第1話 その恋はスパイシー
古来より、勇者とは選ばれし強者であり、その歩みは常に伝説と共にあった。
ある者は一振りで山を割り、またある者はその一歩で大地を揺るがした。邪悪な竜は勇者の眼光を恐れ、その存在は荒野の魔物たちを凍りつかせたという。
……そう、勇者とは、まさに世界の希望そのものであった。
そしてここに、新たな伝説を刻むを男がいた。
……といっても、彼が刻んだのは歴史ではなく、村の広場に無様に這いつくばった際の「顔の跡」であったのだが。
「——いいか、イチカラ! 二度とこの村の敷居を跨ぐんじゃないぞ!」
静かな朝の空気を切り裂いたのは、ココロ村の村長の、血管が切れんばかりの怒鳴り声だった。
村の広場の中央。勇者専用の立派な甲冑……を着用するはずの場所にいたのは、ボロ布のような服をまとい、頭から足先まで「謎の透明な液体」でベタベタになった青年、イチカラである。
「そ、そんなぁ村長! あれはスライムが卑怯だったんです! まさかあんな隙間から……」
「黙れ! スライム一匹に負けて、挙句の果てに全身『ぬめり』まみれにされて命乞いするなど、勇者の家系の面汚しもいいところだ!」
村長の指し示す先には、イチカラの全財産が入った小さな布袋が、ゴミのように放り出されていた。
「一から出直してこい! その名前の通りにな!」
ドゴォォォォン! と、村の巨大な正門が情け容赦なく閉ざされる。
イチカラは、スライムの粘液で顔を地面に張り付かせたまま、一歩も動けずにいた。
「う、うわぁぁぁぁん! スライムのバカぁぁぁ! 村長のケチぃぃぃ!」
朝焼けの荒野に、勇者の(情けない)咆哮が空虚に響き渡った。
どれくらい歩いただろうか。
全身を覆っていたスライムの「ぬめり」はすっかり乾き、今度は砂埃と混ざり合って、
その姿はまるでカサカサの泥人形のようだ。
「お腹すいた……。村長、せめて干し肉の一つくらいくれてもいいのに……」
胃袋が「ギュルル」と悲鳴を上げる。
意識が朦朧としてきたその時、イチカラの鼻腔を香ばしい匂いがくすぐった。
「これは……美味しいお肉と、スパイシーな香辛料の香り……!」
匂いに引き寄せられるようにして、イチカラは小さな町——「オイシー村」の門をくぐった。そこは、至る所から食欲をそそる匂いが漂う、まさに天国のような場所だった。
フラフラと歩いた末にたどり着いたのは、村で一番賑わっている食堂だった。
「ひ、ひと口だけでも……」
力尽きて店の前で倒れ込んだ瞬間、イチカラの鼻先に、甘くて温かいスープの匂いが漂った。
「あらあら、大丈夫? 勇者様がこんなところで泥だらけになって……」
鈴を転がすような声と共に、目の前に天使が現れた。
看板娘のメシコだ。彼女は倒れているイチカラを優しく抱き起こし、店の中へと連れ込んでくれた。
「ほら、これ。特製スープよ。私の手作りなの」
運ばれてきたスープをイチカラがかき込む。全身に力が満ちていく。
美味い。美味すぎる。そして、メシコが笑っている。
「ふふっ、すごい食べっぷり。口元、汚れてるわよ?」
メシコが不意に顔を近づけてきた。
そして、イチカラの口元についていたスープの染みを、その指先で優しく拭い取ったのだ。
……そして、あろうことか。
「ペロリ」
彼女は自分の指についたスープを、イチカラの目を見つめながら口に入れた。
「え、あ、え……っ!?」
イチカラの心臓が、まるで爆弾のように「ドクン!」と跳ね上がった。
「メシコちゃん……!」
「なーに? 勇者様。……ふふ、そんなにじっと見つめられると、恥ずかしいわ」
メシコは頬をほんのり赤らめ、上目遣いでイチカラを見つめた。
もし、本当に私の専属になってくれるなら……。
メシコはイチカラの汚れた手を、その白い両手で優しく包み込んだ。
「毎日、私がとびきりのオムレツを焼いてあげる」
イチカラの頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
追放の悲しみも、スライムの「ぬめり」も、全てが吹き飛んだ。
「ぼ、僕でよければ! 今すぐこの村の専属勇者になります! メシコちゃん、大好きだーーー!!」
イチカラが告白しようとしたその時、店の入り口が轟音と共に開いた。
「メシコォー! ただいま戻ったぞ! 今日のスパイスは最高級のやつだ!」
店の入り口に現れたのは、筋肉の鎧をまとったような男——村のコック長、マッチョだ。その背中には、彼自身の体重よりも重そうなスパイスの袋が背負われている。
「あ、マッチョさん! おかえりなさい!」
メシコは明るく笑い、マッチョのもとへ駆け寄った。イチカラの手を握っていたことを忘れて。
「おや? そちらのひょろひょろした男は……」
「イチカラ様よ! 私のスープを食べてくれたの!」
マッチョは訝しげな視線をイチカラに向けた。そのプレッシャーだけで、イチカラは「ひえっ」と情けない声を上げて後ずさる。
——その時だった。
ドゴォォォォン!!
