↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/46

タルタロス 黒い川を渡る声

【創作ギリシャ神話 タルタロス 黒い川を渡る声】


 タルタロスの夜には風がない。風が吹かぬ代わりに、岩壁そのものが低いうなり声を上げる。耳を澄ませば、それは泣き声にも聞こえた。湿った硫黄の匂いが鼻の奥に張りつき、黒い泥の熱気が肌へまとわりつく。空はなく、ただ頭上に巨大な闇があるだけだった。


 アステリオンは松明を掲げながら、ゆっくりと石段を下りていた。炎は青白く、まるで死者の舌のように揺れている。


「……まだ続くのかよ、この階段」


 声が岩へ吸い込まれ、返事は返ってこない。


 隣を歩く少女メリアが鼻をしかめた。


「弱音を吐くなら戻れば? 私はひとりでも行く」


「戻れるなら最初から来ねえよ」


 アステリオンは舌打ちした。唇が乾いている。だが空気は湿っている。その不快さが余計に喉を焼いた。


 二人の足元には、時折、白い指が岩の隙間から伸びてきた。死人たちだ。助けを求めているのか、それとも引きずり込もうとしているのか分からない。


「見ないほうがいい」


 メリアが小声で言った。


「見た者は名前を呼ばれる」


「名前を?」


「ここでは名前を知られたら終わり」


 その瞬間だった。


「アステリオン……」


 低い女の声が聞こえた。


 彼は立ち止まった。


 胸がどくりと鳴る。


「今の……」


「振り返るな!」


 メリアの鋭い声が飛ぶ。


 だが遅かった。


 アステリオンは反射的に後ろを向いてしまった。


 闇の中に、母の姿が立っていた。


 痩せた肩。やつれた頬。幼い頃、熱を出した彼の額へ濡れ布を当ててくれた手。その記憶のままの姿だった。


「アステリオン」


 優しい声だった。


 懐かしくて、胸が痛くなる。


「母さん……?」


 メリアが舌打ちした。


「偽物よ!」


 だが女は悲しそうに目を伏せた。


「ひどいわね。自分の母親を偽物扱いするなんて」


 その声を聞いた瞬間、アステリオンの頭に幼い日の記憶が流れ込んできた。麦の焼ける匂い。夕暮れの海。母の笑い声。忘れていた温度が胸を締めつける。


「帰っておいで」


 女が両腕を広げる。


「寒かったでしょう? 怖かったでしょう?」


 アステリオンの喉が震えた。


 足が勝手に前へ出る。


 そのとき、ぱちん、と乾いた音が響いた。


 頬に激痛が走る。


 メリアが平手打ちしていた。


「目を覚ませ!」


「……っ!」


「匂いを嗅いで!」


 アステリオンは息を吸った。


 硫黄。


 腐肉。


 血。


 母の匂いではない。


 次の瞬間、女の顔が裂けた。


 頬が耳まで裂け、黒い牙がのぞく。眼球がどろりと垂れ、長い舌が岩を舐めた。


「惜しかったのに」


 女だったものが笑う。


 喉の奥で無数の虫が鳴くような声だった。


「もう少しで、おまえの心臓を食べられたのに」


 アステリオンは後退った。


 胃がひっくり返りそうになる。


「なんだよ……これ……」


「タルタロスは記憶を喰う場所よ」


 メリアが短剣を抜く。


「愛してる相手ほど利用される」


 化け物が跳びかかってきた。


 岩を削る爪の音が響く。


 アステリオンは咄嗟に松明を突き出した。青い炎が怪物の顔を焼く。肉の焦げる臭いが広がった。


「ギャアアアッ!」


 怪物が絶叫する。


 メリアが駆ける。


「伏せて!」


 銀の刃が闇を裂いた。


 一閃。


 怪物の首が転がる。


 だが首だけになっても笑っていた。


「逃げられない」


 ごろりと転がった頭が囁く。


「タルタロスは全部知ってる。おまえたちの罪も、後悔も、欲望も」


 メリアは無言で頭を踏み砕いた。


 黒い液体が飛び散る。


 熱かった。


 アステリオンは息を切らしながら壁へ背を預けた。


「……お前、慣れてるのか」


「慣れたくなんかない」


 メリアの声は硬かった。


「でも止まったら死ぬ」


 二人は再び歩き始めた。


 やがて石段は終わり、巨大な地下河へ出た。


 黒い水が静かに流れている。


 だが耳を澄ますと、水音に混じって無数の声が聞こえた。


「助けて」


「寒い」


「苦しい」


「ここから出して」


 川そのものが呻いている。


 アステリオンの背筋に冷たい汗が流れた。


「なんだ、この川……」


「死者の涙でできてる」


 メリアが呟く。


「名はコキュートス」


 岸辺には一艘の舟があった。


 舟守は老人だった。骨のように痩せ、灰色の瞳をしている。


「渡りたい者か」


 しゃがれ声だった。


 老人は二人を見た。


「代価を払え」


「金貨ならないぞ」


 アステリオンが言うと、老人は口の端を歪めた。


「そんなものはいらぬ」


 その目がぎらりと光る。


「思い出を置いていけ」


 沈黙が落ちた。


 川の匂いは鉄臭かった。血の臭いに似ている。


 メリアが静かに尋ねた。


「何を差し出せばいい?」


「最も大切な記憶をひとつ」


 老人は空の壺を差し出した。


「入れろ」


 アステリオンは眉をひそめた。


「意味がわからねえ」


「すぐ分かる」


 老人の声と同時に、壺の中から冷気が溢れた。


 アステリオンの頭へ、突然、幼い日の記憶が浮かぶ。


 祭りの日。


 父に肩車された感覚。


 夕日に染まる白い神殿。


 笑い声。


 温かな手。


 その記憶が、ずるり、と壺へ吸い込まれていった。


「やめろ!」


 彼は叫んだ。


 だが止まらない。


 胸の奥から、大事なものが剥がされる感覚。


 吐き気がした。


 数秒後、吸い込みは止まった。


 アステリオンは荒い息を吐いた。


「……何を取られた?」


 だが思い出せない。


 確かに大切だったのに、その輪郭だけが消えていた。


 メリアも青ざめていた。


「行くわよ」


 彼女は震える声で言った。


「これ以上ここにいたくない」


 二人は舟へ乗り込む。


 老人が櫂を押した。


 黒い川がゆっくり舟を飲み込む。


 遠くの闇の中で、何か巨大なものが目を開いた。


 赤い。


 灼けた鉄みたいな目だった。


 その瞬間、川全体が震えた。


「来るぞ」


 老人が呟く。


 アステリオンが顔を上げる。


「何が?」


 老人は笑った。


 歯が一本もなかった。


「タルタロスの王だ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。