悪夢
私はこの日、いつもより早く仕事を終え帰宅した。
職場から自宅までは、徒歩で二十分。車は一台持っていたが、普段の通勤には使わない。息子の習い事の送り迎えなどで、妻が使用するからだ。
寒空の下、凍えながら戸建て住宅の我が家に帰宅すると、庭の花壇に設置されているイルミネーションの一部が、チカチカと瞬いていた。おそらく、電球が切れそうなのだろう。
そのチカチカとした光を横目に眺めながら、合鍵で玄関のドアを開錠すると、ドアの向こうでは驚いた表情の妻が出迎えてくれていた。
「あら? 今日は早いのね」
他人が聞けば嫌味に聞こえるかもしれない妻のこの言葉も、単にその時の感情と驚きを、そのまま口にしたに過ぎない。
私の仕事は普段から業務終了時間が遅く、日付が変わる前に家に帰れれば御の字と言った具合だ。手当は出るとはいえ、休日出勤もしばしば。それが繁忙期になると、週休二日は完全に言葉だけのものとなり、その日の内に帰宅することも困難になる程の忙しさを見せる。
そしてこの一ヵ月が正にその繁忙期に当たっており、私の帰宅時間はここ最近はいつも深夜を回ることがほとんどだったからだ。
「ああ。今日はいつもより発注が少なかったうえ、仕事が驚くほどスムーズに回ってね。俺の分の夕飯ある?」
「ない……と言いたいところだけど、今日はちょっと支度が遅れちゃって……。丁度今から作るから、あるわね」
ない、という言葉を聞いたところで、途中コンビニで何か買ってくれば良かったと後悔したが、続く言葉を聞いて安堵した。
少しだけ意地悪な物言いをした妻にへそを曲げそうになったが、早く帰れる時は連絡を入れるという約束事を忘れたのは私なので仕方ない。
仕事を終えた時までは家に連絡を入れることをちゃんと覚えていたのだが、しかし同僚に話しかけられたことで、うっかりとそのことを忘れて帰宅してしまった。
「良かった……。ごめん、連絡を入れなくて」
「まあ、いいわ。それに、今日みたいな早い時間に帰って来る日はそうそうないだろうし」
今度こそは嫌味だろう妻からの言葉を、私は曖昧に笑うことで誤魔化した。
妻が台所で食事の支度をしている間、私は息子と一緒に炬燵の住人となっていた。けれど私はテレビの画面に、息子はゲーム機の画面にそれぞれ視線を向けており、会話は一つもない。
せっかく早く帰宅できたのに、これでは私がいてもいなくても変わらないのではないか。そう考えた私は、久しぶりに親子らしい会話を試みようと息子に話しかけた。
「今日、学校どうだった?」
「ええ~? どうって、別に……」
私の問い掛けに、息子は私と視線を合わせることなく適当な返事を寄こした。
「別にって……何かあるだろ?」
「そもそも、どうだったって質問が抽象的過ぎるし」
「お前……抽象的なんて言葉、もう知ってるのか。すごいな」
息子は現在小学三年生。自分が息子くらいの歳頃は、おそらく抽象的などという言葉は知らなかったはずだ。しかし感心する私を、息子は褒められたことを喜ぶでもなく、わずかに眉を顰めながら見つめて来た。
「お父さん、ウザ……」
「ウザいって……。そんな言い方ないだろ……。なあ、ママ」
台所にいる妻に同意を求めると、思っていたのとは違う反応が返って来た。
「今の子どもはストレス溜まるのよ」
「そういう問題か? それにストレスなら俺だって溜まってるよ」
「そう? 私も溜まってるわよ~?」
妻に話しかけても、息子に話しかけても、軽くあしらわれる始末。それとも、会話が成立するだけマシだと思った方がいいのだろうか。
これも、仕事で家を空ける時間が多い弊害か。そんなことを思いながら、私は台所に立って料理をする妻の後ろ姿を見つめていた。
