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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
15章 魂の行方
102/177

57・62

 英語表記でKings Valley。その頭文字から略称をKV。考古学上では、発見された王墓を略称KVの後ろに発掘番号をつけて呼ぶ。故に、王家の谷で62番目に発見されたツタンカーメン王墓の名はKV62。

 私のいるこの時代から約200年、現代から加算すると約3500年前、ハイエナのように墓泥棒が横行する時代背景で、新王国時代のファラオ、トトメス1世が考案し、自分の墓の在処を隠す目的でそれ以降の王族がこの谷に岩窟墓を建設していった。場所の情報が漏れないよう、墓を作る職人たちは全員目隠しをして連れて行かれ、その手伝いは皆言葉の通じない外国人捕虜たちが使役された。墓が完成し、すべて終わった後は関わった者全員を抹殺した説まであるほど、エジプト王家は完全なる機密を幾千年と固持し続ける。

 墓泥棒は見つかれば裁判にかけられ、問答無用で死罪。その裁判記録は現代において重要な資料として博物館で保存、研究が続けられている。私が持つ知識はそれくらいだ。

 彼が重要な役職につくセテムたち以外を全員宮殿に戻したのが、その谷に行くためだったのだとナイルまで行く道のりでようやく分かった。

 今は東岸に馬を置き、ナクトミンにそれを任せて、セテムとカーメスと共に木製の船でナイルを渡っている。誰にも見つからないよう息を潜め、日除けに身を包んで黒めの大河を東から西へ進んでいく。細いオールが鳴らす水音が時折耳を打つだけで、他は静寂に覆われている。水面に生まれては消えていく波紋は崩れた私の姿を映して無くなり、夕陽の美しい橙は、目的の岸に近づけば近づくほど西の谷に覆い隠されて、辺りの光は奪い去られた。どんどん周りの空気が冷えていくようで身を縮める。


「……どうして谷へ?」


 孤独さえ感じるような冷たい沈黙に耐えきれなくなり、その谷をじっと見据える向かい側の彼に尋ねた。囁くように聞いたつもりなのに、この静けさでは大きいくらいに響く。


「行きたいと言っていただろう」


 まるで旅行にでも行くと言わんばかりの、飄々とした答えが返ってきた。行きたいと言ったのは古代に来た最初の頃であって、今となってはあまり行きたくないというのが本音だ。どうしてと尋ねられても言い様のない恐怖がのけ反っていて上手く説明できない。


「まあ、谷を歩くだけだ。アケトアテンにあった父と兄の墓を遷してから来てなかったからな、一度は一緒に来てみたかった」


 身を小さくする私を宥めるように彼は私の肩を撫でた。

 異端王ということで墓荒らしにあったアクエンアテンとスメンクカーラーは墓自体をアケトアテンから移動させた。その移動場所がこの谷だと言う。


「母もいる。祖母も祖父も。私に繋がる者たちが皆眠っている地だ。それでも今回は私の墓の場所の確認のみに留めるつもりではあるのだが」


 両親、祖父母、兄弟。彼にとってはとても大切な、掛け替えのない遠い昔から繋がる家族が眠っている場所。墓参りのようなものだと自分に言い聞かせ、溢れる妙な恐れに蓋をして頷いた。


 船から降り、西岸にいた番人が用意していた馬に乗り継ぎ、緑から砂漠へ地面が移ろうのを眺めながら20分ほどで谷の奥まった所へ辿り着く。

 王墓位置は王族とそれに関わる重要役人しか真実を知らされず、王族さえ生前の内に数回ほどしか足を踏み入れないという死を表す地。

 吹き流れる砂を混ぜた小さなつむじ風が、降り立った私の横を通り過ぎた。砂は舞い、風が唸り、身を縮めてしまうほどの悲しさを胸に植え付ける。ここがテーベ西岸の奥、王家の谷。


 ──ああ。

 時が、止まっている。


 立ち竦んだ谷でそう思った。日本でいう真冬の時期に相当する今のエジプトは、雪もなく、肌を貫くほどの寒さもなく、ただ真夏より弱まった太陽で肌寒く感じられるだけだった。

