烽燧台にて
大気はシンと冷えている。
吐いた息が真白くなって広がり、薄暗い曇天と混ざって消えた。
すべてが死に絶えたような静寂の中、ただ己の吐息だけが聞こえる。
ここは高い山の頂きである。しかし、遥か見渡すことのできる地平は灰一色だった。
世界は今日も変わりがない。
どれほどの時をここで過ごしているか、彼はもはや覚えていない。
ただひたすら、己を縛る術理に従い、下界を見張り続けている。
どこかの山の峰で狼煙があがるか、あるいは攻め寄せる敵を見いだせば、即座に炎と煙でもって知らせる。
そのためだけにここにある。
だが、彼の記憶にあるかぎり、どこかで狼煙があがったことも、敵の姿が見えたことも、一度もなかった。
飽いていると言えば、とうに飽いている。
己が何者であったのか、なぜここに繋がれたのかも忘れ果てるほど、飽いている。
吐いた息が白く広がって消えた。
狼煙も敵も、なにも見えない。
それでも彼の目は逸らされることも閉じられることもなく、広い世界を見張り続ける。
それだけが彼の、いや、この烽燧台の存在意義なのだから。
***
閉じられた重い扉の前でアリスは大きなため息をついた。
まだ20前の若さの彼女は、しかし重厚な魔術師のローブをまとっている。
眉間にシワを寄せたしかめ面で、そんな顔でも可愛らしく見えてしまうのは本人の密かな悩みなのだが、部屋の中の頭の固い重鎮たちへの悪態を吐き捨てようとした。
「アリス」
名前を呼ばれ、慌てて暴言を飲み込む。顔を向ければ、幼馴染みの男ユタだった。
宮廷では騎士服を着用しているはずなのだが、上着はどこかへ放ってきたのだろう。薄いシャツ姿で鍛えた体躯が目についた。
「どうだった?」
表情らしき表情もない精悍な顔で聞いてくる。他の人間、特に女子にはこれが格好よく見えるらしいが、幼い頃から中身をよく知るアリスがこの顔に騙されることはない。
「ダメ。調べたければ勝手に自分で調べろ、だって」
不満でアリスの頬がふくらむ。無表情なユタとは反対に、アリスは昔から感情が顔貌に出やすいタチだ。
「殴り込むか?」
ユタが厚い扉の向こうへ視線を投げたのでアリスは慌てた。
「いらないから! やめてよ!」
この幼馴染みは、議会へ殴り込んでおじさんたちの固い頭を物理的に粉砕しかねない。
ユタは顔をアリスに戻し、一通の封筒を差し出す。
「家から手紙がきた。やはりもうダメらしい」
それは二人の故郷の村がなくなるという知らせだった。
「もう氷がそこまで」
「村は捨てるが、近くの町へ全員で避難するとあった。大丈夫だ」
「そうだけど。でも」
いま、世界は氷に覆われつつある。
いつからかどこからか、異常な冷気と氷との侵食が始まったのだ。
最初は作物が育ちにくくなった。土が凍り、草木が枯れ、生き物が死に絶え、やがて氷に閉ざされる。
そんな死の土地が徐々に広がっていく。
住めなくなった土地からの難民や、不作による飢餓、そして凍死という問題が、人間社会を緩やかに滅ぼしつつあった。
原因は分からない。
議会は消極的な対処と無根拠な楽観視を続けている。春になれば、と毎年繰り返すばかりだ。
けれど、何度春を迎えても、氷が溶けることも寒さが緩むことも一切なかった。ひたすら冷化が広がり、悪化していく。
このままいけば、どこにも人が住めなくなるのもそれほど遠い先の話ではないだろう。
これほどの異常が要因もなく起きたとは考えにくい。なにか原因があるはずだ。
アリスは一人で図書室へ籠った。
いや、正確に言うと、なぜかユタも一緒だった。でもユタはアリスの横で筋トレをしていただけで手伝っていたわけではない。ノーカンでいいだろう。というか、その間の騎士の仕事はどうしていたのか。
ともかく、アリスは膨大な資料を精査して、気になる伝承を見つけ出した。
ほんの僅かな手掛かり、でも糸口になりうるものだ。
