第一話 神になった日、東京が平伏した
二〇二五年、十二月二十八日。
その日、世界は終わるはずだった。あるいは、始まったというべきか。
東京、新宿。
二十四歳になる天ケ瀬累は、築四十年、家賃四万五千円の安アパートで、冷え切ったコンビニ弁当の残骸を眺めていた。
派遣切りに遭い、銀行残高は数百円。スマホには消費者金融からの督促メールが、鳴り止まない通知音と共に並んでいる。
「……消えちまえばいいのに」
それは、累が人生で数千回は繰り返してきた、無力な独り言だった。
このクソみたいな部屋も。
俺をゴミのように切り捨てた会社も。
金がなければ死ねと言わんばかりの、この社会というシステムも。
「全部、俺の思い通りに消えてなくなればいいんだ」
その瞬間だった。
脳を直接、巨大な杭で貫かれたような衝撃が累を襲った。
視界が真っ白に染まり、世界の「色」が反転する。
『――全宇宙の根源的意志「ボイド」との同調を確認』
『管理者権限を個体名:天ケ瀬累へ譲渡します』
『現在より、この宇宙のあらゆる物理法則、因果律、事象の確定権は貴方の思考に依存します』
無機質な声が脳内で響き渡ると同時に、累の脳に「膨大な力」が濁流となって流れ込んだ。
それは知識ではない。感覚だ。
目をつぶっていても、新宿を歩く数万人の心臓の鼓動がわかる。地下を流れる下水の濁りがわかる。地球の裏側で昇る太陽の熱量が、自分の指先のようにリアルに感じられる。
「なんだ……これは。俺は、何を……」
累はフラフラと立ち上がり、鏡を見た。
そこに映っていたのは、昨日までの冴えない派遣社員ではなかった。
瞳には銀河のような輝きが宿り、肌からは神聖なまでの透明感が溢れている。
試しに、机の上に置かれた督促状を指差した。
「燃えろ」
そう思考した。
紙が発火したのではない。その空間の「原子の振動」が累の意志によって書き換えられ、一瞬で紙が灰へと変わった。
「は……はは……!」
心臓が激しく脈打つ。
次に累は、窓を開けて外へ飛び出した。
いや、「飛び出した」のではない。彼は空中に固定されていた。
重力という、この宇宙で絶対のはずの法則が、累の「歩きたい」という意志の前に屈服し、彼を支える足場へと変わったのだ。
「ああ、そうか。なるほどな」
累は空中で独りごちた。
「俺が『そうあれ』と思えば、世界はその通りになる。それが全能か」
彼はゆっくりと、新宿の空へと昇っていった。
地上では、街頭ビジョンのニュースやスマホの画面を眺めていた人々が、一人、また一人と空を見上げる。
「おい、人が浮いてるぞ!」
「マジかよ、撮影しろ!」
「映画の宣伝か?」
騒ぎは一瞬で伝播した。数千、数万のスマホのレンズが累に向けられる。
その時、累の心に湧き上がったのは、喜びではなかった。
――不快。
ただ、それだけだった。
昨日まで自分を無視し、踏みつけてきたこの世界が、今さら驚きをもって自分を注視している。その滑稽さが、我慢ならなかった。
「……まずは、挨拶だ」
累は、眼下にそびえ立つ東京都庁を見下ろした。
権力の象徴。自分のような弱者を管理し、縛り付けてきたシステムの心臓部。
累は、右手を軽く広げた。
「【物質変換】:崩壊(ディス統合)」
音はなかった。
巨大な二つの塔を持つ都庁舎が、まるで氷細工が熱湯に溶けるように、サラサラとした光の粒子に変わっていく。
鉄骨も、コンクリートも、その中にいた人間さえも。
累の「消えろ」という意志によって、物質としての存在定義を取り消されたのだ。
「ひ、ひいいいっ!?」
「都庁が……消えた……!?」
静寂。そして、絶叫。
新宿は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
「騒がしいな」
累はわずかに眉をひそめた。
彼が指を鳴らすと、新宿周辺の「音」という概念が消失した。
人々は口を大きく開けて叫んでいるが、空気の振動が累の結界によって遮断され、完全なる静寂が支配する。
累は、全人類の脳内に直接、自分の声を叩き込んだ。
スピーカーも電波も必要ない。彼は「全人類が俺の声を聞く」という結果を、因果律を操作して強制的に発生させたのだ。
『地球に住む全人類に告ぐ』
その声は、優しく、そしてこの世の何よりも冷酷に響いた。
『俺は天ケ瀬累。今日、この瞬間、俺はこの宇宙の「神」となった。お前たちの法律、宗教、科学、国家――それらすべては、今この瞬間をもって無効だ』
人々はパニックに陥り、我先にと逃げ惑う。
自衛隊や在日米軍が即座に反応した。横田基地、厚木基地から戦闘機がスクランブル発進し、空中に浮かぶ「正体不明の脅威」へと向かう。
最新鋭のミサイルが数発、累に向けて発射された。
「無駄だと言っているんだ」
累が視線を向けただけで、飛来するミサイルの軌道が曲がり、発射した戦闘機へと逆流した。
空中で花火のような爆炎が上がる。
だが、その破片一つ、累に届くことはない。
『抵抗は認めない。理解しろ。俺にとって、お前たちの命を奪うことも、この惑星を粉々に砕くことも、瞬きするより簡単だということを』
累は地上に視線を落とした。
そこには、かつての自分と同じように、絶望して空を仰ぐ者たちがいた。
かつての累なら同情したかもしれない。だが、全能の力を得た今の累にとって、彼らは自分と同じ生命体ですらなかった。
顕微鏡で覗く微生物。あるいは、シミュレーションゲームの中のドット絵。
「さて、東京はこれでいい。次は日本全土、そしてこの青い星すべてを、俺の所有物に書き換える」
累は思考を加速させる。
彼の意識は地球を離れ、月の裏側へ、火星の荒野へ、土星の環へと広がっていく。
宇宙のすべてが、累の意志を待っている。
彼はゆっくりと、漆黒に染まり始めた空を見上げた。
この宇宙は狭すぎる。
日本を支配し、地球を平らげ、太陽系を領土とした先に、何があるのか。
全能になった俺を満足させてくれるものは、この宇宙のどこにあるのか。
「楽しみになってきた。俺がどこまで『行ける』のか」
累の周囲で、現実が歪み、空間が軋む。
それは、一人の青年が「人間」を辞め、全宇宙を侵食する「概念」へと進化した瞬間だった。
天ケ瀬累による、地球征服。
そしてその先に続く、銀河、宇宙、そして「異世界」までもを呑み込む侵略記の幕が、今、切って落とされた。




