タルタロス 黒い川を渡る声
【創作ギリシャ神話 タルタロス 黒い川を渡る声】
タルタロスの夜には風がない。風が吹かぬ代わりに、岩壁そのものが低いうなり声を上げる。耳を澄ませば、それは泣き声にも聞こえた。湿った硫黄の匂いが鼻の奥に張りつき、黒い泥の熱気が肌へまとわりつく。空はなく、ただ頭上に巨大な闇があるだけだった。
アステリオンは松明を掲げながら、ゆっくりと石段を下りていた。炎は青白く、まるで死者の舌のように揺れている。
「……まだ続くのかよ、この階段」
声が岩へ吸い込まれ、返事は返ってこない。
隣を歩く少女メリアが鼻をしかめた。
「弱音を吐くなら戻れば? 私はひとりでも行く」
「戻れるなら最初から来ねえよ」
アステリオンは舌打ちした。唇が乾いている。だが空気は湿っている。その不快さが余計に喉を焼いた。
二人の足元には、時折、白い指が岩の隙間から伸びてきた。死人たちだ。助けを求めているのか、それとも引きずり込もうとしているのか分からない。
「見ないほうがいい」
メリアが小声で言った。
「見た者は名前を呼ばれる」
「名前を?」
「ここでは名前を知られたら終わり」
その瞬間だった。
「アステリオン……」
低い女の声が聞こえた。
彼は立ち止まった。
胸がどくりと鳴る。
「今の……」
「振り返るな!」
メリアの鋭い声が飛ぶ。
だが遅かった。
アステリオンは反射的に後ろを向いてしまった。
闇の中に、母の姿が立っていた。
痩せた肩。やつれた頬。幼い頃、熱を出した彼の額へ濡れ布を当ててくれた手。その記憶のままの姿だった。
「アステリオン」
優しい声だった。
懐かしくて、胸が痛くなる。
「母さん……?」
メリアが舌打ちした。
「偽物よ!」
だが女は悲しそうに目を伏せた。
「ひどいわね。自分の母親を偽物扱いするなんて」
その声を聞いた瞬間、アステリオンの頭に幼い日の記憶が流れ込んできた。麦の焼ける匂い。夕暮れの海。母の笑い声。忘れていた温度が胸を締めつける。
「帰っておいで」
女が両腕を広げる。
「寒かったでしょう? 怖かったでしょう?」
アステリオンの喉が震えた。
足が勝手に前へ出る。
そのとき、ぱちん、と乾いた音が響いた。
頬に激痛が走る。
メリアが平手打ちしていた。
「目を覚ませ!」
「……っ!」
「匂いを嗅いで!」
アステリオンは息を吸った。
硫黄。
腐肉。
血。
母の匂いではない。
次の瞬間、女の顔が裂けた。
頬が耳まで裂け、黒い牙がのぞく。眼球がどろりと垂れ、長い舌が岩を舐めた。
「惜しかったのに」
女だったものが笑う。
喉の奥で無数の虫が鳴くような声だった。
「もう少しで、おまえの心臓を食べられたのに」
アステリオンは後退った。
胃がひっくり返りそうになる。
「なんだよ……これ……」
「タルタロスは記憶を喰う場所よ」
メリアが短剣を抜く。
「愛してる相手ほど利用される」
化け物が跳びかかってきた。
岩を削る爪の音が響く。
アステリオンは咄嗟に松明を突き出した。青い炎が怪物の顔を焼く。肉の焦げる臭いが広がった。
「ギャアアアッ!」
怪物が絶叫する。
メリアが駆ける。
「伏せて!」
銀の刃が闇を裂いた。
一閃。
怪物の首が転がる。
だが首だけになっても笑っていた。
「逃げられない」
ごろりと転がった頭が囁く。
「タルタロスは全部知ってる。おまえたちの罪も、後悔も、欲望も」
メリアは無言で頭を踏み砕いた。
黒い液体が飛び散る。
熱かった。
アステリオンは息を切らしながら壁へ背を預けた。
「……お前、慣れてるのか」
「慣れたくなんかない」
メリアの声は硬かった。
「でも止まったら死ぬ」
二人は再び歩き始めた。
やがて石段は終わり、巨大な地下河へ出た。
黒い水が静かに流れている。
だが耳を澄ますと、水音に混じって無数の声が聞こえた。
「助けて」
「寒い」
「苦しい」
「ここから出して」
川そのものが呻いている。
アステリオンの背筋に冷たい汗が流れた。
「なんだ、この川……」
「死者の涙でできてる」
メリアが呟く。
「名はコキュートス」
岸辺には一艘の舟があった。
舟守は老人だった。骨のように痩せ、灰色の瞳をしている。
「渡りたい者か」
しゃがれ声だった。
老人は二人を見た。
「代価を払え」
「金貨ならないぞ」
アステリオンが言うと、老人は口の端を歪めた。
「そんなものはいらぬ」
その目がぎらりと光る。
「思い出を置いていけ」
沈黙が落ちた。
川の匂いは鉄臭かった。血の臭いに似ている。
メリアが静かに尋ねた。
「何を差し出せばいい?」
「最も大切な記憶をひとつ」
老人は空の壺を差し出した。
「入れろ」
アステリオンは眉をひそめた。
「意味がわからねえ」
「すぐ分かる」
老人の声と同時に、壺の中から冷気が溢れた。
アステリオンの頭へ、突然、幼い日の記憶が浮かぶ。
祭りの日。
父に肩車された感覚。
夕日に染まる白い神殿。
笑い声。
温かな手。
その記憶が、ずるり、と壺へ吸い込まれていった。
「やめろ!」
彼は叫んだ。
だが止まらない。
胸の奥から、大事なものが剥がされる感覚。
吐き気がした。
数秒後、吸い込みは止まった。
アステリオンは荒い息を吐いた。
「……何を取られた?」
だが思い出せない。
確かに大切だったのに、その輪郭だけが消えていた。
メリアも青ざめていた。
「行くわよ」
彼女は震える声で言った。
「これ以上ここにいたくない」
二人は舟へ乗り込む。
老人が櫂を押した。
黒い川がゆっくり舟を飲み込む。
遠くの闇の中で、何か巨大なものが目を開いた。
赤い。
灼けた鉄みたいな目だった。
その瞬間、川全体が震えた。
「来るぞ」
老人が呟く。
アステリオンが顔を上げる。
「何が?」
老人は笑った。
歯が一本もなかった。
「タルタロスの王だ」