しかし解明と解決のための調査団派遣は、あっさりと却下された。そんなあやふやな話に割く余力はない、という理由だ。
故郷のみなの顔が浮かんだ。その故郷も氷に飲まれてもうなくなる。
「だったら、勝手に自分で調べるしかないじゃない」
アリスはきゅっと唇を引き締めた。諦めは悪いほうだ。
***
氷が礫のように吹き荒れている。ひどい嵐だ。
「何度か派兵もして、一応原因を調べようとはしたらしいな」
前を進むユタがなにか言っているが、アリスはそれどころではない。
氷は容赦なく頭に、顔に、肩に、体にまとわりついて積もっていく。口を覆っていてもなお、吸い込む空気の冷たさが胸を刺してきた。
うかうかしていれば、外も中も氷に覆われた彫像になってしまうだろう。
「結局なにも分からずじまいか、そもそもほとんどが帰ってこなかったらしいが」
確かに調査団を出せないという議会の言い分も、仕方ないと言えば仕方なかった。
この暴風雪のなかを進むことなど、普通はとてもできない。
「で、方向はこっちで合ってるのか?」
「合ってる」
アリス一人だったなら、とっくに力尽きていただろう。アリスを庇って前を進んでくれる頑丈な幼馴染みに感謝するしかない。
思えば今回だけではない。アリスが魔術師となるため一人で村を出ることになったときも、この友は勝手についてきた。
魔術の才能と努力を認められて首都に招かれたアリスとは違って、行く先にはなんの当てもなかったはずなのに。ほんの5年前、けれど今よりずっと子供だったときに。さも当然という顔をして。
そういう奴なのだ。ずっと、いつも。
嵐を割って進む大きな背は、それでもさすがに苦しいだろう。
「ユタ、大丈夫?」
首を巡らして振り向いた幼馴染みの眉と睫毛から氷の粒がきらめいて落ちた。
「ああ。厚手の外套を着てきたからな」
平然と返してくるが、そういう問題だろうか。ユタの陰に守られているアリスがあまりの寒さと疲れで朦朧としつつあるのに。
「で、この上にはなにがあるんだ?」
二人が進んでいるのは、広がり続ける氷の死地のほぼ真ん中になるであろう山だった。
かつては霊峰と呼ばれた高い山だ。
「昔の、魔人戦争のときの烽燧台」
「ホウスイダイ?」
「狼煙をあげる施設」
「ああ。魔人戦争ってのは、あれか。じいさんのじいさんのじいさんのころ、攻めてきた魔人と戦ってたっていう」
「そう。この山の頂きに、ひとつあるはずなの」
「ふうん。それがなぜ?」
「詳しいことは、行ってみないと分からないんだけど」
かつてそこでなにか強大な魔術が行使されたという記録があった。
どんな魔術をなんのために行ったのか詳細は残っていなかったが、古の魔術が災厄の引き金となっているのかもしれない。
「じゃあ山頂を目指せばいいわけだな」
「うん、お願い」
しかし、頂へ向かって進めば進むほど、アリスの胸中には不安が押し寄せる。
辺りは吹きすさぶ氷雨で視界が利かず、頭上には氷と雪をもたらす曇天が垂れ込めている。その嵐の中に荒れ狂うような怨嗟を感じるのだ。
果たしてこれは、ただの魔術の暴走などであろうか。
***
そろそろ山頂が近い。ユタは埋もれるほどの氷と雪を剣で掻き分けて進んでいる。
こういう仕事は得意だった。人より頑丈で、膂力に優れる自覚もある。アリスからは「どこへ常識を置き忘れたの!?」などと言われるが、そもそもユタにはアリスの言う常識がよく分からない。それは好いた女を守る以上に大事なものなのだろうか。
アリスはユタの後ろを懸命に付いてきているが、彼女の限界も近い。急がなくては、と思う。
立ち塞がる氷を割ったとき、急に嵐がやんだ。視界が開ける。
「お、山頂だな」
それまでの暴風雪が嘘のような、静けさに包まれた不可思議な空間だった。
