9.過去のかけら
空が濃紺に染まりつつある時間、愛理は和希と並んで下校していた。
ヒロとの他愛無い会話に和希が入ろうとしなかったから、本当はもう少しヒロと話したかったけれど、仕方なく早めに切り上げたのだ。
和希は仏頂面で、愛理が質問を投げつけても返事をくれない。
何か怒らせただろうかと考え込んで、和希がせっかく愛理への態度を謝罪してくれたのに、いたずら心でヒロと会わせてしまったことで怒りを買ったのだと思い至った。
和希は幽霊をあんなにも恐れていたのだ。それなのに、愛理は無理やり幽霊と和希をご対面させてしまった。
――私だって、たとえばゴキブリと二人きりとかにさせられたらキレるもん。
ヒロとゴキブリを同列にしたことも心の中で謝りつつ、愛理は和希の制服の袖をつかんで引っ張った。夜風を浴びた上着はほんのりと冷たい。
「あのさ、ごめん」
道路を走る車の音で聞こえなくなりそうな小さい声でつぶやくと、和希は目を丸めて愛理を見下ろす。
見上げる首がぐきりと痛んで、今更ながら、和希の背の高さに驚いた。
「なんだよ急に。気味悪いぞ」
失礼な奴だ。謝って損した。舌打ちしかけて、大急ぎで息を吐き出し我慢する。
「だって、怒ってんだもん」
「は? いや、怒ってねえよ。考え事してただけ」
「女子の隣にいる時にぼんやり考え事するなんて失礼です」
「女子って……。お前、俺に女子扱いされたいのか?」
「されたくない。気味悪い」
お返しとばかりに嫌味を言ったのに、和希は乾いた笑いをこぼしただけだった。
「なに、考え事って」
こんな和希は本当に気味悪い。横柄で尊大なのが和希なのであって、こんな思慮深い表情なんて似合わない。
そう思ったけれど、「似合わない」と言ってしまえるほど長い付き合いでも無く、和希のことをよく知っているわけでもないことに気付いて、もやもやが胃の中にぬるりと広がる。
「ヒロってやつ、お前にはどう見える?」
「どうって、超絶イケメン」
「……お前、バカだろ」
ジト目で睨まれてしまった。正直な回答なのに。
「俺には、頭の怪我が見えた」
「怪我?」
「やっぱ、お前はそれ見えてないんだな」
「綺麗な顔しか見えない」
やっぱバカだろ、という声は聞こえなかったことにする。
「屋上で自殺したやつがいるっての有名な噂だから、それがあいつなんだろうけど……。なんで自殺したんだろうな」
「思い出せないって言ってたよ」
「聞いたのかよ!?」
「え? だめなの?」
和希の驚きように逆にびっくりする。疑問に思ったことをよく考えもせずに口にしてしまうのは、愛理にとって長所でもあり短所でもあった。
良い意味では素直であり、悪い意味では単細胞。
「思い出せたら成仏できるのかなあって言ってた」
「それだったら思い出させたほうがいいかもな」
「なんで?」
「なんでって、幽霊なんだから成仏させたほうがいいに決まってる」
それもそうか、と声に出さずにつぶやいた。それはそれで寂しい。でも、あのまま屋上に居続けることがヒロにとって良いことではないだろう。
自分が寂しいという理由だけでヒロをあの場に留めるのは、ただのわがままだ。
「お祓いとか?」
「そういうのやってくれるやつ、知ってんのか?」
「知らないよ、そんなの」
「だよな。俺も知らない」
いきなり行き詰った。
それに、ヒロは悪霊には思えない。お祓いは悪霊にやる行為だろう。
「思い出したら、成仏……」
ぽつりとつぶやいて、納得する。
未練があるのだから、彼は屋上にいる。未練が何なのか知るには、彼の過去を知るほかない。
「ねえ、ヒロの過去を探らない? そうすれば、何か思い出して成仏出来るかもよ」
本当に自殺したなら、新聞記事に載ったかもしれない。ネットに情報が転がってるかもしれない。
断片でもいい。ヒロの過去のかけらを見つけられたら、ヒロは何か思い出せるかもしれない。
見上げた和希の頭上に淡い光が輝く。
弓の形をした月が真っ黒な空に漂う。灰色の雲がざあっと流れて三日月は姿を隠してしまった。
中空を彷徨う和希の視線が、ふと止まる。
愛理を見下ろす彼の顔が一瞬闇夜に紛れた。
どうしてこうやって、関わらなければいいことに首を突っ込んでしまうんだろう。
他人を他人と割り切れれば、あんな思いをしないですむのに。
よぎった考えを振り払うように、愛理はぎゅっと和希を見据えた。
「だめ?」
和希はビビりなのだ。幽霊が怖いのだ。そんな彼を巻き込むべきではないのかも……迷いは愛理の表情さえも曇らせる。
「そういう時の表情だけはちゃんと『女』になるって、末恐ろしい奴だな……」
口をとがらせてぼやき、和希はわざとらしいくらい大きなため息をついた。
「手伝ってやるよ。お前、無鉄砲すぎて怖いし」
「ちゃんと考えてるよ! 戸島君ってむかつくっ」
和希は愛理に視線をよこして、柔らかく笑った。
父親が娘のいたずらに笑みをこぼすような、優しさの含まれた笑い方に、熱がせり上がってくるのを感じる。
いつも角出して目を吊り上げて怒っているイメージしかなかっただけに、ギャップがこそばゆい。
――鬼の目に涙ならぬ、鬼の顔に笑顔だ……。
……怖っっっ!
明日は絶対雨だ。愛理は折り畳み傘の準備を誓う。
*
「おかえり!」
家に着くと、母親が笑顔で玄関まで駆けてきた。こういう時は決まっている。
「明日、お姉ちゃん帰ってくるって! 愛理、早く帰ってきてね」
結婚した姉が帰ってくる。そういう時の母はいつも異常に浮かれている。
姉の瑞穂はとても優秀な人だ。頭が良く運動神経も良く、判断能力が高い。教師という堅実な職業を選び、県庁に勤める、これまた堅実な人を結婚相手に選んだ。
母にとって、姉は自慢なのだ。
それは愛理にとっても同様ではあったけれど、ささいなことも比較されてきたことで、若干のやっかみも抱えている。
「秀介君も一緒に来るかしら? 聞くの忘れちゃった。電話してみよっと。愛理、早く着替えてきなさい。ご飯、出来てるから」
秀介とは姉の旦那の名だ。背が高く顔立ちの整った瑞穂と並んでも見劣りしない好青年で、それが母の浮かれぶりに拍車をかけている。
優秀な娘が優秀な旦那を連れている。見た目も良く、バランスも良い。
ぶわりと広がる黒い感情に、手を握り締めてこらえる。
姉が嫌いなわけではない。
ただ、思い出してしまうのだ。
冷めきった、姉の視線を。
その先にある、自分自身の醜態を。