30 月夜の嘘
夜、簡素な部屋の中で、アルドは茶色のウィッグを外し、シャツ一枚の軽装で右腕の火傷を冷やしていた。
流水に晒された右腕の火傷は赤く腫れ上がり、絶え間ない熱と痛みがアルドを苛んでいた。今回の代償は、予想以上に大きかった。
静寂を破るように、扉をノックする音が響いた。アルドは反射的に警戒態勢を取る。
また、ツェリだろうか? 以前と同じような遠慮がちなノックの音だった。
扉越しに、いつものリーシェの声色で問いかけた。
「……どちらさまでしょうか?」
扉の向こうから、聞き慣れた、けれどどこか緊張を帯びた声が返ってきた。
「……リーシェ。私よ、アリシア。少し、お話がしたいのだけれど」
アルドは驚きに目を見開いた。
まさか、先程の出来事がもうアリシアに知られたのだろうか? だとしても、彼女がわざわざ寮まで訪ねてくるというのは尋常ではない。一体何があったのだろうか。
「……一人か?」
アルドが確認するように問いかけるとすぐに返答がある。
「えぇ、私だけよ。部屋に入れてくれるかしら」
「……あぁ、わかった、入ってくれ」
アリシアは背後を軽く確認し、部屋に足を踏み入れた。
顔には緊張の色が見えるが、いつもの制服姿のアリシアだ。
対照的に、アルドはいつものリーシェの面影はない。銀髪の男がシャツ一枚で立っている。シャツ越しにもわかる鍛えられた体躯に、アリシアは息を呑んだ。
リーシェとしての姿しか見ていなかった相手の予想外の姿に、戸惑いを隠せない。頬を赤く染め、視線を彷徨わせる。夜の静かな時間、男性の部屋で二人きりという状況が、彼女の緊張をさらに高めていた。
アルドはアリシアの様子を察しながらも、努めて平静を装い、優しく声をかけた。
「それで、アリシア……どうしたんだ?」
アリシアは、先程までの動揺を振り払うように顔を上げ、真剣な表情でアルドを見つめた。
「アルド、あなた……今日、B区画へ行ったわね?」
アルドは、アリシアの言葉に内心で動揺した。
やはり、バレていたのか? どう誤魔化すべきか、それとも正直に話すべきか、頭の中で様々な可能性が駆け巡る。
一瞬の逡巡の後、アルドは誤魔化すよりも正直に話す方が得策だと判断した。
「ああ……実は、ルーメン・テネブレが動いているという情報を掴んでな。少し、様子を見てきたんだ」
アルドの言葉を聞いた瞬間、アリシアの表情が曇り、悲痛な声が漏れた。
「どうして……どうして、教えてくれなかったの……?」
その瞳には、悲しみと僅かな怒りが入り混じっていた。
アルドは、アリシアに知られることなくルーメン・テネブレを掌握し、自分の目的のために利用しようと考えていた。しかし、その真実をアリシアに伝えるわけにはいかない。彼は苦し紛れに言葉を紡いだ。
「アリシア、君に危険が及ぶと思ったんだ。君のことだから、きっと一緒に行こうと言うだろう? 相手はAクラスの上級生だ。危険すぎる。どうしても、君を危険な目に遭わせたくなかったんだ」
アルドの真剣な眼差しと、自分を心配する言葉に、アリシアの胸が高鳴った。夜の静かな時間、男性の部屋で二人きり。しかも、アルドはシャツ一枚の姿で、その鍛えられた体躯が仄かに見える。
アリシアは、先程から落ち着かない気持ちを抱えていたが、アルドの言葉でさらに意識してしまい、頬が熱くなるのを感じた。視線をどこに向ければ良いのかわからず、俯き加減になる。
「で、でも……一緒に協力するって、言ったじゃない……私だって、戦えるわ……」
アリシアは俯き加減で、消え入りそうな声でそう言った。先程までの勢いはすっかり影を潜め、弱々しく訴える姿は、アルドの庇護欲をくすぐるほどだった。
「ああ……すまない」
アルドは少し眉を下げ、申し訳なさそうに言った。
「そ、そう……わかったわ」
アリシアはアルドの言葉に小さく頷いた。思ったよりもあっさりと引き下がったのは、少し意外だった。アリシアは落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、ふと、アルドの右腕に巻かれた布に気づいた。