 話し合う彼らから数歩離れたその場所に、私はぽつりと立っている。

 草も木も生えることのない、荒れ果てた砂と岩の大地。なんて寂しい場所だろう。昼にいた民の賑やかさなんて幻想の産物だったのではないかと思うくらい、静けさに満ちている。現代にあった王家の谷を区切る柵も、チケット売り場のボックスも遺跡の管理人たちもいない。観光列車や安っぽいベンチも、飲み物やお土産を売り歩く裸足の少年も。排気ガスをまき散らす発掘用トラックや、発掘アルバイトをする男性も、世界のあちこちから来る観光客も、飛び交う多くの言語も。墓の入口を囲む壁も、看板も、穴も階段も、何も無い。本物の殺風景だ。耳に流れてくるのは砂が躍る音だけ。

 目を閉じて耳だけを澄ませていたら、いつか私もここの砂に還っていくのではと思うくらいの沈黙がしんしんと降り注ぐ。世界は砂と私のみとなって、時間の存在も無いここで身体も言葉もすべてが朽ちていくような感覚がある。ルクソール神殿で覚えたものとはまた違う。悲しさと切なさが身体中から込み上げて、思わず自分を抱き締めるように腕を回した。ここが墓という事実からのものなのか、それとも別の何かからのものなのか分からない。でも、小さな震えが止まらない。高く、天高い谷の形は夕陽が背後に回ってしまっているせいか、明暗がはっきりして不気味にさえ感じられる。地面を覆う砂が波のようにうねり、自分が立っている場所が現代で言うどこなのか照らし合わせることができなかった。

 この時代ではまだ、すでに埋葬されている王墓は砂の中に隠されたままだろうし、隠されている数自体も少ない。私のいるこの第18王朝は、王家の谷でも巨大王墓を持つセティ1世やラムセス6世は生まれてもいない時代であり、目立つ彼らの墓は存在すらない。隠された墓の位置は時と共に忘れ去られ、最初にここに王墓を作ったトトメス1世の王墓がこの谷のどこにあるかさえ、この時代ではもう誰も知らない。

 寒い。怖い。

 日除けの麻の網目を通り抜け、肌を掠める風が私から体温を奪っていく。得体の知れない何かが私に向かって地べたを這ってくるような恐怖が止まらない。


「待たせてすまなかった」


 不意に背後から腕が掴まれて熱さが灯り、私の思考を断ち切った。はっとして顔を上げると、「どこに誰の墓があるのか自分自身も思い出せず、セテムたちと話していたのだ」と苦い笑みを浮かべている彼の顔があった。


「……震えているのか?」


 私の肩に触れた彼が、ふと気づいたように眉を寄せて言った。


「顔色も悪い。大丈夫か」


「だ、大丈夫」


 声は掠れて途切れる。ただ佇んでいただけのはずなのに、こんなに震えているなんてみっともない。


「少し冷えただけなの。心配しないで」


 何度か肩を擦ってから日除けを羽織り直して笑って返すものの、彼はますます顔を顰めて私を抱き寄せ、パピルスを広げているセテムを呼んだ。


「羽織るものはあるか?」


「いかがなされました」


「無理をし過ぎたのやもしれぬ」


 今自分がどんな顔色をしているのかは鏡を見ないと分からないが、私の様子を窺ったカーメスとセテムまで彼と同じような表情をした。よっぽど私の顔は青ざめているらしい。


「久しぶりの外出ということもありましたし、本日はやけに冷えますからね。これをお召ください。ネチェル殿から預かって参りました」


 カーメスが馬の背に積んでいた荷物から黒い生地を取りだし、両手で彼に差し出した。今羽織っているものよりもずっと厚い生地だった。


「お風邪でも召されたら一大事です。ファラオもお召ください」


「お前たちの分はあるのか?」


「ご心配ご無用。ネチェル殿にはお見通しのようでございます」


 カーメスは残り三着を並べてみせてにっこりと笑った。セテムもどうぞと、この場にいる4人全員が黒装束になる。さすがは女官長と言うべきか、準備の良さに関して彼女には頭が上がらない。

 再度谷を仰ぐ。夕方から夜の砂漠は冷えるとよく言うものの、ここは異様に寒い場所のようにも感じられた。


「私の墓を確認することだけ、させてほしい。場所だけ確認したらすぐに戻ろう」


 再び馬に私を乗せながら彼が言う。今から向かうのは、あのKV62なのだと思うと嫌な緊張が走る。されるがまま馬に乗りこみ、3頭の馬がゆっくりと進み出す蹄の音をぼんやりと聞いていた。


