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ある週末と形而上的平面

作者: キリュン

 時間が経って空気が抜け、ただ気だるいだけの間延びした唾液のようになった炭酸水に口をつけると、日々の鬱屈した生活で生まれた沈殿物をそのまま身体に取り込んでいるような錯覚に囚われる。違和感なく身体に染み入るのは、私の存在と間延びした唾液が同義だからか。週末は眠りの日々だ。耳栓代わりのワイヤレス・イヤホンも、今は私の耳に喰らいつく不明な外部だ。誰か、耳の穴に砂を溢れるまで詰めてくれないか。そのまま砂の中に取り込まれて、暖かな微睡みに支配されてしまいたい。無防備な身体は床の平面に沿って薄く広がっていき、フローリング目地の凹凸を勾配に従ってゆっくりと流れていく。四畳半のワンルームはついに私の存在そのものとなって、次第に暖かくなっていく外の空気を壁越しに感じながら、個体としての私は存在ごと気化して消える。身体の超越が即ち死であるとするなら、とり残された感覚神経が伝えるどこまでも平面的な手触りの主体は何か。一匹のハエトリグモが、床の上を恐る恐る通過して、ある位置でふいに飛び跳ねてどこかへ消えた。


 日本語のコード、それ自体が刻むリズム、振動とも言うべきもの。俳句という形式に向き合っていると、今目前に見えているものがボロボロと解体されていく快感に包まれる。ある有限性の中で再構築された言語はそれ自体自由を象徴するものだ。週末の午後は書店に行き、文庫本の陳列棚をア行から一つづつ手に取り、書き出しの1行をメモしていく。文字列の吟味、言葉の捉え方、文章の生成。書き出しを読むと、腹の底で長くこびりついた澱のようなものが取れていく。何の本か忘れてしまったが(本の題名は重要ではない)ある書き出しに、「意表の連続が超現実的な饒舌を発し、百万人の中にいても終わりに一羽のボロボロ鳥」とあり、次頁に、目玉の飛び出た鶏の慟哭が描かれていた。小学生だった頃、私は鶏小屋の清掃係だった。小屋に入るとひしめき合う鶏共が瞬時に振り向きこちらを見つめた。奥まった箇所に小さな檻が設えてあって、その中にひときわ狂暴な鶏が閉じ込められていた。檻の中の水受け皿を取ろうとすると、そいつは太いかぎ爪を檻にぶつけて喚き立てた。記憶の繊維くずとでも言うべき、何のことはない断片の数々が、時折こうしてフラッシュバックする。ある事ない事がない混ぜになったものが言葉として固定された時、それは新たな記憶となるが、所詮は細かな記憶の繊維くずが一つ増えたに過ぎない。私は五感を集中させて、記憶の繊維くずをひとつひとつ丁寧につまんで、床に並べている。


 夜、思いついたようにバスに乗った。西葛西、西に始まり西に終わる不思議な街で降りて、暗がりの歩道の上からバスが消えていくのを見送った。少し歩くとファミリーマートがあった。中に入ると異様に広いイートイン・スペースがあって、初老の男が一人、掃き掃除をしていた。私はアイスコーヒーを求めた。

 外に出るとぽつぽつと雨が降っていた。私は降りたバス停の反対側のバス停へ向かった。アイスコーヒーを持つ手が冷たかった。時刻表に記載された時刻を過ぎても、バスはやって来なかった。何分待ってもバスは来なかった。雨が次第に強くなって、先のファミリーマートに戻ろうと反対側の歩道へまわった。着いたころには全身がずぶ濡れで、もう傘を求める気にもならなかった。イートイン・スペースに腰を下ろすと初老の男が近寄ってきて23:30の閉店を告げた。店内の時計を見ると閉店まであと5分も無かった。私は私の他には誰もいないカウンターテーブルの窓から、降りしきる雨の音を聞いていた。ふいに、雨の音は、カウンターテーブルの隣に置かれたふたつの魔法瓶のお湯が沸騰している音かもしれないと思い、改めて窓を見ると暗がりからはっきりと雨の線が映っていた。これは受動音だと思った。途端、私は一羽のボロボロ鳥になっていた。

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