『忘却の岸辺に灯る星』
世界の縁には、水音すらもためらう泉がある。
草木は芽吹くことも枯れることも忘れ、ただ淡い銀灰色の空の下で立ち尽くしていた。風は吹かない。吹けば、それが運ぶ土の匂いや冷たさまでもが、世界に刻まれてしまうからだ。
ここは記憶の泉。そして、その底に沈む無数の煌めきを見つめ続けるのが、記憶の女神ムネモシュネの役目だった。
彼女の髪は夜空の底よりも暗く、瞳には原初の星々が灯った瞬間の光がそのまま焼き付いている。ウラノスとガイアの娘であり、古き巨神の生き残り。神々がオリュンポスの高みで酒宴に酔い痴れようと、冥府の王が冷たい玉座でため息をつこうと、彼女だけはこの澱みの中に座し、失われてはならないすべての瞬間を抱き留めていた。
「また、覗き込んでいるのか」
低く、空気を震わせる雷鳴のような声音が落ちてきた。
振り返るまでもない。琥珀色の瞳、金糸を編み込んだような髭、そして全身から立ち上る若々しく傲慢な神威。天空の覇者、ゼウスだった。かつて九夜にわたって彼女の褥に通い、九柱のムーサ(詩神)を産ませた男。
ムネモシュネは水面から視線を上げず、静かに言った。
「覗き込んでいるのではありません。ただ、そこに在るものを確かめているだけです」
「私には、死んだ星屑が腐乱していく沼に見えるがね」
ゼウスは長躯をかがめ、泉の縁に豪奢な衣の裾を投げ出して腰を下ろした。彼の手には、オリュンポスの祝宴から持ち出された神酒ネクタルが握られていたが、その芳醇な香りすら、この場に漂う重苦しい沈黙には敵わなかった。
「ここは死の場所ではありません。生き続けたことの証明が眠る場所です」
「過去を愛しすぎるのは老いた証拠だ、ムネモシュネ。今を見ろ。我らはティタノマキアを制し、ギガントマキアを鎮め、この世の頂点に立った。未来は黄金に輝いている。古い歌など、もはや誰も口ずさみはしない」
ゼウスの唇の端に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。それは神々の王たる者にふさわしい、燦然たる輝きだった。しかし、ムネモシュネの胸を満たすのは、ただ底知れぬ哀憐と、身を焦がすような疼きだけだった。
「ゼウス。あなたには、あの血の匂いがもう消えたように思えるのですね」
「……何?」
ムネモシュネはゆっくりと手を伸ばし、自らの細い指先を泉の水面に浸した。
波紋が広がる。澄み切った水が揺れ、底から立ち上るように青白い光の粒が浮かび上がった。
「オトニュス山の頂で、あなたの雷霆が私の兄弟たちの肉を灼いた日のことです。天が裂け、大地が悲鳴をあげ、海が沸騰した。兄クロノスの瞳に宿っていた絶望の光を、私は今でもこの指先でなぞることができます。あなたの胸を貫いたはずの恐怖も、勝利の瞬間の狂気も、すべてここに息づいている」
ゼウスの表情から微かに笑みが失せ、眉根が寄った。
「終わったことだ。奴らはタルタロスの底へ沈んだ。我らが勝ち、奴らが敗けた。それだけの話だろう」
「勝敗など、記憶の前には紙一重の塵にすぎません」
ムネモシュネは顔を上げ、ゼウスの黄金の瞳を正面から見据えた。その眼差しの深さに、全能の雷神が一瞬、わずかに息を呑むのを彼女は見逃さなかった。
「あなたたち若い神々は、あまりにも早く忘れすぎる。勝利の美酒に酔い、己が踏み躙った土の痛みを忘れる。だからこそ、同じ過ちを繰り返すのです。ゼウス、あなた自身がかつて父を恐れたように、いずれあなたも、自らの種から生まれる子を恐れて怯えることになる」
「不吉なことを言うな!」
ゼウスが低く唸り、その指先から微小な紫電が弾けた。泉の水がチリチリと音を立てて波立つ。だが、ムネモシュネは瞬き一つしなかった。
「怒りですか? それとも、恐怖ですか? ……どちらであれ、その感情すらも、やがてこの水底に沈むのです」
「お前は冷たい女だ」ゼウスは吐き捨てるように言った。「娘たちの歌を聴いたことがあるか? アポロンの竪琴に合わせ、彼女たちは天上の美を歌っている。お前が生んだ九人の娘は、神々の心を喜ばせ、世界を光で満たしているのだぞ。だというのに、母であるお前は、なぜそうして暗がりで泥を掬うような真似ばかりしている?」
「カリオペたちの歌がなぜ神々の心を打つのか、あなたには本当にお分かりにならないのですか?」
ムネモシュネの声は震えていなかったが、その奥には張り裂けんばかりの激情が滲んでいた。
「あの子たちが歌うのは、記憶があるからです! 英雄の武勇も、失われた恋の嘆きも、死にゆく者の最後の祈りも、私がすべてを抱き留めてあの子たちに渡しているからこそ、歌は永遠の命を得る。記憶のない詩など、ただの空虚な風の鳴動にすぎない!」
彼女は泉の水をすくい、掌の上で握りしめた。水滴が指の隙間から零れ落ち、水面を叩く。その一つ一つが、誰かの生きた証だった。
「人間をごらんなさい」
ムネモシュネは遥か下界、薄闇に包まれた人間の大地を指差した。
「彼らは神々のように不死ではない。百年も生きられず、枯れ葉のように脆く、土へと還っていく。けれど……だからこそ、彼らは記憶にしがみつくのです。母の温もりを、友の笑顔を、愛した者の面影を、忘れたくないと泣きながら暗闇を歩いている」
