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第二章

 だからこそ、Bというクライアントの忘却内容を確認したとき、Aは心の底から困惑した。彼の記憶は、冗長な言い方をすれば、幸せそのものだった。Aがその一切を頭の中から消し去ってしまった家族の記憶。穏やかで優しい母親、厳格そうに見えるがどこか憎めない父、喧嘩の一度もしたことがないほど仲の良かった兄……。誰であろうと、この記憶を忘れるには惜しすぎると思うだろう。

「困惑していますか」

忘却内容が書かれた資料を見ながら困惑し、幸せな記憶を持っていることに羨んでいたAはしばらく言葉を失っていたようで、「やはり」というような表情で苦笑しながらBは言った。

「いえ……」

「こんな記憶を消そうとする人なんていないことくらいわかってきていますから」

とっさに職員としての自分に戻ろうと、平常心で対応しようと努めたが、穏やかで、達観したようなBの様子を見て、Aは正直に答えた。

「すみません。とても、幸せな記憶だったもので……」

「そう言っていただけると、とてもうれしいです」

Bはそう言いながら控えめに笑った。Aはそのしぐさに、何故か不思議な印象を受けた。花が咲く手前のような親しみが感じられた。互いに年齢が近いという理由だけではないとAは思った。そのため更に、この忘却内容の異質さが際立ち、疑問を感じずにはいられなかった。

「……理由をお聞きしても?」

予想通りの質問が来たであろうBはまたしても「やはり」という表情で苦笑した。彼は笑ってばかりだ、とAは思った。そして「最悪の答え」を聞くことに少し身構えた。

「別に、家族が死んだとか、そういう理由ではないので安心してください。本当に、大した理由ではないんです」

 Aは内心、予想していた最悪の理由ではないことにホッとしながら、先ほどから自分の考えていることがすべてBに見透かされているじゃないかと思った。

「では、なぜ……」

 しかしそうなってくると、ますますこの幸せな記憶を忘れるというBの決断の意図が分からなかった。

「理由を話すのは、もう少し後でもいいですか」

「ええ、もちろん」

Aは気がかりではあったが、これ以上彼の事情に深く踏み込むべきではないのではないかと薄々考えていた。

「当局はクライアントの意思を尊重しますから、無理に理由を言う必要もないんですよ。先ほどは失礼なことを聞いてしまい、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、僕は何も気にしてないので。むしろ変な客として来てしまってすみません」

「とんでもないです。私たちはクライアントの充足のために全力でBさんをサポートさせていただきますから。これから何度かカウンセリングがあるので、何かありましたら気軽にお尋ねください。では、本日は簡単な手続きと挨拶だけなので、また次のカウンセリングでお会いしましょう。Bさん、短い間ですが、よろしくお願いします」

何千回、何万回と繰り返したこの挨拶を言っていると、Aは心が落ち着いてきた。自分が記憶管理局の職員であること、目の前にいるのは、記憶内容こそ少し変わっているが、他のクライアントと何ら変わり無いということを自分に言い聞かせ、穏やかで冷静ないつものAの調子に戻りつつあった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。Aさん」

深々と頭を下げるBを見ながら、Aはこれからのことを考えた。彼の記憶については今後触れてもいいのか、本当に忘れさせてしまってもいいのか、自分ひとりで決めていいのか、など、際限なく疑問と不安が出てきた。Aは、自分のような記憶が空っぽな人間が一人、この世に誕生しようとしていることに、得も言われない焦燥感を感じた。


「こんにちは、Bさん」

「どうも、いいお天気ですね」

家族の記憶を忘却しようとしているという点を除けば、Bという男は、「好青年」という言葉がよく似合う、清潔感のある男性だった。よく手入れのされたワイシャツと、グレーのパンツという身なりで、洗濯物の匂いがした。しかし明るいところでよく見ると、表情だけは年齢よりも少しくたびれている印象だった。その表情の陰りみたいなものが、Bという男性に、深みを与えているようだった。好印象で話しやすいのにもかかわらず、どことなく他者を寄せ付けない空気感が、彼の周りを包んでいた。