「ねぇ……あなた、その腕の……」
アリシアは心配そうに尋ねた。
「ああ……これは……」
アルドは言葉を濁し、一瞬躊躇した後、布を少しだけ捲った。そこには、赤く腫れ上がった、酷い火傷の痕があった。皮膚はただれているように見え、見るからに痛々しい。
アリシアは思わず息を呑んだ。その痛々しさに、顔が青ざめる。アルドはすぐに布を被せ、隠した。
「……大したことはない。少し、巻き込まれただけだ。あまり見て気分の良いものでもないから、隠していただけだ」
アルドは視線を逸らし、平静を装って軽く言った。
「貸して!」
アリシアはアルドの言葉を遮り、強い口調で言った。そして、躊躇うアルドの手から布を奪い取るように取り上げた。
迷うことなく、アリシアは右手を火傷の痕にかざした。淡い光が彼女の手から溢れ出し、アルドの火傷を包み込む。光の精霊術が傷を癒していく。
熱を持っていた皮膚は徐々に冷えていき、赤みも引いていく。やがて、火傷の痕は完全に消え、元の綺麗な肌に戻った。
癒し終えたアリシアは、アルドから少し距離を置き、彼を見つめた。部屋には静かな沈黙が訪れた。
「ねぇ……殺しはしないって、約束してくれたけど……今日の、あれは……」
アリシアは先程までの優しい表情から一転、不安げな表情でアルドを見つめた。その言葉は、まるで彼の良心を試すように、静かに、しかし重く響いた。
アルドはアリシアの言葉に、一瞬言葉を失った。脳裏には、マリアを殺そうとした瞬間が鮮明に蘇る。最後は躊躇い、結果的に逃がしてしまったが、殺すつもりだったのは事実だ。
「……殺していない」
アルドは努めて冷静な声で答えた。
アリシアはアルドの言葉に眉をひそめた。
「で、でも……あの場所には……」
「それは、ルーメン・テネブレの奴らが襲撃した際のものだ。俺ではない」
アルドがアリシアの言葉を遮るように言うとアリシアは疑うように見つめ返した。
「マリア・シュト・ジグラーが言っていたわ。“白銀の裁定者”に、複数の属性の精霊術でやられた、と」
アルドは内心で舌打ちした。やはり、マリアを生かして逃したことが仇となったか。アリシアに情報が漏れるのは時間の問題だと思っていたが、これほど早く伝わるとは予想外だった。しかし、動揺を表に出すわけにはいかない。
「ああ……確かに、俺はマリアを攻撃した」
アルドは落ち着いた声で認めた。
アリシアの表情がさらに曇り、今にも泣き出しそうな顔でアルドを見つめた。
「なんで……どうして……約束したじゃない……」
その声は震え、今にも涙が溢れそうだった。
アルドはアリシアの悲しそうな表情に胸が締め付けられるような痛みを感じた。それでも、嘘を続けるしかない。
「ああ……君との約束があったから、殺しをやめたんだ」
アルドはアリシアの目を真っ直ぐに見つめ、嘘を重ねた。
「現に、マリアは生きているだろう?」
アルドは言葉を続けた。
「正直、奴を見た時は、リーシェのことが頭をよぎった。怒りで我を忘れそうになった……殺す寸前まで、行ってしまったかもしれない。だが……寸前で、君のことが頭をよぎったんだ。君との約束を、思い出した。だから……殺すことが、できなかった」
アルドはさらに言葉を重ねた。
「そしてマリアの周囲にいた貴族を殺したのはルーメン・テネブレの奴らだ。俺じゃない」
アリシアはアルドの言葉を食い入るように聞いていた。彼の目を見つめ、その言葉の真偽を確かめようとしているようだった。
「俺は誰一人として殺していない。君との約束を破るようなことはしていない」
そして、アルドの最後の言葉を聞いた瞬間、アリシアは目を見開いた。
「介入はしたが、戦闘を止めたようなものだ。結局、情報も得られなかったし、何も得るものはなかったよ」
アルドは肩を竦め、事態を矮小化するように言った。
実際は、ルーメン・テネブレの教祖を兼ねる聖女――メリディアの正体を知ることができた。それは、今後の計画において非常に大きな収穫となるだろう。さらに、マリアには大きなダメージを与え、フレイムハートを奪い、ヴァールノートに恩を売るという副産物まで得ている。
