第八話 神域の拒絶、あるいは全能の綻び
魔王ルシフェルを膝つかせ、魔界を版図に加えた天ケ瀬累の次なる標的。それは、この世界の空のさらに上――物理的な空間を超越した位相に存在する、神々の居住区「天上界セレスティア」だった。
累はブリュンヒルデと共に、魔王城の跡地に築いた転移門をくぐり抜ける。通常、生身の人間が踏み込めば、その神聖な圧力だけで魂が霧散すると言われる禁足地。だが、累は玉座に座したまま、平然と次元の境界を突破した。
「ここが天上界か。魔界とは打って変わって、鼻につくほど澄んだ場所だな」
視界に広がるのは、雲を足場とした黄金の神殿群。空気そのものが高純度の魔力で構成され、音の一つ一つが聖歌のような余韻を響かせている。
だが、その地へ足を踏み入れた瞬間。累の脳内の【全能権限】が、これまでにない激しい警告信号を放った。
『警告:環境定数の極端な変動を検知。この空間は「個人の意志」ではなく「世界の根源法」によって直接維持されています。全能権限の出力、四〇%まで自動減衰。干渉の承認が拒絶されました』
「……何だと?」
累の眉がピクリと動く。
彼が指を弾き、目の前の神殿を「砂に変えよう」と思考した。しかし、これまでは一瞬で事象が確定していたはずが、神殿の壁はわずかに揺らいだだけで、すぐに黄金の輝きを取り戻した。
「累様、私の出力も低下しています。空間そのものが、私たちの存在を『不純物』として検知し、因果律のレベルで排除しようとしています!」
ブリュンヒルデの銀髪が逆立ち、彼女を構成するエネルギーがバチバチと火花を散らす。彼女の存在自体が、天上界の「理」によって否定されようとしているのだ。
「面白い。俺の全能が、たかだか世界の端くれにある場所で弾かれるというのか」
累が立ち上がろうとした時、天上から一筋の、あまりに巨大な光の柱が降り注いだ。
「――身の程を知れ、異宇宙の簒奪者よ」
光の中から現れたのは、十二枚の翼を持ち、全身が法則の文字で刻まれた巨人。この世界の法を執行する最高神、審判の王・アストライオスだった。
「ここは貴様が支配してきた死んだ宇宙ではない。万物の生々流転を司る、真なる神の領域。貴様の『意志』など、ここでは木の葉一枚動かす力も持たぬ」
アストライオスがその巨大な天秤を掲げると、累の周囲の空間が突如として「凍結」した。
温度の低下ではない。時間の停止でもない。累という存在が持つ「可能性」そのものを、神の重みが押し潰したのだ。
「【事象確定】:静止」
「ぐ……っ!?」
累の体が、かつてないほど重く沈む。
一歩を踏み出そうとしても、足が地面(雲)に吸い付き、動かない。
これまで「動きたい」と思えば動けた累にとって、自分の肉体が自分の制御を離れるという経験は、全能になって以来初めてのことだった。
「【法則改変】! 空間を……解放しろ……!」
累が叫ぶ。全能権限を最大出力で回そうとするが、彼の命令はこの世界の根源法に届く前に、アストライオスが展開する「神の絶対障壁」に弾かれてしまう。
「無駄だ。貴様の力は、この宇宙の物理学に基づいたもの。だが、この天上界は『物理』を超越した『概念』の庭。貴様がどれほど原子を操ろうと、存在の根源を握る我らには届かぬ」
アストライオスが指を振り下ろすと、累の胸を無数の光の鎖が貫いた。
痛みではない。累がこれまで積み上げてきた「全能の自負」が、根底から否定されるような衝撃。
「累様!!」
助けに入ろうとしたブリュンヒルデも、別の神々が放つ法の拘束を受け、地に伏している。
「……は、はは……。苦戦、か。これが、苦戦というものか……」
累は口の端から、一筋の血を流した。
肉体の損傷。全能になってから、死を克服したはずの彼にとって、その赤い液体は「人間であった頃」の屈辱を思い出させるものだった。
「貴様は、全能という力を使いこなしているのではない。ただ、力の大きさに溺れているだけだ。真の神とは、力そのもの。貴様はただの、力の所有者に過ぎぬ」
アストライオスが宣告し、巨大な光の剣を累の頭上に振り上げた。
このまま消滅するか。あるいは、これまでの万能感と共に塵に帰るか。
だが、絶体絶命の窮地にあって、天ケ瀬累の瞳から光は消えていなかった。
むしろ、これまでになかった狂気的なまでの「愉悦」が、その瞳の奥で燃え上がっていた。
「……アストライオスと言ったか。感謝するぞ。俺は、これ(・・)を待っていたんだ」
「何を……死を前にして、狂ったか?」
「死ぬ? 誰がだ。……俺は今、初めて理解した。この世界の『理』が俺の全能を弾くなら、俺の全能をこの世界の理に合わせる(・・・・)必要なんてなかったんだ」
累の体から、それまでの青白い光とは異なる、ドロリとした「漆黒」の波動が溢れ出した。
それは、彼が支配した宇宙の「負」の側面。ブラックホールの特異点、真空の虚無、すべてを無に帰す「宇宙の終焉(熱的死)」のエネルギー。
「お前たちの理が俺を拒絶するなら……そのシステムごと、俺の宇宙で『上書き』してやる。無理やりな。……【全能権限:強制介入モード】、起動!」
累の背後に、彼が支配する銀河の縮図が、天上界の空を覆い尽くすように展開された。
黄金の空が、一瞬にして暗黒の宇宙へと塗り替えられていく。
神々の理と、累の全能。二つの異なる世界の「法」が激しく衝突し、次元そのものが絶叫を上げた。
「な……!? 概念を、暴力で塗りつぶそうというのか!? そんな不条理、許されるはずが――」
「不条理? ああ、そうだよ。それが『全能』っていう力なんだ」
累は貫かれた鎖を素手で掴み、力任せに引き千切った。
一歩。重圧を跳ね除け、累が神域を踏みしめる。
その足跡からは、黄金の雲が消え、冷たい宇宙の塵が舞い上がる。
「さあ、第二ラウンドだ。神様。お前たちの『絶対』が、俺の『退屈』にどこまで耐えられるか、試してみようじゃないか」
累の全身を、漆黒の雷鳴が駆け抜ける。
苦戦を経て、全能者は「さらに凶悪な支配者」へと進化しようとしていた。




