月夜のバレンタインディ ~鴉の巣~
バレンタイン企画最後です。相変わらず滑り込みなのは気になさらず。
バレンタインの夜が明けて、また一日明けて……つまりは翌々日。
『月夜』の全員が寝静まった頃、彼女は密かに部屋に戻った。
誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きる。そして、誰にも知られずに行動する。それが彼女の仕事。
早く寝なきゃ、と進めた足に、何かが当たった。
「……小箱?」
極限まで抑えた声は、疑問に染まっている。
それを拾って、ためつすがめつして、やがて彼女は微笑んだ。
ポニーテールに明るい笑顔。それが彼女の本来の姿。
『りうさんへ』
* * * 月夜のバレンタインディ 〜鴉の巣〜 * * *
あの子と話したのはいつだっただろう。自らが暴走することに酷く悩んでいたときだから、もうだいぶ前になるのだろうか。
―――氷美ちゃん。そうだ、氷美という名だった。
思い返して、彼女はため息をついた。
日頃から情報収集のために人と関わりすぎている。そのせいか、人の名前を覚えるのは苦手になっていた。
それでも思い出せるだけ、特別なのだ。
あの子は、りうのことを知っている。『鴉』であることも。
―――まぁ、気づいてほしくて私自身が言ったことなんだけどね。
あの会話の後、ちゃんと仲直りして立ち直って、今では立派に仕事をこなしている。
りうは知らない、あの子の母親のことも関わっていたそうだが……そこは、りうの恩人である麗音がなんとかしてくれた。
りうが何故かできる特技も役に立ったし、氷美とはそれなりに深い関係なのだろう。
……氷美自身は、そこまでは知らないだろうけれど。
―――知らぬは本人ばかりなり……的な?
そう、知らぬは本人ばかりなり、といえば。
恩人と同じ音を持った息子。
―――……零。だった、気がする。
麗音から「生暖かく見守っていて?」と言われた、ちょっと殺人鬼よりの部分がある少年。
『鴉』がまさか、自分を見守ることを頼まれて存在しているなんて本人は一ミリも知らないだろう。
麗音の困ったようで、でも悪戯っぽいあの笑みが忘れられない。
零本人とは話したことがないけれど、やっぱり存在としてはどこか特別だ。
麗音の息子でもあるし、なんだかんだいって名前も覚えている。
見ている限り面白い人だし、いつか正体を装って話してみてもいいかもしれない。
そこでりうはふと、妙に部屋が薬品臭いことに気がついた。
ここは『月夜』の表にでているメンバー四人が生活している部屋の隣の部屋だ。
誰かが使ったのだろうか。でも薬品なんて使う人はいたっけ。
彼女は混濁する記憶をさかのぼる。
たどりついたのは、無機質なケータイの画面だった。
―――『新入りだよ 名は萌黄』
……あぁ、そんなこともあったか。
まだ『月夜』に入ってすぐの頃、今のリーダーが不安定で、氷美も零も幼かった頃。
珍しく写真が添付されたメールだと思ったら、無愛想な顔の少女が写っていて。
萌黄も零と同じく言葉を交わしたことはないが、薬品を使うので思い当たるのは彼女だけだ。
たまにリーダーから薬品入手を依頼するメールが入ってくるようになったのは、彼女が『月夜』に入ってからだし。
なるほど、この部屋が薬品臭いのもそのせいか。
しかし、リーダーが何の関わりもない人を『月夜』に入れるというのもどこか不自然な気がした。
零も氷美も彼にとっては身内同然だし、りうのことはきっと同じく身内同然の麗音に頼まれたからだと思う。
けれど、萌黄は別だ。仕事先で見つけたのだとりうは推測する。
それほど気に入ったのか、彼は。
―――そう、彼……朔。新月の朔だ。
彼のことはあまり忘れない。忘れようがない。
人間として彼のことは嫌いではないが、どこか恐ろしいのだ。畏怖、というやつか。……なんか違う気もする。
ただ、彼はたまに酷く残酷で、また優しくて、いつも笑っているように見えて。
何を考えているかわからない。だからきっと怖いのだ。
―――でも、嫌な訳じゃないんだよなぁ。
そう、むしろ心地よいぐらいの。
その心地よさは、何故だろう。
りうは目の前においた小箱を指ではじいた。
記憶をたどれば、『月夜』に関わる記憶だけやけに鮮明に思い出せる。
なんでだろう。いつも裏にいて、そんな大したこともないはずなのに。
……この箱の中身は、やはりチョコレートだろうか。二日遅れだが、デザインがそれっぽい。
開けば、中に小さな紙とおそらくトリュフチョコレート。
無難なチョイスだね、なんて思いながら、紙を見る。
小さな文字でかかれたそれは、手紙のようだった。
『りうさんへ
二日遅れですが、ハッピーバレンタインです!
届くかどうかわからないので不安なのですが、一応送りました
りうさんのことを知ってるのは私だけですか?
りうさんは自分は嘘ばかりって言ってたけれど、
私に見せてくれたりうさんは本物だと思ってます。
またいつか話しましょうね! 氷美』
りうはチョコレートを口の中に放り込んだ。その甘さに苦笑する。
私のことを覚えていてくれたなんて。
わざわざ、チョコレートなんか送ってくれて。
またいつか。そう、言ってくれるなんて。
些細なことが、りうには嬉しかった。
嘘をつかれると思ったら、普通離れていくはずなのに。
―――ここは、いいところだと思う。
『鴉』というふうに存在を伏せているのに、その情報を疑ったりしない。信用してくれているのだ。
一度話しただけの少女は、ここまでりうを気にかけてくれているのだ。
情報収集に出かけて、彼女は必ず帰ってくる。
いっそのこと、そのまま姿をくらましてもいいのに。
けれど帰ってくる。
―――帰りたいと、思える。
自分が『鴉』であるなら、『月夜』はおおかた、『巣』だろうか。
居心地の良いこの場所。りうがいてもいい場所。
ずっとずっと、なくならないでほしい。
りうは一つ微笑むと、寝る準備を始めた。
―――良い夢が見れますように。
私も、『月夜』の仲間も。