく。
私が彼の首に手を回すと、背に手を回されたまま静かに押し倒された。互いの息を感じ取れるほど顔が近く、相手の色めいた視線に胸の奥が震えた。まるで最初の夜に戻ったかのように彼のさり気無い仕草や息遣い、鼓動、ひとつひとつに胸が高鳴ってどうしたらいいか分からなくなる。鼓動が大きく身体の中で鳴り響き、彼の顔が胸元に近づく度にこの音が相手に聞こえやしないかと心配になる。生暖かい波に揺られているような心地も相まって、相手の顔をやんわりと引き寄せると彼は宥めるようにもう一度唇を重ね合わてくれた。髪や頬、肩を撫でられ、丁寧に頬から首筋へ伝っていく濡れた唇の感触と、繰り返し名を呼ぶ声が、愛しい、愛しい、と囁いているようで頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。
やがて衣に手を掛けられ、肌に彼の指が優しく忍び込んできた。これから愛しい人に抱かれるのだという幸福感と期待感が押し寄せ、堪らず目を閉じた。
その閉じた瞼の裏に、ほんの一瞬、見知った面影がちらついた。それが今自分に触れている彼ではなく、他の誰でもないあの人だと悟った瞬間、麻酔のように私を包んでいた恍惚感が突然弾かれ、身体が強張り、拒むように彼の胸を柔く押し返した。姿を潜めていた恐怖が記憶と共に飛び出してきた。
「……どうした」
変化に気づいた彼が手を止めてこちらを覗き込む。
「あ、の人……あの人が……」
大きく息を吸おうとするものの、過呼吸のようになって言葉がはっきりと出てこない。自分の胸郭が大きく上下して止まらない。
「ヒロコ、」
これでもし私が妊娠して、それをあの人が知ったらなら──それを考えただけで血の気が引いた。雪崩れ込んでくるものに耐えきれず自分の顔を両手で覆う。何度も夢に見た光景が否応なく蘇ってくる。
「よ……良、樹が」
未来の利器を手にするあの人に、古代に生きる誰が勝てると言うのだろう。
殺してしまうかもしれない。また産めないかもしれない。王家の子供が狙われやすいこの時代で一々怯えている方が馬鹿なのかもしれない。でも自分の子供が二度も殺されて、それに耐えられるほどの強さを私は持ち合わせていない。
あれだけ辛かった。悲しかった。この身が千切られるほどに苦しかった。彼も同じだろう。私が身籠ることで今もどこかにいる良樹が動くのなら、愛しい命をまた奪われ、この愛しい人がまた悲しむくらいならば、彼の望みを断った方がいいのではという考えが涙になって込み上げてくる。あの良樹なら、きっとまた同じことを繰り返す。
「させぬ」
真っ直ぐな声が鼓膜を揺るがした。目を覚まされたように、目先の相手へ視線が向かう。
「身籠った時はお前を匿うつもりでいる。誰にも手出しはさせぬ。決して」
低い声を響かせるその淡褐色と見つめ合う。彼が荒々しく私を抱き締め、触れ合う部分から燃えるように身体の熱が増していくのを感じた。
「守り抜く。何に代えてでも」
決意に満ちた声に、涙が目尻から流れて行った。
「……アンク」
私は瞼を伏せて頷き返し、ここで踏みとどまってはいけないのだと頭に流れる記憶を振り払うと、再び震える腕を彼に回して力の限りしがみ付いた。
理屈なんて分からない。彼の言葉にどうしようもなく安堵し、一秒でも早く心と身体のすべてで彼への想いを伝えたい気持ちが勝った。この愛しい人の望みを叶えたかった。
嗚咽の混じった声で彼の名を呼ぶと、彼の重みが身体に掛かる。纏っていた布が取り払われ、肌に熱い唇と手や指がしっとりと伝っていく。腕が絡み吐息が溶けて、身体の芯が燃える。汗が伝う彼の頬に私の髪が張り付いて、彼に酔わされながら縺れ合う指に何度も想う。
──叶うなら。
もう一度授かれるのなら。
私は、あなたの子を産みたい。
たとえ、この命に代えてでも。




