31 緊急理事会
グラン・アカデミア本部棟の重厚な正門に、一台の黒塗り馬車が静かに乗りつける。降り立ったのは軍服に似た威厳ある衣装をまとった青年、レオニス・シュト・ジグラー。名門ジグラー侯爵家の長男であり、王国軍の要職に就く人物だ。周囲がかしこまるなか、彼は衛兵の護衛もつけず、一人で学園の敷地へ踏み入った。
レオニスが目指すのは、小会議室で開かれている学園理事と上層部との急遽の集まりだ。
そこには、片腕を失った妹のマリア・シュト・ジグラーが待機している。貴族派の実力者だった彼女は、最近学園内で頻発している“怪事件”の被害者となり、右腕を斬り落とされた。名家出身の学生が続々と襲われるなか、学園側が手を打てずにいる現状に、ジグラー家が直接乗り込んできたのだ。
会議室は重苦しい空気に包まれていた。マリアは包帯で覆われた腕を痛々しく抱え、理事長や重役たちを鋭く睨む。彼女の怒りは苛烈で、学園側の不手際を追及する声にも遠慮がない。
「試験中の事故?不審死?原因不明なんて言い訳を並べても、この被害の数は明らかに異常だったでしょう?あなた達がちゃんと対処していればこんなことにはならなかったのよ!」
厳しい口調に理事長たちは頭を垂れる。そもそも学園上層部も不審死の存在を把握していたが、公式には公表できず、曖昧な理由で片付けてきた。しかし今回、ジグラー家の令嬢が深刻な負傷を負ったことで、もはや隠蔽は不可能となる。
会議室の扉が重々しく開かれた。鋭い靴音とともに、レオニス・シュト・ジグラーが静かに入室する。彼の姿を認めた瞬間、室内の空気が一層張り詰める。
軍服に酷似した漆黒の礼服を身に纏い、冷徹な表情を浮かべる赤髪の青年。その目は理事長をまっすぐに見据え、マリアの隣へと歩み寄る。
「兄様……!」
マリアが驚きと安堵の入り混じった声を漏らすが、レオニスは表情を崩さず、彼女の包帯に巻かれた右腕に静かに目を落とした。
「……これが“学園の安全”の結果か」
その一言に、理事たちは息を詰まらせる。レオニスの声には冷たい怒りと、静かな威圧が込められていた。レオニスがマリアを溺愛していることを知る者たちにとって、その抑え込まれた怒りの温度がどれほどのものか容易に想像できた。
「私が赴くまでに何の手も打たなかったようだな、理事長。」
鋭い視線を向けられた理事長は、額にうっすらと汗を浮かべながら言葉を探す。
「じ、事態を……重く受け止めております。……すでに学園の調査部に徹底的に調査させ、学園内を徹底的に洗い直しているところで……」
「遅いのです。貴方たちは……。“暗闇の処刑人”だの“白銀の裁定者”だのと呼ばれる存在が現れたのは2ヶ月も前の話だそうだな? 貴族派の学生ばかり狙われているのは明らかだったのに、結果はどうだ。無意味に貴族の子息を犠牲にし、我が妹をこのような姿にした。そして今さら『調査をしている』と言うのか」
レオニスの一言に、その場の全員が息を呑んだ。
「もはや学園側が無為無策である以上、我がジグラー家が所持する特殊魔道具を使い、学園内の全生徒ーーいや、教師や警備員、学園内にいるすべての人物を徹底的に検査するべきだろう。文句はないな?」
個人単位で全校生徒を調べるなど前例がないだろう。理事の何人かは困惑の表情を浮かべているが、他に策もなく事件を放置しておけないのは事実だ。これを受け入れざるを得ないという空気が漂う。
「……承知いたしました。レオニス様。学園としても、ジグラー家のご協力を得られれば心強い限り……。具体的には、どのような魔道具をお持ち込みいただけるのでしょうか?」
「我が家が王国軍と共同で研究していた“カーテン・オブ・デプス”――属性検知を高精度で行う分析魔道具です。一般的な測定器に比べ、はるかに高い精度を誇る。隠している属性契約も否応なしに引きずり出されるだろう」
周囲がざわめく。高い精度の検査魔道具など通常は軍事関連で使用され、公に出回るものではない。
「わ、わかりました……。すぐにでも学園のすべての人物を対象にした大規模検査を進めましょう。これ以上事件が起きる前に……」
「妹を襲った犯人は“闇属性の術者”だ。現在この学園に闇属性持ちは一人もいないと聞いたが……現に犯人は闇属性を扱っている。闇属性を隠しているものを見つけるには、一斉検査が手っ取り早い」
「私が見た白銀の裁定者と仮面を被ったやつは光属性も使っていたわ。光使いも怪しいわよ」
マリアは痛む腕を抱えながら、理事たちを睨み据える。彼女を襲った存在――“白銀の裁定者”と呼ばれる謎の人物は、闇のみならず光や複数の属性を自在に操っていたという。半ば絶望しかけているマリアだが、強い復讐心に燃えていた。
「よし、光属性持ちの検査を優先的に行え。光属性は希少な属性だ、早く見つかるかも知れない」
「もし、犯人を見つけることができなかったり、マリアがAクラスから落ちるようなことがあれば……ジグラー家は学園との繋がりを断ち切ります。その結果がどうなるか、おわかりですよね?」