後ろから来たアリスが微かに身を震わせる。空気が極度に張り詰めている。ただ凍てついたものではない、妙な緊張感をユタも感じる。
アリスが青い唇で呟きを漏らす。
「……聖域が展開されてる」
「聖域っていうと、あれか。なにかを守るために張るやつ」
魔術に詳しくはないユタも騎士の仕事で見たことがある。高度な守護を目的とした儀礼術式のひとつだ。
まあ、ユタ自身は聖域を張るより破るほうが得意で、高度な守護がそんな簡単に破れていいのか心底不思議に思えたので騎士団長に聞いたら頼むからお前は聖域に近づかないでほしいと懇願されて、以来近くで見たことはない。
アリスが見立てた通り、過去にここでなにかあっただけでなく、今もなお守るべきなにかがあるのだろう。
すぐ先の切り立つ頂きに烽燧台はあった。
黒い石で作られた、柱と丸天井からなるドーム型の大きな建物が、すっかりと氷に覆われて建っている。
近づこうとするアリスの前に出て、ユタは剣を構えた。
なにかいる。
すべてが凍てつく死の世界。
そこに男が一人たたずんでいた。
「――ほう。よく来たな」
驚いた表情で歓迎らしき言葉を男は吐いた。
こんなところに平然としているのは、どう考えても尋常なやつではない。
即斬り捨てるべき。動こうとしたユタの腕はアリスに掴まれた。
***
ともすれば雪に溶けて消えてしまいそうな白髪と金色に光る虹彩が人ならざる者であることを示している。
なにより身にまとうオーラは神々しく、触るべき存在でないことは明らかだ。
「あれを斬ろうって、馬鹿なの!?」
剣を構えたままのユタがちらりと男へ目をくれる。
「斬れるが?」
「やめて!!」
ユタに絶対先に手を出さない、と約束させてからアリスは烽燧台に近づいた。
男は烽燧台の中に座り、どこか遠くを眺めている。
「お目にかかることができ光栄です。宮廷魔術師が一人アリス、ご挨拶申し上げます」
宮廷で覚えた礼儀にのっとり、優雅に腰を折る。
「畏れながら、貴方はこの霊峰を守護する山の王、でしょうか?」
ゆるりとアリスを向いた男は、何度か目をしばたいた。
「さあ、どうだろうかな」
「どう、とは……どういう意味でしょう?」
男は遠くへ視線を戻す。
「悪いが、分からん。そうなのか?」
自分が山の王であるかないか分からない、などということがあるだろうか。おかしい。
「……霊格の高さからして、山の王だとお見受けしますが」
アリスの見た記録には山の王に関する記述は特になかったため、その存在も名前も正体もはっきりしたことは分からない。
それでも、ここが霊山であることとこの男の存在感とを考えあわせれば、力の強い主で間違いないだろう。
「そうか」
男は他人事といった風情で遠くを眺め続けている。
さすがに毒気が抜かれたのか、ユタもやや警戒を緩めてアリスに顔を向ける。
「どういうことだ」
「……分からない」
吹雪いていないとはいえ、氷点下を下回る空気はこうしている間もアリスの体力を削り取っていく。もたついている時間はない。
「外の世界が氷で覆われているのはあなたが望まれたこと、ですか?」
「氷?」
「はい。いま外では氷と雪が吹き荒れて、人も動物も生きられない土地が広がっています。ご存じありませんか?」
「そうか。道理で静かなわけだ」
男の静かに吐いた息が、白く広がって消えた。
確かに氷の災厄はこの烽燧台を起点として起きている。だのに、そこにいる男には自覚がない。
不可解だ。
「まさかそれも忘れたのか?」
「ああ、そうかもしれない」
ユタに答える男の声には自嘲の響きがある。
「俺の先輩も、よく自分のしでかしたことを忘れる」
ユタが軽く首を傾げて言う。
「でも軽く殴ると衝撃で思い出す。試すか?」
「なに言ってるの!?」
「ふむ。ありがたい申し出だが、己は衝撃では思い出しそうもない」
「そうか。難しいな」