 どこを見ても同じような風景が続く。同じ色の石と岩、そして砂。

 呑まれてしまいそう。埋もれて消えてしまいそう。寂しさを湛えた、この茶色の世界に。

 馬上の単調な揺れと、包んでくれる彼のぬくもりでどうにか忍ぶような恐怖を最低限に保てていた。


「……ここを管理している人はいるの?」


 王墓の在処が記してあるパピルスに視線を落とすセテムを見て尋ねた。

 これだけ歴代の王たちが眠る谷を誰も管理しないのもまたおかしいように思えた。墓を作る際の指示や防犯などは誰が行っているのか。


「西岸の神官たちがいる」


 答えてくれたのは彼だった。


「西岸の神官?」


 初めて聞く言葉だ。神官たちは神殿だけにいる存在ではないらしい。


「王の墓を守護することだけを使命とした、東に生きる我々とは関りを一切持たない者たちだ。故に我々の前には現れぬ。私もその長であるマヤには書簡でしかやり取りをしたことがない。顔など尚更見たことがないのだ。彼らは死の谷に生きる孤高の者たちであるとも言える」


 死の世界である西において、王族の死後を守る者たち。太陽の昇る東で生きている私たちとは決して顔を合わせることはない。


「今回も話は通してあるのですよ。ただ、彼らが介入してくることはありません」


 カーメスがそう付け加えてくれた時、先導していたセテムが馬を止めた。


「あの辺りで御座います」


 側近が指で示すのは、谷の盛り上がっている隣の箇所だ。


「あそこ、なの?」


 ふと口にした疑問は、「間違いないありませぬ」とセテム揺らがない口調に叩き落されてしまう。


「確かにそうだ、私がここと決めたのだ」


 彼も懐かしそうな表情を浮かべて数回頷いた。私以外の様子を見てみると、いかにもここだと自信に満ちた面持ちが3つもあるものだからそれ以上言えなくなる。

 でも本当に、あの場所だっただろうか。KV62はこんなに谷の奥まった所だっただろうかと、疑問ばかりが執拗に私の胸に突っ掛った。


「前の月にて5人の職人たちを雇い、ある程度の所までは完成しております」


 妙な違和感を抱いたまま馬を降り、地面を踏みしめながら彼の隣でセテムの話に耳を傾ける。歩み寄ると、その場所でカーメスが大きな石をずらして砂を払っていた。何をしているのかと近づくと、砂の下に木の板のようなものが固定されているのが見える。


「もしかして、これが入口?」


 私の問いにセテムがいかにもと頷く。


「作業をする時のみ、ここを開きます」


 これを開けると下へと続く階段が広がっているのだ。板の色も綺麗に周りに溶け込み、ここだと言われなければ分からないような隠し方だった。


「この板の下から次の間へ繋がる通路にはすべて土砂を詰め込んでありますので、何者かが単独や少人数で忍びこむことは難しいでしょう」


 セテムの話に彼は納得したように「うむ」と頷くのを聞きながら、私は辺りを見回していた。

 確かに、あの茶色の自然の斜線はいつだったか見たことがある。ここから見える谷の風景、ナイルへの方角と、現代で見たことのある大きな岩石の位置。




 いつか。






『──おいで、弘子』


 唐突に、父の声が耳に鳴った。その声を発端に、頭の端に眠っていた記憶が弾け出す。

 地面の小さな石ころを蹴って歩いていた私は、呼ばれて顔を上げて父を仰いだ。そう、丁度私が今立つ場所から数メートル離れた所に。


『──弘子、ほら、お父さんが呼んでるわよ』


 手を繋いでいた母の微笑みに促され、私は母の手を離して駆け出し、広げて待っていてくれる父の大きな腕の中に飛び込んで、そのまま抱き上げられながらくすくす笑う。


『──あそこを見てごらん』


 そうやって見た光景と、今見ている光景はほぼ同じ。ただ父が見せてくれた所は、そこに大きな窪みが下に開くようにしてあり、その奥に墓を保護するための周りの壁と、四角に切り抜かれた穴、料金所があった。違うのは、そこだけ。