その言葉に理事長たちは真っ青になり、全校検査への全力協力を約束する。こうして“属性検査”という学園史上でも異例の強硬策が正式にスタートした。
学園理事たちは早速、大規模検査に乗り出す段取りを整え始めた。通常の授業や学園行事は大きく乱され、学生たちの間でも不安と動揺が広がるだろう。そして有力貴族に多く発現する光属性持ちを優先的に検査するとなれば反発する声も少なくないはずだ。
しかし、ジグラー家の威光を前に、学内の抵抗はほとんど意味をなさない。
「まずは事件のあったBクラスを徹底的に洗い出しなさい。もし犯人がいなければ次は全校を対象に――。逃げ場はないわ」
マリアの言葉どおり、検査が進めば進むほど、学園に潜む闇は表に引きずり出されるはずだ。
真に“白銀の裁定者”が潜んでいるなら、その正体が明らかになるだろう。
会議後、重苦しい空気が色濃く残る会議室で、レオニスは他の理事たちを下がらせ、マリアと二人きりになった。天井の高い部屋には、息を呑むほどに豪華なシャンデリアが静かに輝き、壁一面には歴代ジグラー家当主の肖像画が威圧感を放っていた。しかし、今のマリアにとって、そのような権威の象徴は目に映らなかった。失われた右腕の疼きが、彼女の心を深い絶望の淵へと引きずり込んでいた。
「……あの“白銀の裁定者”……まるで、悪夢の具現化だわ」マリアは震える声で呟き、包帯で覆われた右腕をそっと抱きしめた。「風、炎、水、闇、そして……光。あらゆる属性を同時に操るなんて……信じられない。でも、あの力は……紛れもなく、本物だった」
レオニスは、妹の肩にそっと手を置いた。その手は、長年軍務に携わってきた男の手であり、確かな力強さと、しかし妹に触れる時だけは特別に込められる優しさを併せ持っていた。
「……心配するな、マリア。失われた腕の治療法は、私が必ず見つけ出す。ジグラーの名にかけて、必ず……お前はもう、ゆっくりと休んでいていいんだ」
「……お兄様……」
マリアはレオニスの言葉に、かすかな微笑みを浮かべようとしたが、上手くいかなかった。その瞳の奥には、消えることのない復讐の炎と、拭いきれない不安が渦巻いていた。
「ありがとうございます。でも……わたくしは諦めません。必ず、犯人を捕らえてみせますわ」
レオニスは、妹の強い意志を感じ取り、静かに頷いた。その表情は、先程までの冷徹さから一転、深い憂いを帯びていた。
「うむ……だが、無理はしないで欲しい。お前は……わがジグラー家にとって、唯一無二の宝なのだから」
レオニスの声は低く、しかし重く響いた。その言葉には、兄としての深い愛情と、妹を失うことへの筆舌に尽くしがたいほどの恐れ、そしてジグラー家当主としての重責が込められていた。
「お前が手を下す必要はないのだ。私が必ず地獄の苦しみを与えてやる」
マリアはレオニスの言葉に、はっと息を呑んだ。普段、公の場では感情を表に出さない兄が、これほどまでに心配の色を滲ませているのを見るのは、本当に久しぶりだった。彼女の脳裏には、遠い日の記憶が鮮明に蘇る。
(……お兄様……あの時は……)
まだマリアが幼かった頃、ジグラー家の広大な庭園で、使用人の手違いで転倒し、手に軽い切り傷を負ってしまった。ほんの小さな傷だったが、驚いたマリアは泣き出してしまった。その泣き声を聞きつけたレオニスは、普段の厳格な表情をかなぐり捨て、鬼のような形相で駆け寄ってきた。そして、青ざめた顔で震えているメイドを睨みつけたのだ。
「……マリアに、何をした……?」
その時のレオニスの目は、獲物を睨む猛獣のように鋭く、幼いマリアは恐怖を覚えたほどだった。メイドは必死に謝罪したが、レオニスの怒りは収まらなかった。結局、そのメイドは即刻焼き払われ、ジグラー家によって秘密裏に処理された。
(……あの時も、今も……お兄様は、わたくしのことになると……人が変わる……)
マリアはレオニスの顔を見つめた。今の兄の表情は、あの時の、怒りを辛うじて抑え込んでいるレオニスの表情と酷似していた。心配そうに眉をひそめ、妹を案じる優しい眼差しの奥には、底知れぬ怒りが渦巻いている。
「……お兄様……」
マリアは涙を堪えながら、レオニスの胸にそっと寄りかかった。レオニスは一瞬驚いたものの、すぐに優しく妹の背中に手を回した。兄妹の間には、血の繋がりだけでなく、共に過ごした時間、共有した記憶、そして互いを大切に思う気持ち、そして貴族としての特権意識によって育まれた、複雑で、しかし強固な絆が確かに存在していた。
「……必ず、見つけ出す。お前をこんな目に遭わせた者を……ジグラーの名にかけて、そしてこのレオニスの名にかけて、絶対に……許さない」
レオニスの低い声が、静かな会議室に重く響いた。その声には、妹への深い愛情と、犯人への激しい怒り、そしてジグラー家当主としての、そして貴族としての、容赦ない決意が込められていた。マリアは兄の温かさに包まれながら、静かに目を閉じた。兄の言葉を信じ、犯人が捕まる日を、そして失われた誇りを取り戻す日を、心待ちにしながら。