その日の夕食は鍋だった。本当はハンバーグにする予定だったらしいのだが、私が帰って来たため材料が足りず、急遽献立を変更したらしい。
「なんか……すまんな」
息子の好物がハンバーグだと言うことくらい、家にいる時間の少ない私でも知っている。けれど、そのことを謝った私に対し、息子からは寛大な答えが返って来た。
「いいよ。今日寒いし。別に鍋、嫌いじゃないし」
「……そうか!」
何を隠そう、私は鍋が好きだった。様々な栄養素を一気に取れるところも良いし、一つの鍋を皆で分け合うことにも何だか心が躍る。それに、ハンバーグも嫌いではないが鍋の方がビールに合う。
この夜、私は妻や息子との食事と会話を楽しみながら、ビールで喉を潤した。熱々に煮込まれた肉や野菜で熱せられた口内に、冷たいビールを流し込む。その繰り返しだ。
そうやって私が食事を満喫していた最中、ふと湯気の向こう側の妻が身震いをした。
「ちょっと冷え込んできたわね。もうカーテン閉めましょうか」
鍋に肉を足しながら、妻が言った。
「暖房強めればいいだろ? せっかくイルミネーション設置したのに、見なけりゃ勿体ないじゃないか。……あ、そうだ。一か所電球切れそうになってたぞ」
「あら、本当?」
炬燵から出た妻が窓の外にある花壇のイルミネーションを確認してから「ああ、あそこ」と呟いた。それからまたすぐに炬燵に身を滑り込ませ、リモコンを手に持ち、私の意見を採用することにしたのか暖房の温度を上げていた。
「そうそう。イルミネーションを見ながら炬燵で鍋とビールなんて、最高じゃないか」
「ちょっと、飲みすぎないでよ。明日休みじゃないんでしょ?」
「大丈夫だって」
妻からの忠告を、私は取り合わなかった。
しかもそこで飲むのをやめて、さっさと風呂に入り早めに就寝すれば良かったのに、私は食事が終わってからも、飲み続けることを選んでしまった。せっかく時間に余裕があるのだから、撮りためておいた録画を消費しようと思い立ったのだ。それにはやはり、ビールと摘まみが必要だろうと。
食事を終えた私はさっさと風呂に入り、上がってからは家にあったスナック菓子を肴に、さらにビールを追加で飲み始めた。途中から風呂上りの息子も一緒に録画を見ていたが、やがて妻に就寝を促され、一時間もしない内に離脱することになった。
私が息子に「お休み」と就寝の挨拶を告げれば、素っ気ない声と態度ではあったが、息子からもちゃんと「お休みなさい」と挨拶が返って来た。
そんな些細なことに気を良くした私は、その後も結構なスピードでビールを飲み続けた。
「ねえ。私先に寝るからね。せっかく早く帰ってこられたんだから、あなたも早く寝た方が良いわよ」
風呂上がりの妻から声をかけられた私は、時計を見てまだ十一時であることを確認してから、「あと一杯だけ」と答えた。
私の普段の就寝時間は、日付を跨いでいる。それに比べれば、これから一杯飲んだ後に歯を磨いてからでも、今日は十分、いつもより早い時間に寝ることが出来る。
「もう……」
私の返答に呆れたらしい妻だったが、それでも私の最近の激務を知っているからか、それ以上は何も言わなかった。
本来なら、妻の言うことに従うべきだとはわかっていた。身体を休めるためにも、本当は録画の流し見など切り上げて、さっさと就寝した方が良いに決まっている。
けれどわかってはいても、そういう時ほどだらだらとしてしまうのが、人間というものだ。あるいはそれは、私のように意思の弱い人間に限ったことなのかもしれないが。
静寂の中、突如音が響いだ。
ハッとして目を見開けば、目の前には私の手から離れ、テーブルの上で自立するコップがあった。