大地を揺るがす轟音と共に、食堂の壁が吹き飛んだ。
砂煙の中から現れたのは、巨大な赤いトカゲ——激辛スパイスを主食とする「ハラペーニョ・ドラゴン」であった。
「グルァァァァ! この村の全てのスパイスを寄こせ!」
村人が悲鳴を上げて逃げ惑う。
「メシコ、下がっていろ! このマッチョ様が料理にしてやる!」
マッチョが自慢の巨大包丁を構え、果敢にドラゴンへ立ち向かった。
「まずは、そのスパイスを鼻の穴に突っ込んでやるぜ! ハラペーニョ・ブレス!!」
ドラゴンが鼻から放った激辛ガスをまともに浴びたマッチョは、一瞬で顔を真っ赤にし、「あふぅん」と目を回してその場に崩れ落ちた。
「マ、マッチョさぁぁぁん!?」
「メシコちゃん、危ないっ!」
巨大なドラゴンの爪が、恐怖に立ちすくむメシコへ振り下ろされる!
「ああっ!」
メシコが目を閉じた、その瞬間だった。
「メシコちゃんが将来作ってくれるオムレツは……僕が守るんだぁぁぁ!!」
それは叫びというより、魂の咆哮だった。
イチカラの目から「ヘタレ」の光が消え、代わりに見たこともないほど鋭い闘志の炎が宿る。
彼の手には、気絶したマッチョが落とした巨大な包丁が握られていた。
——その速度、音速を超えた。
キィィィィィン!
空間を切り裂くような金属音。
ドラゴンの爪がメシコに届くよりも早く、イチカラはドラゴンの懐へ飛び込んでいた。
一閃、二閃、三閃……その数、数千回。
「グル……ガ……?」
ドラゴンが理解できない声を上げる。
次の瞬間、ドラゴンの巨体が、まるで芸術品のように綺麗に、均等に、そして瞬時にみじん切りにされて崩れ落ちた。
「な、なんて、包丁捌き……」
瓦礫の山となった食堂の真ん中。
イチカラは、刃こぼれ一つない包丁を構え、震える息を吐きながらメシコを見つめた。
先ほどまでのヘタレっぷりは跡形もない。
「メシコちゃん。……好きだ。僕の嫁になってくれないか!」
満身創痍の姿で放った、命がけのプロポーズ。
メシコは驚いたように目を見開き、そして……ふんわりと優しい笑顔を浮かべた。
「イチカラ様……素敵でした。私のために、命をかけてくださって」
……やった。
イチカラの心臓が、勝鬨を上げる。
「でも……」
メシコの笑顔が、少しだけ引きつる。
「実は私、このマッチョさんと、来週結婚するんです」
……え?
「な……!」
イチカラの時間が止まった。
崩れ落ちるドラゴンの音よりも激しい衝撃が、彼の脳内に響き渡る。
「あはは! 実は私、マッチョな人が大好きで! 勇者様みたいなひょろひょろの人は、弟みたいで安心するんですけどね!」
爽やかに、メシコは止めを刺した。
立ち尽くすイチカラの背後に、気絶していたマッチョが「うぅん……メシコ……?」と目を覚ます。
……こうして、オイシー村の危機は去り、イチカラの初恋は、文字通り激辛のスパイスと共に粉砕された。
——こうして、無能な勇者イチカラの、波乱に満ちた(そして切ない)旅は、まだ始まったばかりであった。
読んで頂きありがとうございます。
今回はギャグテイストな作品にしてみました。
頭を空っぽにして読んで頂けたらうれしいです。
特に伏線等はあまりないので笑ってもらえればうれしいです。