「失礼で本当にごめんなさい。この人常識はずれなんです。ごめんなさい」
男は低く笑っているから怒ってはいないだろう。それでも、山の王を殴ろうとするなど、言語道断だ。
もしこの力ある存在が怒り狂ったら、軽く命が消し飛ぶ。山の王とはそういうものだ。
男がアリスへ視線を向けた。
「そう気にするな。話のできる者が訪れたのは久方ぶりでな、愉快だ」
激しく遺憾ではあるが、アリスもユタを話のできる者と評する存在に遭遇するのは久しぶりだ。
「あんた、いつからここにいるんだ?」
「分からない。ずいぶん長くここにいる」
アリスとユタは顔を見合わせた。
「この狼煙台、魔人戦争のときのやつだって言ってたよな」
数百年は前だ。
「山の王はここでなにをしていらっしゃるのでしょうか?」
「それも忘れたのか?」
男が目を細める。
「いや。それは忘れていない」
「覚えてるのか。なんだ?」
「ここは烽燧台だからな。己は見張りをしている」
ドキリと心臓が跳ねた。
「敵か狼煙が見えたらば、狼煙をあげる。それだけだ」
「確かに見張りの仕事だな」
「もっとも、まだ一度たりとも狼煙をあげたことはない」
「そうか。でも戦争はとっくに」
「ユタ!」
慌ててユタの口を塞ぐ。アリスにぶらさがられる形になってユタが「むう」と息を漏らす。
「山の王、この烽燧台の魔術を少し見させていただいてもよろしいですか?」
「ああ。もてなしもできないが。ゆるりとしていけ」
男の視線は遠い山並みを見続けている。
***
烽燧台は固い氷で覆われていた。石に刻まれた魔術を調べるには氷を削ぎ落とさなくてはならない。
到底不可能に思えたが、なんせ連れは常識を彼方に捨ててきた男ユタだ。びっくりするほどの安請け合いで簡単に削り始めた。
蝕むような寒さの中でユタの作業を見守る。
「石まで削らないでね」
「任せろ」
パキパキと澄んだ音をたてて氷が割れていく。
姿を表したのは、古い時代の文字だった。触れると微かに青白く光るのは、霊力が満ちている証しだ。
「読めるか?」
難しい。文字だけでなく、当時の魔術と現代の魔術とでは根本から大きく異なっている。もはや別物だ。
とはいえ、こういう勉強は人一倍やってきた自負がアリスにはある。
「大丈夫。おおよその見当はついているから、あとは基礎構造さえ分かれば。あ、ここ削って」
アリスの指示したところへユタが剣先を叩き入れる。
ユタの使う剣は並外れて大きい。代々伝わる家宝だそうだ。それがスコップのように容赦なく使われている。ここへ来るまでも散々お世話になっているのだから今更だが。
「ありがとう、そのぐらいで大丈夫。うん、やっぱり霊脈の力をあっちで取り込んで。ここから拘束と使役へ帰結、させてるわけじゃない? あれ。逆流? ううん、循環かな。なんでこんな手間を。あ、こっちで自縛に誘導して。そうか、誘導を描いて」
「ここはかき氷が食べ放題だな」
「やめて、寒い」
悪い予感が当たっていた。
大きくついたため息が一瞬で氷になって消える。
「最悪。どうしよう、ユタ」
「なにがどうした?」
答える前に烽燧台の男を窺う。変わらず遠くを見つめていて、それほどアリスとユタの動向に注意を払っているようには見えない。
アリスは声を潜めた。
「ここの魔術は山の王を縛って見張りに使役してる」
「ふうん、そんなことが可能なのか」
いや、普通はそんなこと不可能だ。
「誰だか知らないけど、とんでもない天才だったんだと思う」
魔術をこの霊山の力で作用させている。それは不安定さと暴走リスクのある、非常に危うい方法だが。
「術式が芸術品みたい。一見無駄に思える術理を積み重ね、真の趣意を抽象的に描き出してる。一ミリの破綻もなく」
合理化の進んだ現代魔術とは違う、自然の摂理を模した古代魔術ならではの超絶技巧。
「それに見張りとして使役してる、なんて簡単な話じゃないの」