どうやら舟を漕いだ拍子に、私は手に持っていたコップをテーブルの上に落としてしまったらしい。底からの着地だったため幸いコップは割れていなかったが、割れていたら面倒なことになっていた。
「……やばい。一瞬意識を飛ばしてたな。……さすがにもう寝るか」
コップの中には、まだ三分の一程度のビールが残っている。炭酸の抜けたビールを一気に飲み干した私は、歯を磨いて就寝するべく、炬燵から立ち上がろうとした。
しかし後ろ手に床に手を突いたその瞬間、視界が捕らえた異常に、私の身体は固まった。
カーテンを開け放った窓の外、闇と色とりどりのイルミネーションを背景に、白いワンピースを着た女が立っていたのだ。
窓の外に認めた存在に、私は自分の目を疑った。
季節は冬。しかも、今年最強と謳われている寒波の最中だ。
雪こそ降っていないが、家までの帰路、ダウンコートを着ていた私ですら寒さに凍えるような外気だった。家の中は当然、ガンガンに暖房を利かせている。
だというのに、女の着ているワンピースは五分丈の薄い夏用のもの。それだけならば異常に寒さに強い人で済んだのだが、その女の顔に浮かぶ表情に、私は恐怖の感情を煽られた。
女は笑っていた。しかもそれはとても爽やかとは言い難い、今にも驚くこちらを指さしながら笑い転げでもするのではないかと勘繰ってしまうような、そんな類のものだった。
こんな寒さ際立つ日の真夜中に、他人の家の庭に入り込み薄着で笑う女。とても、精神状態が正常とは言い難い。
まずい。異常者が庭に入り込んでいる。
そう考えた私は、一気に酔いから醒めた。
私は女から視線を外さず、近くに置いてあったはずの携帯を手探りで探した。警察に通報しようとしたのだ。
けれど、あることに気付いた私は、途中でその行動を止めた。
窓の鍵が、かけられていない。
いつもは完璧なはずの戸締りが、今日に限っておろそかにされていた。私の帰宅時間が遅いため、妻はいつも神経質な程に、戸締りには気を遣っていたというのに。
焦った私は酔って力の入らない身体を無理やり動かし、炬燵の中から身を引き抜いた。
しかし、すでにおぼつかない私の歩みは、わずか二メートルにも満たない距離だというのに、一向に窓へと到達しない。
そんな私をあざ笑うかのように、女が嫌らしい笑みを顔に張り付けたまま、さらに窓辺へと近づいて来る。
いくら女性といえど、私は酔っているし、相手は精神の状態を疑う異常者だ。刃物を隠しもっていないとも限らない。
まるで何かを捕まえようとしているかのように、前へと伸ばされた女の手。その手と窓のサッシとの距離は、あと数センチのところまで迫っている。
駄目だ。中に入ってきてしまう。
そう予見した瞬間、恐怖が一気に膨れ上がった。
私は恐怖と緊張に固まる喉を無理やりに震わせ、叫び声を上げた。
「……う、うああああああ」
そんな、何とも情けない己の声で目が覚めた。
「……あ、ああ……あ。ゆ、夢か」
瞬時に己が悪夢を見ていたことを悟った私は、あの恐怖が現実ではなかったことにほっと胸をなでおろした。
私の手には、しっかりと空のコップが握られている。
時計を見れば、時刻は午前二時を回っていた。これでは普段とさほど変わらぬ就寝時間だ。
それにしても、こんな真夜中にあのような大声で悲鳴を上げてしまうとは、寝ている家族を起こさなかったことは幸いだ。
私はもう一度閉じそうになる瞼を、意思の力で押し開いた。面倒くさいが、さっさと歯を磨き、炬燵ではなくちゃんとベッドで眠らなければならない。
のろのろとした動作で、私が炬燵から立ち上がろうとした、その瞬間。
視界の端に、白い物体が映り込んだ。
カーテンを開け放った窓の外、白いワンピースを着た女が、笑いながら家の中を覗き込んでいた。