収穫がないどころか、むしろ大きな成果を上げていると言っても過言ではない。しかし、アルドはそれらの事実を全て胸の内にしまい込んだ。
(……アリシアには、嘘をついてばかりだな……)
アルドは内心で小さく溜息をついた。アリシアを欺いているという罪悪感が、彼の心を重くしていた。
その時、俯いていたアリシアが顔を上げ、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい……」
アルドは予想外の言葉に、一瞬戸惑った。
「……なに?」
アリシアはアルドの目を真っ直ぐに見つめ、申し訳なさそうな表情で言った。
「あなたは、私のことを思って、一人で危険な場所に飛び込んでいったのに……それなのに、私……また、あなたが人を殺したんじゃないかって、疑ってしまって……本当に、ごめんなさい」
アルドは言葉を失った。躊躇したのは事実だが、その後は本気でマリアを殺すつもりだった。結果的に殺せなかったが、アリシアに謝られる筋合いはない。むしろ、嘘をつき続けている自分が、ひどく後ろめたい。
アリシアの純粋な謝罪が、アルドの良心を容赦なく抉る。
「い、いや……謝る必要はない」
アルドは慌てて言った。
「疑われるのは、当然だ。俺の行動が、そう思わせても仕方ない。ただ……誰も殺していないということだけ、理解してくれればそれでいい」
「うん……ごめんなさい。もう二度と、あなたを疑ったりしないわ」
アリシアは力強く頷き、真剣な眼差しでアルドを見つめた。その瞳には、迷いのない信頼の色が宿っていた。
アリシアの真っ直ぐな視線を受け、アルドは再び胸が痛くなった。彼女の純粋な信頼が、アルドの嘘を際立たせ、彼の罪悪感を増幅させた。
「しかし、アリシア……監査委員とはいえ、こんな夜中にD区画へ来ても、問題ないのか?」
アルドは誤魔化すように、問いかける。
アリシアはアルドの言葉に、ハッとした表情を浮かべた。
「え、えと……あ……」
先程までの真剣な表情はどこへやら、急に落ち着かなくなった様子で視線を泳がせる。
「あ……その……慌ててたから……つい……」
今更ながら、自分が夜遅くに男性の部屋にいたことに気づき、アリシアの顔はみるみるうちに赤くなっていった。先程までの緊張感と、アルドへの心配で頭がいっぱいだったため、周囲の状況を全く気にしていなかったのだ。慌てて立ち上がると、アリシアは俯き加減で言った。
「……ごめんなさい。こんな時間まで、お邪魔しちゃって……」
「いや、気にしないでくれ。俺こそ、ちゃんと説明できなくてすまなかった」
アルドはそう言うと、アリシアを見送るために扉の方へ歩み寄った。
アリシアはアルドの言葉に小さく首を振り、早足で部屋を出て行った。廊下に出ると、誰かに見られていないか周囲をそわそわと見回し、小走りで自分の部屋へと戻っていく。その背中は、先程までの強い決意を秘めた姿とは異なり、どこか逃げるように見えた。
アリシアが部屋を出ていくのを見届け、アルドはゆっくりと扉を閉めた。静かになった部屋で、アルドは一人、深い溜息をついた。
アリシアの、自分を真っ直ぐに見つめる瞳。その純粋な信頼の色。アルドは、その瞳の中に、かつて妹のリーシェが見せていた面影を見た気がした。純粋で、優しく、そしてどこか儚げな、大切な妹の姿。
アリシアを欺いているという罪悪感が、再びアルドの胸を締め付けた。彼女の純粋さに触れるたび、嘘をついている自分が、ひどく卑怯な人間に思えてくる。それでも、アルドは嘘をつき続けなければならない。リーシェの仇を討つという、彼の復讐の炎が、他の全てを焼き尽くしてしまうからだ。
しかし、同時に、この場をなんとか乗り切れたことに、アルドは安堵していた。アリシアに疑われることなく、嘘を信じさせることができた。これで、計画を滞りなく進めることができる。
安堵と罪悪感。相反する感情が、アルドの心の中で渦巻いていた。彼は静かに目を閉じ、今日の出来事を反芻し、今後の計画を改めて頭の中で整理し始めた。