昼夜を問わない警戒の目が必要だったのだろう。烽燧台から出ることを許さず、眠ることも許さず、食事や休息でほんのわずかでも気を逸らすことがないように、もはや生き物の条理から切り離して烽燧台の要石とする。
当時どれほど切迫した事情があったか知らないが、それでも許されるはずのない暴挙だ。
「それが大昔の戦争の時からずっと」
魔人戦争は辛くも人間の勝利で終わったと伝わっている。
なぜ戦争が終わった時に山の王を解放しなかったのか、その理由は分からない。勝利に浮かれて烽燧台のことなど忘れてしまったのか、それとも自由にすれば怒り狂うであろう山の王を恐れて放置したのか、なんにしろあまりに無責任で胸糞悪い行為だ。
大剣を足元に突き立て、ユタが短く息を吐く。
「狂うぞ」
ユタでさえ、そう思うのだ。しかし、彼を縛る魔術は狂うことも許さない。
「だから忘れるしかなかったんだと思う」
己が何者か、何を望んでいたのか、どう生きていたのか。忘却することでひたすらやり過ごしてきたのだろう。
「でも忘れたからといって、その不条理も怨嗟も消えて無くなるわけじゃない。ずっとずっと降り積もって、世界を撓め続けてきた。その結果が荒れ狂う氷なのよ」
すべての記憶を失い、呪いだけを知らず吹き荒らす。呪詛の中心にいたのはそんな存在だった。
「それならどうすればいい? この魔術をぶっ壊すか? それとも、あいつを殺せば止まるのか?」
ユタが情緒もへったくれもない物騒な提案をしてくる。アリスは首を横に振った。
「無駄なの。たとえ魔術を解いて山の王を解放しても、あるいは山の王を殺しても、この氷は止まらない」
そんなことをしても数百年もの不条理をなかったことにはできない。止まらないのだ。
アリスは唇をきゅっと噛む。受け入れ難い事実と受け入れざるを得ない現実が、とても苦しい。
「そうか。じゃあ、帰ろう」
ユタの言葉にアリスは顔を跳ね上げる。見つめ返すユタの顔は、いつも通りの無表情だ。
「ここでできることは何もない。なら、さっさと帰ろう。でないと、お前が限界だ」
重ねられる限りの厚着と、オイルを使ったカイロ、凍傷を防ぐ魔術。全部を駆使してなお命を脅かす冷気の中に身を置いている。
いつもいつでもアリスを最優先に行動しようとする幼馴染の思考回路は突飛だが、ことアリスに関する見当は外さない。
アリスが自覚している以上に状況は切羽詰まっているのだろう。でも。
「やらなきゃいけないことがある」
ユタの眉がぴくりと動く。
「魔術を解いて、あの人を解放する」
「無駄なのに?」
魔術を解除したら呪いも解けるなんて可能性はほぼない。でも、ゼロではない。それに。
「無駄でも無意味でもケジメをつけないと。私だって魔術師の一人だから」
アリスはまっすぐユタを見上げた。
「どのぐらい時間がかかる?」
「……できるだけ急ぐ」
急ぐどころか、本当はやり遂げられるかどうかも怪しい。それでもやらなければならない。
***
魔術を解除するには、さらに調べなければならないらしい。
解読するアリスの横でユタにできることなどあまりない。頼まれた氷を削るか、雪洞を掘るか、かき氷を作るかぐらいだ。
高い集中力と弛まない努力、そして諦めない心。アリスの武器はユタのそれと大きく違うが、決して侮れない強さを持っている。
だから、ユタは待つ。
改めて烽燧台へ近づいてみた。入ろうとすると妙な抵抗があって侵入を阻まれる。どういう仕組みだろう。無理に突撃すれば入れないこともなさそうだが、それをするとアリスの邪魔になる。
中では男が相変わらず遠くを見張っている。山の王とはどれほど強いのか、自由になったこいつと手合わせしてみたいと思う。
殺気を気取られたのか男が振り向いた。
一応礼儀なので殺気を引っ込める。男はにやりと笑った。随分と楽しそうだ。
