37 闇の精霊
「さて、時間がない。手を出してくれ」
アルドは、そう言いメリディアの小さな手を取った。
その瞬間、メリディアの顔がみるみるうちに赤く染まっていくのがわかった。彼女は全身を硬直させ、まるで小動物のようにピクピクと震えている。
リーシェとして彼女と会った時は、もっと落ち着いた、高貴な令嬢然とした雰囲気だったが、今の彼女はどこか印象が違っていた。緊張と混乱、そして僅かな期待が入り混じった、複雑な表情をしている。アルドは、その変化に一瞬戸惑いを覚えたが、今はそんなことを気にしている場合ではないと、意識を切り替えた。
(……今は、メリディアの安全を確保することが最優先だ)
アルドは、原型改変を使用した。彼の意識は、メリディアのアルキウム領域へと深く侵入していく。そこは、無数の精霊の粒子が漂う、神秘的な空間だった。
アルドは、その中で、メリディアと闇の精霊との繋がりを注意深く探した。それは、暗い糸のように、彼女のアルキウム領域に深く根を張っていた。アルドは、その繋がりを、精密に、そして確実に切除していく。
次に、原型複写を使用し、切除した闇の精霊との繋がりを、自身のアルキウム領域に、寸分違わず複製する。
前回使用した時は、切除を行わずに複製のみを行ったため、メリディアと闇の精霊の繋がりはそのままだった。しかし、今回は違う。これで、メリディアから闇の精霊との繋がりは完全に消え、アルドのみがその繋がりを持つ状態となった。
(……これで、メリディアは検査を乗り切れるはずだ)
アルドは、握っていたメリディアの手をそっと離した。相変わらず、彼女は顔を真っ赤にして、熱を出したように呼吸を荒くしている。アルドは、優しく声をかけた。
「終わったぞ」
「お、終わってしまったのですか……?」
メリディアは、どこか名残惜しそうな、残念そうな表情で言った。その様子は、まるで大切な宝物を失ってしまった子供のようだった。
「ああ。闇の精霊術との一時的な繋がりを断ち切った。確認してみてくれ」
「え……?そ、そんなことが……?……あ、本当だ……い、いない……」
メリディアは、自分のアルキウム領域に意識を集中させ、驚きと戸惑いの表情を浮かべた後、悲しそうな顔になった。
「そんなに辛そうな顔をするな。検査が終わったら、元に戻してやる」
「も、戻せるんですか……?」
メリディアの顔が、ぱっと明るくなった。まるで、暗い部屋に光が差し込んだように、その表情は一気に輝きを取り戻した。
「闇の精霊が戻ることが、そんなに嬉しいのか?」
アルドは、少しからかうような口調で尋ねた。
「ええ、もちろんです!」
メリディアは、迷いなく答えた。
「世間は闇の精霊のことを、穢れているとか、不吉だとか言いますけれど……それは、間違いなんです。闇の精霊も、光の精霊と同じように、とても暖かく、優しい存在なんです」
メリディアの言葉に、アルドは静かに頷いた。
「確かに、そうだな……闇の精霊も、光の精霊も、本質的には同じような存在だ」
アルドの言葉を聞いたメリディアは、今までとは違う、特別な感情を抱いた。彼は、世間の偏見に囚われず、闇の精霊を自分と同じように見てくれる。そのことを、心の底から理解している。今まで、誰にも理解してもらえなかった、自分の孤独な心を、彼は初めて理解してくれたのだ。感激のあまり、メリディアの瞳には、大粒の涙が溢れそうになった。
「……まぁ、いい。とにかく、検査が終わったら……この場所に、来い……」
アルドは、メモの切れ端に何かを書き、メリディアに手渡した。
「は、はい……ありがとうございます……」
メリディアは、潤んだ美しい瞳に涙をいっぱいに溜めながら、メモを受け取った。その表情は、感謝と安堵、そして僅かな期待に満ち溢れていた。
アルドは、メリディアの控室を静かに後にした。
背後で、ケーナが未だに呆然とした様子で立ち尽くしているのが少し気になったが、彼女はメリディアと今は構っている暇はない。
彼はすぐに闇の精霊術を発動させた。彼の身体を覆うように、黒い霧のようなものが薄く立ち上る。それは、彼の存在を周囲の感覚から曖昧にし、まるでそこにいないかのように錯覚させる稀有な術式だった。
(闇の精霊術は、こういう時には本当に助かるな……)
アルドは心の中でそう思いながら、廊下を足早に歩いた。周囲の生徒や教師たちは、彼に気づくことなく通り過ぎていく。彼はまるで幽霊のように、学院の通路を滑るように移動していった。
目的の場所は、ドームの裏手にある用具入れ倉庫だった。普段は清掃用具や雑多なものが保管されている、人通りの少ない場所だ。
倉庫の扉の前まで来ると、アルドは周囲を警戒するように見回した。人影がないことを確認すると、扉の隙間に指を差し込み、鍵をかけずに開けて中に入った。中は薄暗く、埃っぽい匂いが鼻をついた。奥に進むと、古びた棚が並んでおり、その一番奥の影になった場所に、彼は予め隠しておいたものを取り出した。
それは、女物のブレザーと、自然な茶色のウィッグだった。ブレザーは、リーシェとして行動する際に着用しているものだ。アルドは、手慣れた手つきでウィッグを被り、鏡もないにもかかわらず、完璧に位置を調整した。次に、ブレザーを羽織る。
ボタンを留め、襟元を正すと、彼は完全に「リーシェ」へと姿を変えた。
(……よし、これで大丈夫だろう)
アルドは、自分の姿を確認するように、一度深呼吸をした。先程までとは全く違う、優雅で柔和な雰囲気を纏っている。これで、先程までメリディアと会っていた人物と、今の自分が同一人物だと気づかれることはないだろう。彼は、再び闇の精霊術を纏い、周囲に溶け込むように倉庫を後にした。