『──あれも王様のお墓?』


 私の当たり前とも言える質問に、父はにこやかにそうだよと頷いてくれる。


『──KV57』


 62ではなく、57。この谷で57番目に発見された王墓。でも、彼の王墓番号は。


『──墓泥棒に盗まれてしまったけれど、エジプトのファラオに相応しいとても立派なお墓だったんだ』


 風が音を鳴らし、前から後ろへと一気に吹き流れた。

 墓泥棒に盗まれた?いや、彼の王墓は墓泥棒に荒らされなかった唯一の王墓だった。場所も違う。そして番号は62。


 疑問が確信へと、一瞬で姿を変える。変わって、私の頭を大きく揺るがした。

 ここは、彼の王墓ではない。




 KV57が誰の墓なのかを、私の記憶は語ってくれない。父は私に何と教えてくれたのか。墓が違うと思っても、私の気のせいということも考えられる。エジプト史に興味が無かった自分のことだ、記憶違いをしている可能性も捨てきれなかった。


「黙り込んだままだが、本当に大丈夫か」


 来た道を戻る中、無言のままの私を気にかけてか、彼が声をかけてくれた。


「え、ええ……」


 曖昧な返事をしながらもまた思考はもとに戻ってしまう。彼に言いたい気持ちはあっても、言える段階までの確証を私は持っていない。ただでさえ、この殺風景の中で特定の場所を現代と照らし合わせるのが難しいというのに。


「何とか形までは出来ているという話だったな?」


 彼がまた王墓の話をセテムと続ける。


「はい、壁画はまだに御座いますが、形はとても立派な形式を用いており、ファラオに相応しいものとさせていただいております」


 違う。あの場所ではない。最初に自分の墓と決めていた場所を変えるということは、よっぽどの理由がないと行われないことのはずだ。ならば何故、王墓の位置が違うのか。何故あの場所が自分の墓だと言うのか。何度質問を投げかけても意味を成さないまま、どんよりとした気持ちばかりが私の中を弄る。


「ヒロコ、あそこの岩がある所が我が兄スメンクカーラーの墓所だ。向こうに行った場所に父のものがある」


 開けた場所に出て、彼に示されて何気なく見た、ある一点に釘付けになった。一つの小さな谷が終着するその場所に。

 視線は金縛りにでもあったようにそこから離れない。砂の吹き行く音が嫌に大きく鳴り響く。


「あそこ……」


 ラムセス6世の墓もない。けれど、あの傾斜を私は知っている。見覚えがある。

 胸の鼓動がいきなり早くなって、落ち着くという言葉の意味を失う。


「止めて」


 通り過ぎる時、私の口が自然とそう動いた。小さく発せられた声に、前を行っていたセテムが振り向く。


「止めて……!!」


 馬が止まると同時に私は馬上から飛び降り、走り出していた。砂を蹴り、闇に包まれる間際の谷の上を駆ける。何かに引かれるようだった。


「ヒロコ!」


 彼らの声にも関わらず動き始めた脚は止まろうとしない。何かが私を引く。こっちだと、風や砂や、今私を取り囲むすべてが私に大声で訴えているようで怖い。泣きたくなった。抑え込まれていた恐怖が私を蝕んで、声を上げて泣きたくて堪らなくなった。転びそうになりながらも持ちこたえ、私を離して止まないその場所へと足を動かす。

 そして辿りついた場所に膝を付き、乱れた呼吸のまま無我夢中で石をどかし、砂を払う。間もなく私の足元に、KV57を封じていたものと同じ木の板が現れた。


「……入口」


 墓の入口。やはりここに墓がある。それも未完成のものが。


「ヒロコ」


 小刻みに震える私の肩が大きな手に引かれた。私の手元を見て、また息を呑む音が聞こえた。


「何故、この位置を知っている」


 戸惑い気味の彼の声が頭上が降ってくる。背後からセテムやカーメスも何か言っていたが、耳の傍を通り抜けていくだけで消えていく。

 どういうことだろう。何故、墓が違うのだろう。


「あなたのお墓、ここなの……」


 傍の彼にしか聞こえないような掠れ声で、私はそう告げた。虚を突かれたような、彼の声が背後から続く。


「あなたのお墓……ここだった」


 ここが、KV62。

 遠い未来、最も有名なエジプト史跡となる位置。その未来で私があなたの声を聞き、応えた最初の場所。


 ツタンカーメン王墓。



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