「お前たち二人は仲がいい」
男から話しかけてきた。
「まあな。許婚だからな」
「ああ、なるほど」
こうして言葉を交わしていても、男は時折ユタを見やるののの、ほとんどは遠くを見たままである。
この男は、とっくの昔に戦争が終わったことを知っているんだろうか。
縛られた己の務めの、すでになんの意味もないことに気づいているだろうか。
分からないが、どっちにしろ解放されて自由になれば、遅かれ早かれ知ることになる。
「あんたに話しておくことがある」
「なんだ?」
「戦争は終わった」
振り向いた男が雷に打たれた顔をした。いや、ユタは雷に打たれた人間を見たことはない。不意に殴られた人間のような顔をした。
「……終わった」
言葉の意味を咀嚼しているのか、目をさ迷わせる。
「終わったのか……ああ、それでお前たちがここへ来た、ということだな」
「……」
戦争が終わって(も烽燧台が放置されて呪いを撒き散らしていたので解明するために)アリスたちが来た。間をすっとばせば、そう言えないこともない。
ユタは頷いた。
「そういうことだ」
「そうか、そういうことか。いつ、どうやって終わったのだ?」
「まあ、ざっくり数百年前に終わった」
男が絶句した。
「詳しくは知らないが、勇者とかいうやつが現れて、ばらばらだった人間の国をまとめあげて反撃して勝ったらしい」
なお、ユタの家系はその勇者の末裔らしいが、秘密だと言われて育ったのでアリスにも言っていない。
男が天を仰いで、苦しげに息を吐く。
怒るのだろうか。もし暴れるのなら、それを抑えるのはユタの仕事だ。
「虚しいな」
男が吐いたのは力のない、心底うんざりとした呟きだった。
そのまままた、男は遠い地平へ目を戻す。無意味だと知っても、逃れる術がないのだろう。
***
渡されたマグカップから湯気が立ち上る。
半ば強引に、アリスはユタに引っ張られて来て烽燧台の土台の隅に座らされた。少し休め、ということだった。
火の始末へ行くユタの背を見送る。湯気が顔にあたると、張り付いた氷が溶ける気がした。
早く飲まないと、すぐに冷めてしまうだろう。
顔を覆っていたマフラーを外し、熱いそれを少しずつ流し込む。少しだけ生き返った。
「頼りになる男だな」
山の王の声がした。背を向ける形で腰を下ろしているので顔は見えないが、ユタの話だということは分かった。
「そうですね。でもいつもめちゃくちゃで、ひやひやします」
「めちゃくちゃか」
「そうです。あの人が騎士になったときも」
平民で、伝手もなく、子供だったユタが騎士に叙されることなど普通はあり得ない。
「三十人くらい殴って伸したら採用された、っていうんです」
なにがあったらそんなことになるのか、アリスには皆目見当がつかない。
「なんでもかんでも馬鹿力で押し通すんです。ほんと、馬鹿なんです」
くつくつと後ろで山の王が笑っている気配がする。
「まあそう言ってやるな。大事な恋人だろう」
アリスは大きく息をついた。
「よく言われるんですけど、違います。ユタとはただの幼馴染みです」
「……そうなのか」
山の王から戸惑った声が返ってくる。なにを見て二人を恋人だなどと思ったのか知らないが、アリスはふと思い出した。
古い物語の中では、山に住まう生き物の┃番を祝福するのが山の王の役割として描かれている。
なるほど、記憶を失ってはいても、やはり彼は山の王なのだろう。
とはいえ、山の王には悪いが、年頃の男女だからと適当にくっつけられる謂れはない。
アリスはお湯を飲み干して立ち上がった。
「ところで、山の王はこの魔術についてなにかご存知ありませんか?」
「悪いな。もとより人間の使う魔術のことを┃己は知らん」
焦りが沸き上がってくる。揺るぎなく組み上がった古の魔術は、┃解く端緒すらまだ掴めていない。
解読すればするほど、ただただ術者の技量に圧倒される。
