夕暮れを支える者 イアペトス
夕暮れを支える者
黄金色の夕陽が、世界の果てまで広がる大海を赤く染めていた。
ティタン神族の宮殿がそびえるオトリュス山の高みには、風が絶えず吹いている。山肌には銀色のオリーブが揺れ、岩場には紫色のタイムの花が咲き、甘く爽やかな香りを漂わせていた。
その崖の上に、一人の男神が立っていた。
イアペトスである。
広い肩を覆う深青色の長衣は海の色を映したように美しく、腰には金糸で織られた帯を締めている。黒曜石のような髪は風に揺れ、琥珀色の瞳は遠く地平線を見つめていた。
彼は派手な神ではなかった。
兄のオケアノスは大海を支配し、コイオスは知恵を司り、クレイオスは天の星々を見守る。
それに比べれば、イアペトスは静かな神だった。
だが、その静けさの奥には深い思索があった。
「また考え事?」
柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、妻のクリュメネが立っていた。
白い麻布の衣をまとい、長い銀髪を風に流している。
手には籠があった。
「夕食を持ってきたの」
「ありがとう」
イアペトスは微笑んだ。
二人は崖の縁に腰を下ろした。
籠の中には焼きたての麦パンがある。
山羊の乳で作った白いチーズ。
黒オリーブ。
蜂蜜をかけた無花果。
そして葡萄酒。
潮風に吹かれながら食べる夕食は格別だった。
イアペトスがパンをちぎる。
香ばしい匂いが立ち上った。
「最近、あなたは難しい顔ばかりしているわ」
クリュメネが言った。
「そう見えるか」
「ええ」
イアペトスは苦笑した。
「私は考えていたのだ」
「何を?」
「神々のことではない」
「なら人間?」
彼は頷いた。
まだ人間は生まれていない。
だが世界には予兆があった。
土。
風。
火。
水。
それらがいつか新しい命を生むだろうと、多くの神々が感じていた。
「人間が生まれたらどうなるのかと思ってな」
クリュメネは目を丸くした。
「まだ生まれてもいないのに?」
「だからだ」
イアペトスは葡萄酒を口に含んだ。
果実の香りが広がる。
「神は永遠だ」
「ええ」
「だが人間は違う」
「そうね」
「短い命を持つ者は、何を考え、何を愛し、何を恐れるのだろう」
クリュメネはしばらく黙った。
やがて優しく笑う。
「あなたらしいわ」
「そうか?」
「他の神なら戦いや権力を考えるもの」
「私は変わり者だからな」
「ええ、とても」
二人は笑った。
その時だった。
遠くから元気な声が響く。
「父上ー!」
山道を駆け上がってきたのは少年だった。
プロメテウスである。
まだ幼いが、瞳には不思議な輝きが宿っている。
「走るな。転ぶぞ」
「転ばない!」
言った瞬間。
石につまずいた。
「わっ!」
派手に転んだ。
クリュメネが吹き出す。
イアペトスも笑いをこらえきれない。
「ほら見ろ」
「これは作戦です」
「どんな作戦だ」
「痛くないか確認したんです」
「なるほど」
「安全確認です」
イアペトスは大笑いした。
プロメテウスは立ち上がり、砂を払う。
そして父の隣に腰を下ろした。
「父上は何を見ていたんですか?」
「夕陽だ」
「毎日見てるじゃないですか」
「毎日違う」
「同じですよ」
「違う」
「同じです」
「違う」
「同じです」
二人は子供のように言い合った。
クリュメネが呆れる。
「親子そっくりね」
「どこがだ」
「どこがですか」
声まで揃った。
また笑いが起きた。
風が吹く。
タイムの香りが流れる。
空は橙色から紫色へ変わり始めていた。
やがてプロメテウスが真面目な顔になった。
「父上」
「何だ」
「人間が生まれたらどう思いますか」
イアペトスは驚いた。
「お前もそれを考えるのか」
「たまに」
少年は夕陽を見つめる。
「弱い生き物になるんでしょう?」
「そうだろうな」
「すぐ死ぬんでしょう?」
「おそらく」
「かわいそうですね」
その言葉に、イアペトスは静かに目を細めた。
「そうかもしれない」
「でも」
プロメテウスが続ける。
「だからこそ頑張るんじゃないですか」
風が止まった気がした。
イアペトスは息子を見た。
幼い顔。
だが瞳には深い光がある。
「短いから大事なんです」
プロメテウスは言う。
「永遠に生きるなら急がなくていい。でも終わりがあるなら、一日だって大事になります」
クリュメネも静かに聞いていた。
イアペトスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
この子は不思議な子だ。
いつか世界を変えるかもしれない。
そんな予感がした。
「父上」
「何だ」
「人間ができたら会ってみたいです」
「なぜだ」
「友達になりたいから」
イアペトスは思わず笑った。
「神と人間が友達になれるものか」
「なれます」
「どうしてそう思う」
「だって面白そうだから」
あまりに単純な答えだった。
だがそれがプロメテウスらしかった。
夕陽がついに水平線へ沈む。
世界は茜色に染まった。
イアペトスは空を見上げる。
星々が一つ、また一つと姿を現し始めていた。
永遠に続くように見える世界。
だが本当に大切なものは、永遠ではなく限りある時間の中にあるのかもしれない。
隣では妻が微笑み、息子が無花果を頬張っている。
「父上、最後の一個もらいます」
「待て。それは私のだ」
「早い者勝ちです」
「ずるいぞ」
「人生は競争です」
「誰に教わった」
「父上です」
クリュメネが声を上げて笑った。
夜風が三人を包む。
その笑い声は、やがて訪れる神々と人間たちの壮大な物語の始まりを祝福するように、静かなオトリュス山の空へ溶けていった。




