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大地の娘 ガイア

大地の娘


夜の海は、黒い獣の腹のようにうねっていた。潮の匂いは重く、湿った風が崖の草をざわざわと揺らしている。空には月もなく、ただ遠い雷だけが雲の向こうで鈍く光っていた。


ガイアは裸足で岩場に立ち、冷えた石の感触を足裏に受けながら、じっと海を見ていた。


「また来たのか」


背後から低い声がした。


振り返ると、巨大な肩をした男が立っている。海神ポントスだった。濡れた黒髪から塩水が滴り、青灰色の瞳は夜の海そのものみたいに暗い。


「眠れないの」


ガイアは答えた。


「大地が騒いでる。山が軋んで、森が泣いてる」


ポントスは鼻を鳴らした。


「お前は感じすぎる」


「感じるのが私だもの」


風が強く吹き、ガイアの長い髪が夜空に広がった。土の匂いがする髪だった。草原、雨、花、焼けた森、その全部が混ざったような香り。


ポントスは少し眉を寄せた。


「またウラノスのことか」


その名を聞いた瞬間、ガイアの胸が冷たく縮んだ。


天空神ウラノス。


かつて自分を抱いた男。


そして今は、自分の子らを地下へ閉じ込めている暴君。


遠い地中から、鈍い呻き声が聞こえる気がした。岩の下、土の奥、光の届かない場所で、巨人たちが苦しんでいる。


ガイアは唇を噛んだ。


「母親なのに、助けられない」


「お前は優しすぎる」


「違う」


ガイアは低く言った。


「私は怒ってる」


その瞬間、大地が小さく揺れた。


崖の石がぱらぱらと海へ落ちる。


ポントスは目を細めた。


「……本気か」


ガイアは答えなかった。


ただ、拳を握った。


爪の間に土が入り込む。


冷たい泥の感触が妙に心を落ち着かせた。


その夜、ガイアは深い洞窟へ向かった。


地の底へ続く裂け目は、生暖かい空気を吐き出している。硫黄の臭いが鼻を刺し、岩壁から滴る水がぽたり、ぽたりと響いていた。


暗闇の奥から声がする。


「母上……」


低く、掠れた声。


ガイアは足を止めた。


「クロノス」


巨大な影が鎖を鳴らした。


タイタン神クロノス。


鋭い目をした末子だった。


他の兄弟たちは疲れ果て、うずくまっている。しかしクロノスだけは違った。怒りを燃やしていた。


「また来たのか」


「様子を見に」


「哀れみか?」


ガイアは首を振った。


「違う。頼みに来たの」


クロノスの目が細くなる。


洞窟の湿った空気の中で、彼の呼吸だけが妙に熱かった。


「頼み?」


ガイアはゆっくり近づいた。


「ウラノスを倒して」


沈黙が落ちた。


遠くで地下水が流れる音がする。


クロノスはしばらく何も言わなかったが、やがて低く笑った。


「母親が父親殺しを願うか」


「私は母よ」


ガイアは静かに言った。


「子供を閉じ込める父など許さない」


クロノスは鎖に繋がれた手を動かした。


鉄の擦れる嫌な音。


「兄たちは怖がってる」


「あなたは?」


クロノスは顔を上げた。


暗闇の中、その瞳だけが金色に光る。


「俺は怖い」


ガイアは少し驚いた。


クロノスは笑った。


「だが、それ以上に腹が立つ」


その言葉に、ガイアの胸が熱くなった。


洞窟の奥で、閉じ込められた兄弟たちが息を呑む気配がする。


ガイアは懐から鎌を取り出した。


黒曜石で作られた刃だった。


闇より黒く、冷たい。


「これを使って」


クロノスは鎌を見つめた。


「お前が作ったのか」


「ええ」


「父を傷つけられる?」


「大地の怒りで鍛えたものよ」


クロノスはゆっくり受け取った。


その瞬間、洞窟の空気が震えた。


まるで運命そのものが動き始めたようだった。


「母上」


「なに」


「成功したら、俺は王になる」


「ええ」


「失敗したら?」


ガイアは少し黙った。


土の匂い。


湿った岩。


遠くの唸り声。


この世界全部が、答えを待っている気がした。


「その時は」


ガイアはクロノスの頬に触れた。


冷たい肌だった。


「一緒に滅びましょう」


クロノスは目を見開き、そして初めて子供みたいに笑った。


「変な母親だ」


「あなた達を産んだから」


ガイアも少し笑った。


その時だった。


洞窟の上から轟音が響いた。


空そのものが怒鳴るような声。


「ガイアァァ!!」


ウラノスだった。


洞窟が激しく揺れる。


砂埃が落ち、兄弟たちが悲鳴を上げた。


クロノスは立ち上がる。


鎖が引きちぎれ、岩壁に火花が散った。


ガイアの鼓動が速くなる。


怖かった。


けれど、それ以上に胸が熱かった。


ついに始まる。


長い支配の終わりが。


クロノスは鎌を肩に担ぎ、笑った。


「行ってくるよ、母上」


ガイアは頷いた。


「帰ってきなさい」


クロノスは暗闇の裂け目へ駆けていく。


その背中を見送りながら、ガイアは静かに目を閉じた。


土の奥で脈打つ命の音が聞こえる。


海が吠えている。


山が震えている。


風が泣いている。


世界そのものが、息を潜めていた。



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