青白い顔で立ち尽くすアリスを一瞥して、山の王が微かに頬を緩めた。
「捨て置いてくれて構わんぞ」
「え?」
その乾いた声をアリスはなにかの聞き間違いではないかと思った。
山の王はアリスを一瞥し、もう一度言った。
「捨て置いて、もう帰れ。これ以上ここに留まれば危うい。お前が命をかける道理はない」
「そんなっ!」
言葉は続かなかった。勢いよく吸ってしまった冷気がアリスの肺を刺し、激しく咳き込む。
「大丈夫か!?」
焦った山の王の声に答える余裕もない。咳き込んでさらに冷気の入った気管支が悲鳴をあげる。まともに息も吸えない。頭がぎしぎしと軋む。
「ユタ! ユタ! 来い、アリスが危うい!」
「アリス、大丈夫か」
心配したユタも駆け寄ってきた。苦しさにユタの袖口をぎゅっと掴む。
ユタの脱いだ外套がアリスの頭から被せられた。裏地に毛皮の張られたそれは暖かい空気でアリスを包んでくれて、ようやくまともに呼吸することができる。
なんとなくユタの匂いがするのが嫌だが。
息が整ってから重たい外套から頭を出した。冷えた外気にまた曝されて、頬がちくちくとする。
「大丈夫か?」
「うん」
アリスの顔色を見たユタの顔が曇る。
「大丈夫じゃないな」
「まだ、大丈夫」
「任せろ」
幼馴染みは抜き身の大剣を構えて立った。
「ちょっと、なにする気!?」
「壊す」
あまりに端的な一言にぞっとする。無理やり破壊などすれば、暴走するかもしれない。なにより魔術の一端に組み込まれた山の王が無事ではすまない。
「ダメ!!」
止めようとして氷に滑り、外套の下敷きになって無様に潰れる。重い。なぜこの外套はこんなに重いのだ。
刺突の構えでユタが烽燧台へ斬り込む。耳障りな不協和音が辺り一帯を叩き、びりびりと全身を打つ。
ユタの入り込んだ烽燧台はバチバチと激しく紫電が飛び交った。音と光も頻りに明滅する。巻き込まれた山の王が苦しそうな呻きをあげていた。
飛び込んだ張本人がまったく平気そうなのはおかしいが、まあユタなので考えるだけ無駄だ。
大きく二回、ユタが頭上で大剣を回す。摩擦でも起こしたかのような火花が飛び散った。
両手で握られた剣が深く烽燧台に突き立てられる。危険を感じたアリスは顔を伏せた。
山が震えた。
凄まじい衝撃が走り抜け、破砕音が突き抜ける。
「ユタ! 山の王!」
烽燧台は半分が崩壊していた。残った半分に立っているユタがいた。
ひとまずほっと息をつく。なんという無茶をするのだ。
「まだだ。アリス、そこを動くな」
崩れた烽燧台がカタカタと鳴動し始め、徐々に大きくなっていく。行き場を失った力が溢れ、吹き出してくる。しかもそれが、どす黒い。
「ユタ、危ない! 逃げて!」
おそらく、暴走した魔術と呪いとが渾然一体となっている。もはや人間がどうこうできるものではない。
「ユタ! 早く!」
ユタは一点を見据えて一歩も動かない。その視線の先には倒れた山の王があった。
意識なく倒れ伏す山の王は、黒い力の奔流に呑まれようとしていた。
取り込まれているのか、取り込んでいるのか。判然としない。しかし、考えうる最悪の事態だ。
黒く染まった山の王の体が歪に盛り上がる。人の形だったそれが、大きな獣の姿へ変じていく。
立ち上がったそれは、ユタの二倍はありそうな大きさだった。真っ黒い毛皮と立派な角が広がっている。
たぶん山の王の本来の姿だろう。しかし口から怨嗟の煙を吐き、至るところから怨みの泥を垂れ流す様はとてもまともではない。
真っ赤に光る目は、はっきり狂気に囚われている。
ユタは大剣を左手に持ち替え、右手の拳を握りしめた。
「来い。大丈夫だ」
呟くような声はアリスまで聞こえない。目の前の山の王の耳にも届いてはいないだろう。
山の王が吼えた。角を避けて飛び込んだユタは右拳を頬面へ思いっきり叩きこんだ。衝撃に吹き飛ぶ巨体から黒い潮が飛び出す。それ目掛けて左の大剣を斬り上げた。
