4.ここにいるのに、いない彼
人を信じるということは、裏切られることも想定にいれておかねばならない。
***
先生が逃げてしまったので、愛理は仕方なく図書室から出た。
あんなビビリだとは思っていなかった。図書室で大騒ぎする生徒に怒鳴りつける姿は恰幅の良い体型も相まって迫力満点だというのに、幽霊を信じるか否か聞いただけで、あのすくみあがりよう。
「もしかして霊感があるとか?」
実際に見ることがあるから、全力で否定しているのかもしれない。
怖いから認めたくない。そういう心理の可能性もある。
だとしたら、屋上の幽霊を見たことがあるのかもしれない。
「今度聞いてみようかな……」
そう思ったが、やはり止めようと首を振った。
封鎖されている屋上に入れることがバレてしまったら困る。
せっかく見つけた一人になれる場所だ。絶対になくしたくない。
そろそろ教室に戻ろうかと踵を返したが、次の授業は苦手な数学だったのを思い出し、どうしようか逡巡する。
サボりたい……もたげてくるサボり欲求に、愛理は忠実だ。
教室に向かおうとした足を、屋上に上がれる東階段に向ける。
ヒロに会いたい。あのイケメンに癒されよう。
*
屋上に出ると、風がゆるりとスカートをめくった。スカートを押さえながら、太陽を仰ぐ。
そういえば、幽霊が出るのは夜が定番だ。
ヒロと会ったのは、昼間だった。そのせいもあって怖くなかったのだが、ヒロはやはり一般的な幽霊とは違う気がした。
「ヒロ、……いる?」
おそるおそる声を出す。
ぐるりと周囲を見渡す。ヒロの姿は見えない。
会えたのはあの時だけだったのか……授業だからと帰るべきじゃなかったかもと反省しかけたが、貯水槽の裏でふわふわと揺れる髪が見えて、ほっと安心した。
ミルクティ色の柔らかそうなあの髪は、ヒロの髪だ。
「ヒロ」
近寄って声をかけると、ヒロはふっと目を開いた。
二重の幅が均等で、少しだけタレ目だ。目の形が綺麗だなあ、とついまじまじと見てしまう。
「寝てた?」
聞くと、ヒロはまるで寝起きの赤ちゃんみたいにふんわりと笑った。
「寝てた、かも」
「かも?」
「寝てるのか起きてるのかわからないんだ。こうやってしゃべってるのも、夢みたいなかんじ」
夢。小さく聞き返した。
「あいまいなんだ。実感が無い。死んでるからなのかな」
あいまい。言葉がジンワリとにじむ。
――あなた、何考えてるの?
――そうやって、へらへら笑って、平気で人を傷つけるのね。
記憶が揺さぶられて、心がブレる。
「愛理ちゃん?」
覗き込むように顔を見られて、愛理ははっとする。
鏡のように空を映す瞳は、生きている人と変わらない。
昨日は透けて見えたりしたのに、今日目の前にいるヒロは生身の人間と一緒としか思えない。
「……愛理ちゃんって、なんか照れる。呼び捨てでいいよ」
「あいり」
「うん」
「あいり」
子供みたいにヒロは満面の笑みを浮かべた。
「れ、連呼しないでよ!」
「ごめん。人の名前呼ぶの、久しぶりだなーって思ったら、嬉しくて。なんか、かわいいし」
「か、か、かわいい!?」
「名前の響きが」
名前の響きかよっ! 声に出して突っ込むのは憚られて、手だけこっそり突っ込む。
「座りなよ。しゃべろう」
コミュニケーションを取ることが、嬉しくてしょうがないらしい。
ヒロはワクワクした様子を隠そうとせず、ぽんぽんと自分の隣を手で叩く。
愛理は仕方ないという態度をしつつも、内心ははね飛びながら、隣に腰を下ろした。
「ヒロはなんで死んだの?」
「いきなりすごいことを聞いてくるなあ」
「だって、気になるじゃん。いじめ?」
こんなイケメンがイジメにあうだろうかとも思うが、一番可能性は高い。
イケメンだからこそ、やっかみを買っていじめられることもあるだろう。
「うーん……。違うと思う」
「思う?」
「思い出せないんだ。思い出せたら、成仏できるのかねえ」
のん気にそう言うヒロには、成仏したいという意思があるように思えなかった。
「成仏できないのって、未練があるからでしょ?」
「未練……そうだね。未練かあ」
あまり実感が無さそうだ。
「記憶もあいまいなんだ。何で死んだのかも、何でここにこうしているのかも、よくわからない」
ヒロの目線が漂う雲に注がれる。
抜けるような青空を小さな雲の塊がふよふよと浮いている。
校庭ではサッカーの授業が行われているのか、矢澤の怒鳴り声と生徒の歓声とボールを蹴る音が聞こえてきた。
「思い出したい?」
「そうだね。思い出せれば、何か変わるかもしれない」
変わらないかもしれないけど、と小さくつぶやいて、ヒロは眠そうに目をこすった。
動作のひとつひとつが子供みたいだ。愛理の手は自然とヒロの柔らかい髪に伸ばされていた。
触れようとしても触れられない、けれど、そこに何かがあるかのように、ヒロの体がある場所だけ空気が濃密に思える。あいまいな感覚。
あいまいな存在。あいまいな記憶。
すべてがあいまいなヒロ。
「つらい?」
ヒロは何も言わず、愛理にもたれかかってきた。
何が起こったのかとびっくりして、ヒロの頭をつつこうとしたが、幽霊のヒロに触れることは出来ない。
仕方なく、首だけを動かしてヒロの顔を伺うと、気持ち良さそうに目をつぶっていた。
「ヒロ、寝てるの?」
肩にかかる重さも実感も無いのに、視界の隅でヒロの髪が風で揺れているのはわかる。
長い睫毛とかすかに微笑む口元が心地良さそうだ。
眠ってしまっている。
「つらい、のかなあ」
思い出せないこと。未練があること。ずっとここにいること。
ここにいるしか、できないこと。
――愛理って、たまに笑ってるふりするよね。なんで?
「つらいよね……」
ヒロが死んだ理由を探した方がいいのかもしれない。
愛理はそう思って、ヒロの頭をそっとなでたふりをした。
***
五月八日
生きていることをつらいと思うことがある。
でも、死んでしまうことよりもましだと思えるうちは、生きていたいと思っているってことだろう。
ヒロを見ていたら、泣きたくなった。
なぜだろう。
まだ会って間もないのに、私には彼の影の正体がなんとなくわかってしまった。
そばにいたいと思ってしまうのは、間違っているのだろうか。
間違っているだろう。
でも、それでも、ヒロがかわいそうで、そばにいてあげたい。