第九話 全能の特異点、あるいは法則の再定義
天上界セレスティアの黄金の空が、パキパキと音を立てて剥がれ落ちていく。その下から覗くのは、天ケ瀬累が支配する漆黒の宇宙——絶対零度の虚無と、瞬くことのない星々の冷徹な輝きだった。
「馬鹿な……世界の根源たるこの天上界を、物理的質量で押し潰すだと!? そんな不条理、因果律が許すはずがない!」
最高神アストライオスが、その巨体を震わせて絶叫する。彼の背後に浮かぶ「審判の天秤」は、累から溢れ出す漆黒の波動を計測しきれず、針が狂ったように回転し、ついには爆発して砕け散った。
神々の理が、一個人の「意志」に負け始めている。
「因果律、か。懐かしい言葉だな」
累は、自らの胸を貫いていた光の鎖を、まるでおもちゃの糸でも引き千切るかのように無造作に引き抜いた。傷口からは赤黒い霧が噴き出しているが、累はその痛みすら愉悦に変えるように、不敵な笑みを浮かべる。
「アストライオス。お前たちの間違いは、俺を『この世界の住人』として扱おうとしたことだ。俺はこの宇宙の王だ。お前の言う『因果』も『運命』も、俺の庭では俺が決めた予定調和に過ぎない」
累が虚空に手をかざすと、砕け散った天秤の破片が一点に収束し、一本の漆黒の長剣へと変質した。それは、神の武具を累が全能権限で「ハッキング」し、自分の支配下に置いた証だった。
「【事象崩壊】。——消えろ。お前の存在そのものを、一億年前の虚無へ送り返してやる」
累が長剣を振り下ろした瞬間、剣先から放たれたのは「暗黒物質」の奔流だった。それは光さえも逃げられない超重力の渦となり、天上界の黄金の神殿を、そしてアストライオスの十二枚の翼を、容赦なく飲み込んでいく。
「おのれ……! 神を……この世界の理を、侮るなぁぁ!」
アストライオスが最後の神威を振り絞り、自身の肉体を「光そのもの」へと変換した。質量を持たない光の状態になれば、重力干渉から逃れられるという、神ならではの高度な判断だった。
しかし、累の口角がさらに深く吊り上がる。
「光になれば逃げられると思ったか? 残念だったな。俺の宇宙では、光は曲がるもの(・・・・・)なんだよ」
累が指をパチンと鳴らす。
【法則書き換え(リライト)】:相対性理論の強制適用。
次の瞬間、光となって逃げようとしたアストライオスの軌道が、目に見えない巨大な質量の歪みに捕らわれ、累の掌に向かって螺旋を描いて吸い寄せられた。
「な……な、何だ!? 私の体が……引き戻される!? 重力が……光を捕らえているというのか!?」
「アインシュタインに感謝しろ。これが、俺の住んでいた宇宙のルールだ」
累は、光の塊となったアストライオスの首を、実体化した瞬間に力任せに掴み上げた。
最高神の首筋から、黄金の血液が累の腕を伝って流れ落ちる。神域の王としての威厳は、今や完全に消失していた。
「さあ、お前たちの管理者権限を渡してもらおうか。この世界の全ての魂の記録、魔法の術式、そして『生命の樹』の管理コードだ」
「……断、る……。私が消えても、世界は……貴様のような……暴君を……許さ……」
「いい加評にしろ。許す許さないを決めるのは、今日から俺なんだ」
累の瞳が漆黒の渦に染まる。
彼は全能権限をアストライオスの意識に直接叩き込んだ。記憶を、精神を、そして神としての本質を「初期化」する。
「ああ……あああぁぁぁぁぁぁ!!」
天上界全域に、神の断末魔が響き渡る。
アストライオスの体から、この世界の全魔力を管理する「黄金のコード」が幾千もの糸となって溢れ出し、累の指先へと吸い込まれていった。
――【異世界管理者権限:接収完了】。
――【全能権限レベル:上昇】。
脳内に響く無機質な声と共に、累の体に凄まじい衝撃が走った。
元の宇宙の物理法則と、この世界の魔法的法則。相反する二つの力が、累という器の中で融合し、一つ上の次元の力へと進化していく。
累の背後に、巨大な「黒い太陽」が顕現した。
それは、全ての光を吸い込み、同時に全ての可能性を吐き出す、新世界の理の誕生だった。
「……ふぅ。ようやく、この世界が俺の体の一部になった気分だ」
累が周囲を見渡すと、そこにはもはや「黄金の天上界」は存在しなかった。
宮殿は漆黒の城郭へと再構築され、空には累の支配する銀河が悠然と流れている。生き残った下級神たちは、恐怖すら忘れたような恍惚の表情で、新たな唯一神となった累の前に膝をついていた。
「累様、お怪我は……」
拘束を脱したブリュンヒルデが駆け寄る。彼女の瞳には、神を屠り、さらなる高みへ登った主への、狂気的なまでの思慕が宿っていた。
「怪我か。……ああ、これか」
累は自分の胸の傷に触れた。傷は瞬時に塞がり、衣服さえも元通りに再生される。
だが、その痛みは累の中に確かな「変化」をもたらしていた。
「ヒルデ。苦戦するのも、たまには悪くないな。おかげで、この世界を『支配』するのではなく『改造』する楽しみを見つけた」
累は玉座に座り、眼下に広がる地上の景色を眺めた。
一週間前までは見知らぬ異世界だった場所。今やそこは、彼の思考一つで気候も、地形も、住人の運命も変えられる巨大な箱庭だ。
「さあ、第二フェーズだ。この世界の住人たちに、新しいカレンダーを配れ。今日が『天ケ瀬紀元』の一日目だ」
累は右手を天に掲げ、この世界を覆う大気そのものを「自身の魔力」へと変換した。
全人類、全魔族、全生物。この世界に生きるすべての生命は、呼吸をするたびに累の魔力を体内に取り込み、彼の奴隷としての刻印を魂に刻まれることになる。
「支配しきって退屈なら、もっと面白い世界を創ればいいだけだ」
全能者の野心は、侵略の果てに「創造」という名の新たな蹂躙へと足を踏み入れた。
だが、その時。
累の【全能権限】が、さらに遠く、さらに深い場所から届く「未知の鼓動」を検知した。
「……ほう。この世界の『外側』に、まだ別の層があるのか」
累の唇が、凶悪な形に歪んだ。
一つの異世界を呑み込んだ程度では、神となった男の渇きは、到底癒えそうになかった。