スパン、と小気味よい手応え。狙い通り黒い塊は真っ二つになる。ついでに残っていた烽燧台も半分に切れた。さらについでで曇天の雲が割れた。
吹き飛んだ山の王は動かなくなった。急速に黒い色が抜けて白くなっていく。ユタは山の王の巨体を引きずって外へ出た。
山の王は大きくて真っ白なヘラジカの一種、エルクだった。
駆け寄ったアリスが山の王の息を確認して、安堵する。
「もう、なにしたの、ユタ!?」
アリスに詰られて、ユタの首が微かに傾ぐ。
「たぶん、魔術を壊して、霊力を殴って、呪いを斬った」
「……意味が分からない」
天を仰げば、雲の切れ目から澄んだ青空が覗いている。それはほんの少しずつ広がっているようだった。
「ほんと、意味が分からない!」
心底腹が立つ。
「もう、真面目にやってるこっちが馬鹿みたい」
それでも、ほぼ奇跡とはいえ、なんやかんや、かろうじて、どうやら丸く収まったのは、ほかでもないユタのお陰だ。
「でもまあ、ありがとう、ユタ」
むくれた顔のまま、ユタの顔を見ないで言った。特に返事もなかったから、幼馴染みがどんな反応をしていたかアリスが知ることはない。
***
残念ながら、山の王は自由になっても記憶を取り戻してはいなかった。
「殴った衝撃で思い出せればよかったのにな」
「そうだな」
会話するため人型となった山の王が苦笑いする。そしてユタの与太を流して、頼みがあると言った。
「私も二人についていきたいのだが、いいだろうか」
「ええ、でも山の王が守護する山を離れるのはまずいのでは?」
山の王はかぶりを振る。
「もう私は山の王ではない。いや、かつてはそうだったのだろうが」
静かな声で続く。
「山は死んでいる。ここに生きていたものたちも皆死んだ。間接的にとはいえ、私が殺した」
もはやエルクは山の守護者として認められない。そこに留まることもできない。
まともな記憶もなく、居場所もなく、行くあてもない。
「しばらくでいい。今の世が見られれば助かる」
「いいぞ」
アリスが迷っているうちに、すぱっとユタが了承した。
「俺の部屋に住めばいい」
騎士の宿舎に人型だろうが獣型だろうが連れ込んだら絶対に問題になるのだが。ユタがやれるというなら、やってしまうだろう。なんらかのめちゃくちゃな方法で。
「そうか、いいか。いや、どうなるか気になって仕方がない件もあった。とても助かる」
ユタのハチャメチャ付き合わされた彼が後悔しないといいのだが。
「よし。火を焚いて、体を暖めてから山を降りるか」
ユタが立ち上がった。狼煙のための薪が大量にあると言う。
飛び散らかっていたそれを集め、手早く種火を作って火をつける。おそらく魔術で保存され続けていた薪は、すぐに燃えて大きな炎をあげた。
冷えきっていた体にその熱が嬉しい。
少し離れたところから炎を見上げ、エルクが言う。
「実は一度は狼煙をあげてみたいと思っていた」
なるほど、確かに焚き火から白い煙が、広がる青空へとまっすぐ伸びている。これはまごうことなき狼煙だ。
しばらく三人は黙って狼煙を見上げた。
「……気のせいかもしれないが」
エルクが声にする前から、実はアリスもうっすら気づいてはいた。
「あちらの遠い峰でも狼煙があがっているようだ」
振り返ったユタがおうと頷く。
「確かに狼煙だな。あがってる」
遥かかなたにあがる幾筋もの狼煙。
「私の狼煙に応える狼煙か。実に感慨深いな」
「きっと狼煙台がほかにもあるんだな」
「嘘でしょ……」
まさか、ここのような烽燧台がまだあるというのだろうか。
男二人が暢気に喜ぶ横で、アリスは一人頭を抱えた。
〈『烽燧台にて』了〉
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