ゼウスは嘲るように鼻を鳴らした。
「羽虫の如き命の繰り言だ。そんなものを一々覚えていて、何になる」
「忘れ去られることこそが、真の死だからです!」
ムネモシュネの叫びが、風のない虚空を切り裂いた。
珍しく感情を露わにした彼女の頬を、一筋の雫が伝う。それは神の神聖な涙であり、無数の死者たちの痛みの結晶だった。
「彼らが冥府へ下るとき、真っ先に向かうのは忘却の川です。苦しみを消し去り、楽になりたいと願って、その水を呑む。……けれど、ゼウス。魂の奥底で、彼らは知っているのです。苦痛とともに愛した記憶までも手放してしまえば、自分という存在が消滅してしまうのだと。だからこそ、目覚めた魂は、私の泉を求めて這い回る」
彼女は自らの胸に手を当てた。そこには、原初から現在に至るすべての鼓動が重なり合って響いている。
「『私は誰だったのか』『私は何を愛したのか』……それを思い出すために、彼らは乾いた唇でこの水を求める。私の記憶は、彼らがかつて光の中にいたという、唯一の標なのです。それを……羽虫の繰り言と切り捨てられますか?」
ゼウスは沈黙した。
彼の手の中で、ネクタルの杯が傾き、紅の雫が一滴、乾いた土に吸い込まれていく。全能の神の威圧感は衰えていなかったが、その傲慢な瞳の奥に、かつてチタノマキアの血煙の中で見たような、言い知れぬ虚無が影を落としていた。
「……お前を抱いた夜を、覚えている」
やがて、ゼウスがぽつりと言った。低く、どこか掠れた声だった。
「ピアの頂で、九夜にわたり雷雲を閉ざした。お前はただ私を受け入れ、その瞳で私を見ていた。あの時……お前は何を記憶していたのだ、ムネモシュネ」
ムネモシュネは悲しげに微笑んだ。その笑みは、夜明け前の薄明かりのように儚く、美しかった。
「あなたの孤独ですよ、ゼウス」
「……何だと?」
「世界の頂に立ち、すべてを手に入れながら、永遠に何者も信じることができないあなたの魂の震えです。あなたが私を求めたのは、愛のためでも、ただ血を遺すためでもない。いつかすべてが滅び去り、あなた自身が玉座から転がり落ちたとしても、この世界にただ一人、『ゼウスという神がかつて存在し、震えていた』ことを忘れない者が欲しかったからでしょう」
ゼウスの呼吸が止まった。
神々の王は、雷を落とすことも、怒声を浴びせることもできなかった。ただ、自らの胸の内をあまりにも正確に暴かれた動揺に、唇を固く引き結んだ。
風が、微かに吹いた。
記憶の泉がざわめき、底から淡い白光が幾筋も立ち上る。かつて栄え、滅び去った都市の記憶。神に見捨てられて死んでいった名もなき兵士の祈り。恋人の髪の香りを思い出しながら息絶えた詩人の吐息。それらがムネモシュネの周りを巡り、彼女の黒髪をふわりと持ち上げた。
「私は神々の母でもなく、人間の庇護者でもありません」
ムネモシュネは立ち上がり、泉の縁に素足を浸した。
「けれど、私はここを離れない。あなたがどれほど世界を作り変えようと、どれほど凄惨な血で大地を塗り固めようと、私はすべてを覚えている。あなたがかつて流した涙の一滴すら、私は決して忘れはしない」
「……それが、お前の選んだ罰か」
ゼウスが低く問う。ムネモシュネは首を横に振った。
「いいえ。これが、私の愛なのです」
すべてを覚えているということは、世界中のあらゆる別れと死の痛みを、永遠に抱き続けるということだ。それは全能の力よりも重く、タルタロスの底よりも暗い責務だった。
だが、彼女の瞳には微塵の曇りもなかった。澄み切った哀しみをたたえたまま、彼女は静かに微笑んでいた。
ゼウスはゆっくりと立ち上がった。その背中には、先ほどまでの傲岸さはなく、どこか老いた巨木のような重苦しさが漂っていた。
「……勝手にするがいい」
背を向け、オリュンポスへと帰還するための黄金の光を身に纏いながら、ゼウスは最後に一度だけ振り返った。
「だが、ムネモシュネ。たまには……娘たちの歌を聴きに来い。お前の抱えるその重荷が、どれほど美しい調べとなって世界を満たしているか、お前自身が確かめるべきだ」
「ええ。風がその歌を運んでくるとき、私はいつも耳を澄ませていますよ」
ゼウスの身体が光の粒子となって天へと昇っていく。雷鳴が遠ざかり、再び世界には完全な沈黙が戻った。
ムネモシュネは一人、泉のほとりに跪いた。
水面に映る自らの顔を見つめ、そっと指を滑らせる。波紋の向こうで、無数の魂が光を放っていた。
「さあ、おいでなさい」
彼女は誰にともなく囁いた。
「旅路に疲れた魂たちよ。レテの冷たい水にすべてを投げ打つ前に、私のところへおいでなさい。あなたが愛した人の名を、あなたが流した涙の理由を、私が永遠に抱き締めていてあげましょう」
水底から、一つの小さな泡が弾けた。それは遠い昔、母親に抱かれて眠った名もなき子どもの、微かな温もりの記憶だった。
ムネモシュネはその温もりを自らの胸の奥深くに沈め、静かに目を閉じた。
世界が続く限り、忘却がすべてを飲み込もうとする限り、彼女の夜は終わらない。記憶の泉は今日も、失われたすべての命の輝きを湛えながら、静かに、青く揺らめいていた。