「……春ですね」

「ええ」

「Aさんは、桜を見ましたか」

「はい、少し。もう散りかけていましたが……」

「私は、散りかけの桜も好きですよ。何なら、完全に緑になってしまった桜の木もどこか憎めない美しさがあるような気がするんです」

Bは、世間話が好きな男性だった。記憶管理局の職員と話している、という感覚が一切ないようにAは思われた。確かに、クライアントの中では世間話を多くする人もいたが、それはこれから行われる忘却施術への不安、葛藤などをごまかすためにすることが多いのだが、Bに限っては、本当に、心からの雑談を楽しんでいるように思えた。

「昔ね、家族全員で花見に行ったんです。それが、みんなの都合が合わなくって、桜がほとんど散った頃になってしまったんです。ほとんど緑になった桜の下でレジャーシートを敷いて、僕も兄も、最初は不服だったんですけど、ご飯はおいしいし、ぽかぽかで心地が良かったし、すっかりご機嫌になってね、最後には、『まだ帰りたくない』って駄々までこねて……あれは、楽しかったなぁ」

「それを、あなたは忘れてしまうんでしょう」と、Aは言えなかった。Bには忘却の理由を言えないなにか事情があって、その事情が彼の口から直接発されるまでは、大人しくこの話を聞いていようとAは思った。

「ご家族とは、仲が良かったのですね」

「ええ……」

本来なら、「その思い出を大切にしてください」などと言えばよいのかもしれない。しかし今彼が語っているのは、これから忘れ去られていく思い出なのだ。普通のクライアントであれば、忘却する記憶のことはほとんど語らない。Bの真意は、やはり分からない。そして事情を知らないから仕方ないことではあるが、Aは、あまり家族の話を聞きたくなかった。それが他人の家族ともあればなおさらで、できれば他の世間話をしてほしいと思っていた。

 その後も、彼は家族の話をした。子供のころの夏休みに海に行ったこと、紅葉を見に行く途中、車のタイヤがパンクして大変なことになったこと、大晦日の夜に初詣へ出かけたこと、兄だけがおみくじで凶をあてて笑いあったこと……。普通に家族を持つ人々であれば、至極当然で、当たり前で、しかし確かに幸せなエピソードだが、Aにとってそれは喉から手が出るほどに渇望した思い出だった。今日だけでAは「こんな家族がいたらな」と何度思ったことかわからない。そして、なぜそのような幸せの記憶を忘れていくのか、Bはそれだけをずっと語らなかった。

 それから何度かあったカウンセリングで、Bは思い出せる限りのすべての家族との思い出を語り、Aが穏やかに相槌を打った。そしてAもいつしか、Bが話す思い出を少し楽しむようになっていた。不純な理由ではあったが、彼の話を聞くことで、存在しない家族の想い出を疑似体験できたような心地になっていたのだった。家族という憧れていた存在に溶け込む自信を、容易に想像できるようになっていた。Aが特に気に入ったエピソードは、父と兄で釣りに行ったが何も釣れず、海岸に打ち上げられたヒトデを捕まえて家で飼った話、景勝地の旅行で旅館の予約が取れておらず、家族4人で車中泊した話の2つだった。

「……話せること、もう無いかもしれません」

「いや、良い話が聞けて、こちらも楽しかったです」

二人は初めて会った時よりとても親しくなっていた。数回のカウンセリングで、ここまで打ち解けられたのは初めてかもしれないと、Aは思った。それでもやはり、Bは思い出を忘れ去る理由だけは語らなかった。

「少し、外で話しませんか」

 Aの予想外の提案に、Bは少し驚いた表情を見せたが、すぐに元の品の良い微笑に戻り、提案をした。

「緑になった桜でも、見に行こうか」


 記憶管理局のすぐ傍を流れる川沿いは、春には満開の桜の木がずらりと並んでいて、地元の人々からは屈指の花見スポットとして知られている。今や花弁は全て落ちて地面に還り、ゆったりとした緑の葉がさらさらと揺れていた。初夏の後ろに、夏の気配がしていた。

