5.うたかたの記憶
「――のこと、見捨てない?」
人間は平等なのです。悪意を振り撒く人間も、暴力をふるう人間も、人を嘲る人間も、最後に行きつく先は同じなのです。つまり、人間が定めた法とは、生きている人間のためのものであり、人間関係を維持し問題をなるべく少なくして生きていくためのものなのです。
ですから、私は、罪を犯すことを、過ちだとは思いません。
――そう言ったのは、誰だったろう?
泡沫のように消えていく記憶は、いつもヒロの心の底で浮き上がっては沈んでいく。
「ヒロはなんで死んだの?」
そう問われて、記憶がぽつりと膨らんだ。水面が泡立つかのようにポツリ、ポツリと。
死んだ時の記憶はほとんど無い。生きている時の記憶もあまり無い。
覚えているのは、誰かに最後「ヒロ」と呼ばれたことと、呼ばれた瞬間、伸ばした手の先に大きな空が広がっているのを見たことだけだった。
死ぬ瞬間の、焼け付くような記憶。
ああ、死ぬんだ。
そう思った。それもいい、とも思った。
執着が無かった。生きていることにも、死んでしまうことにも。
けれど、どうして『あの人』は、あんなにも必死になって、俺のことを引き止めたのだろう。
死ぬな、生きろと、どうして言うのだろう。
断片的な記憶のかけらに、困惑する。
自分の感じたこと、考えたことなのに、まるで赤の他人の思考回路を覗き込んだみたいで、ヒロは吐き気すら覚えてしまう。
そして、やっぱり死にたくない、生きたいんだと――どうして死ぬ間際になって思ってしまったのか。
「俺、馬鹿だなあ」
柔らかい手だった。白くて細かった。綺麗に手入れされた爪を見るたび、心が弾んだ。
大人ぶって頭をなでてくる時の、そっと伏せられる長い睫毛が妙に色っぽくて、ついついからかいたくなって、頬をなでた。
それだけなのに、真っ赤になる『あの人』が、好きだった。
――あの人って、誰だろう……
それが、未練なのか。
『あの人』に会えたら、俺はどうなってしまうんだろう……
*
髪の毛に触れる感触に、ヒロはふと目を開いた。
白い手が、おどおどと髪の毛をなでている。
小さな子が怯えながらも興味津々に動物に触れているかのような、微妙な距離感のある触り方に、ヒロはくすぐったくなって笑った。
「寝たふり?」
ヒロに呼応するみたいにタイミングよく笑い声が頭上から聞こえてきて、はっとする。
死んでしまった自分に触れることが出来る人間なんているのか。そんなわけが無い。
死んでしまったことの方が夢に思えて、淡い期待を抱きながら顔をあげると、大きな瞳を細くして微笑む女の子がいた。
誰だっけ……一瞬記憶が混濁してうろたえたけれど、すぐに思い出す。
この子は、『愛理』で、俺が見える女の子。
「ふりじゃないよ。寝ちゃった。一瞬」
なでられていた時の微妙な距離感は、彼女が幽霊である自分に触れられないから、なでたふりをしていたせいだったのだ。
やっぱり夢ではなかった。自分は死んでしまっている。そう思うと落胆が大きくて、どうしても力が出ない。
起き上がることが出来ず、愛理の肩にもたれかかった姿勢のまま、小さくため息をついた。
いつもそうだった。死んでいるんだと自覚すると、途端に自分が希薄になったような感覚に陥る。
死を悟った瞬間、人はきっと消えてしまうのだ。
ヒロはつなぎとめられている。ここにまだいたいという思いに、なんとかつなぎとめられて、ここにいる。
死んでいるとわかっているのに、切望してしまう。だから、残ってしまう。消えることが出来ない。
「ちょっと、このままでいてもいい?」
聞くと、愛理の体がピクリと動いた。
嫌なのかな、と顔をのぞきこむと、恥ずかしそうに口を噛んでいる。
「愛理ちゃん、かわいいね」
思わずそうもらしてしまうと、愛理の顔はゆでだこみたいに真っ赤になってしまった。
かわいい、もう一度つぶやいて、目をつぶる。
誰かがそばにいることが久しぶりすぎて、離れがたい。
花のような優しい香りは、ふわりと鼻腔から心の奥に広がって、忘れかけた記憶に触れてくれる。
そうして思い出される記憶は、とても……とても心地の良いものばかりだ。
*
「ヒロが好き」
頬に触れるヒロの手を両手で覆って、『あの人』はつぶやいた。
あまりに小さな声だったから、照れ隠しと嗜虐心がもたげてきて、「聞こえない」と耳元でささやいてやった。
すると『あの人』は窓から差し込む西日みたいに真っ赤になって、「馬鹿」と口を尖らせる。
手の平から熱が伝わってくる。
「俺も好き。――が好き」
耳に顔を近づけたまま言って、そのまま耳たぶに口付ける。
頬に一回、さらに口付けて、顔をあげた。
目の前にいる『あの人』は目をぎゅっとつぶって、硬直していた。
まさかこういうの初めてなの? と思わず聞くと、虚勢を張るように顎をしゃくって、「違うよ!」と言うけれど、反応は初々しくて、初めてとしか思えなかった。
「……これからもずっと一緒にいてほしいな」
もう一度「好き」と言えなくて、回りくどく再度伝えた告白を、『あの人』はどう受け止めたのだろう。
ほんの数秒の間が、とても長く感じた。
返事を戸惑う彼女の迷いを断ち切りたくて、答えも聞かずに、唇に触れた。
耳の後ろに添えた手に力をこめて、引き寄せれば、彼女は抵抗もせず受け入れた。
だから、さらに力をこめて抱きしめて、甘噛みしながら唇を離すと、彼女の方から手を伸ばして抱きついて、さらに深く口付けてきた。
「……誰か来たらまずいよ」
そう言うくせに離れようとしない。
ここは放課後の教室で、誰もいないとはいえ、部活をやっている生徒はまだ残っている。
誰かに見られたら、なんて言われてしまうか……。
わかっているのに離れられなかった。
「好きだよ」
確信と変わる気持ちをまっすぐに伝えた。この気持ちを伝えるために、何度でも言わなければいけないんだと、心の深いところにまで突き刺さってほしいんだと、強く思った。
うなずく『あの人』が本当に好きだった。
あの瞬間の、最高に満たされた気持ちを、今はもう、思い出せない。