27 闇の後に
マリアはまるで糸の切れた人形のように膝をついた。右腕は肩から先ごと断ち切られ、鮮血が路面に飛び散る。フレイムハートが甲高い音を立てて転がった。
「……ぁぁ……っ!」
喉の奥から絞り出すような悲鳴が漏れるが、闇の結界の名残でアルドの耳には届かない。マリアは顔を歪め、失われた右腕の付け根を必死に押さえながら荒い息を繰り返している。血が止まらない。彼女は転がるフレイムハートに手を伸ばそうとするが、右腕を失ったことで上手く動けず杖を拾うことすらできない。
絶望と恐怖に顔を歪めたマリアは、慌てながら、血痕を路面に点々と残して路地の奥へと消えていった。その背には、かつての威厳の欠片もなく、ただの逃亡者の哀れな姿があった。
(”もう殺さない”というアリシアとの約束が頭をよぎり殺しを躊躇した……。俺は何を甘いことをしている! リーシェの仇だぞ……!)
アルドは殺しを止めた自分の甘さに胸を締め付けられた。リーシェの仇を討つ絶好の機会だったのに……。
追撃しようと再度風の力を練り上げようとした瞬間、頭の中にナジャの警告が雷鳴のように響き渡った。
(待て! 原型複写を酷使しすぎじゃ、枯渇まで後僅か。妾との契約にまで影響が出るぞ!)
歯を食いしばる。アルドの呼吸は荒く、全身の筋肉が悲鳴を上げている。魔力回路が焼け付くように痛み、正直、立っているのがやっとだった。
体内の魔力が枯渇し、意識が朦朧としてくるのを感じる。右腕の痛みも酷く、感覚が麻痺し始めていた。肩を上下させながら、なんとか意識を保ち、そっと仮面の聖女の方を振り返る。
茫然とした表情でアルドを見上げるメリディア。何かを言おうとしているようだが、闇の残滓が音を遮り、言葉は届かない。その瞳には、混乱と、それ以上に強い畏敬の光が宿っていた。
メリディアは、目の前の仮面の男が、自分を救ってくれた“白銀の裁定者”その人だと確信していた。
アルドは小さく息をつき、足元に転がるフレイムハートを拾い上げた。マリアを追えば仕留めることは容易いだろう。だが、今の状態では深追いすれば人目につき共倒れになる可能性が高い。正体を晒すリスクを冒すまでもない。殺しを躊躇った時点で、今回はここまでだ。
マリアが逃げ去った後、戦場に静寂が戻る。倒れたルーメン・テネブレのメンバーたちはほとんどが気絶していたが、かすかな息遣いが確認できる。
「……大半は生きているようだな」
アルドは一瞬だけ周囲を見回す。
すると、ルーメン・テネブレの仮面の少女、メリディアが立ち上がり、ふらつきながら彼の前に進み出た。
そして、闇の結界が解除され周囲を包んでいた闇のとばりが晴れ、音が戻る。
「……お待ちください」
少女は仮面をゆっくり外し、その素顔を現した。
ナジャの言った通り、仮面の聖女の正体はメリディア・リィト・ヴァイスロート公爵令嬢だった。
端正な顔立ちだが、その目には揺るがない決意が宿っている。
メリディアは膝をつき、頭を深々と下げる。
「この命、お救いいただき、感謝いたします。そして……聖なる裁定者様に無礼を働き、その御名を騙るという冒涜を犯したこと、深くお詫び申し上げます……」
その声には涙がにじんでいた。アルドはそれを静かに見つめ、何を言うべきか決めかねていた。
「まずは治療を……」
メリディアがそっとアルドの手に触れ、光の力を用いて傷を癒そうとする。しかし、彼女の顔には苦痛の色が浮かぶ。
「俺のことはいい。自分や仲間を癒してやれ」
アルドは低い声でメリディアを止める。彼は手を引き戻し、倒れているルーメン・テネブレのメンバーたちを指さした。
メリディアはためらいながらもアルドの指示に従い、仲間たちの元へと向かう。その背中を見ながら、アルドは内心で整理を始めていた。
彼女の正体、そして本質が見えた今、焦る必要はない。メリディアはAクラスであり、アリシアと同じ倫理監査委員。接触する機会は作りやすいだろう。
(それに、これ以上深入りするのは得策ではない……。 疲労も激しい。ここで一旦引き、改めて状況を整理すべきだろう)
アルドはフレイムハートを手に取り、メリディアに背を向けた。そして、一瞬だけ振り返り、低い声で静かに告げる。
「二度と、このような無謀な真似はするな」
その言葉は、気遣いとも、警告とも取れるものだった。
メリディアは目を見開き、感激の表情を浮かべ頭を下げる。その様子に背を向けながら、アルドはゆっくりと歩み去った。