 二人はその、花道から緑道となってしまった道を歩いた。Bはあの「お花見」の記憶を思い出して歩いている様だった。そんな様子を見ていたAが、何か決心して口を開く。

「これは、職員として、ではなく、一人の人間としての提案として、よく聞いてほしいんです」

 無意識に、AはBと出会った頃のかしこまった口調に戻ってしまっていた。

「これまであなたは、あなたの家族の思い出についてたくさん語ってくれました。それはもう幸せで、私なんかが想像できない程の理想の家族だと思うんです」

Bは黙って話を聞いている。Aは続ける。

「私には、家族との思い出がありません。比喩なんかではなく、本当の意味で、記憶がありません。全部、忘却施術で忘れてしまったのです。自分で決めたことなのに、後に残ったのは、空っぽの自分です。この空いてしまった虚しい心の穴を埋めようと、この5年、人の記憶と向き合ってきましたが、結局、この穴は埋まりませんでした。唯一、あなたがしてくれた家族との思い出話が、私の心を少しだけ丈夫にしてくれたのです。あなたは、こんなにも幸せな記憶を、すべて忘れてしまうのですか。その後に残るのが、空っぽな自分だとしても、忘れてしまうのですか。忘却の理由は私にはわかりません。ですがどんな理由があろうと、やっぱり、家族との思い出は、忘れるべきではないと思うんです……」

 初夏の青い匂いが鼻を撫でる。どこからか小鳥の歌が聞こえる。Aは、少し言いすぎてしまったと後悔して謝ろうとしたが、先に口を開いて誤ったのはBであった。

「本当に、ごめんなさい。どうか、僕を許してください」

 Bのその声はあふれてくる嗚咽を必死で抑えている様だった。Aに家族の記憶がないことを知らずに、自分の家族の話をしてしまったことを悔いているのだろう、とAは思った。

「いえ、気にしなくて良いんです。さっきも言った通り、あなたの話に救われたんですから」

 Bはしばらく何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。あふれてくる感情をなんとか抑え、「すみません」と軽く調子を戻しながら話し始めた。

「Aさんには、本当に感謝しています。どれだけ僕が話を続けても、穏やかに、じっと話を聞いてくれる。そして本当に申し訳ないことをした……。それでもやっぱり、僕は忘却施術を受けるつもりです。その理由は、やっぱり言えそうにありません」

絞りだしたような声でBは言った。Aにはもう、止める権利は無かった。

「……わかりました。では施術は一週間後の午後一時からです。最後まで、よろしくお願いします」

 Aそう言いながら、また深々と頭を下げた。小鳥の歌はいつも間にか聞こえなくなっていた。一週間後には、ずいぶんと初夏が暮れているだろうなと、Aは思った。



「それでは、改めて確認させていただきます」

 Aはいつもの調子で、やっぱり確かな緊張を含んで、『最後のはなし』をはじめる。

「Bさん、貴方は今後の人生の安定、充足のために『自らの意思で』指定の記憶の忘却を望まれている。お間違いないですか」

「間違いありません」

 Bは、いつものように穏やかに、しかしやっぱり少し緊張している様であった。

「今後、Bさんの人生に何か精神的なトラブルが発生した場合、当局は一切の責任を負いかねます。予め、ご了承くださいますか」

「はい」

「……分かりました。ではご準備のでき次第、Bさんのお好きなタイミングでその椅子に座り、頭に装置を付けたうえで、手元の白いボタンを押してください。次に目が覚めた際には、忘却は滞りなく完了しているでしょう」

「……分かりました」

「では、私はこれで失礼します。Bさん、どうか幸せにお過ごしください」

 Aはいつものように頭を下げる。クライアントへ、そして忘れ去られる幸せな記憶たちへ。

「Aさん」

「……何でしょうか」

「貴方も幸せに過ごしてください。」

 Bも深々と頭を下げた。Aは結局最後まで、彼が記憶を忘却する理由を聞くことができなかった。不思議なクライアントだったな、とAは思った。彼がこれから自分のような空っぽな人間になってしまわないことを、心から祈りながら部屋を出た。


次で完結いたします。

よろしくお願いします。

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