25話 業火を断つ光
「……何……?」
マリアの声は、驚愕に凍り付いていた。
現れたのは――白銀の髪と瞳を持つ、華奢な体躯の少年。背後から溢れる光は、まるで月光を浴びているかのようで、その姿は現実離れした美しさを放っていた。
メリディアは残った意識を総動員して、その姿を見つめる。ほんの数メートル手前で、彼の白銀の瞳が、たしかにこちらへと向けられた……。声を出そうとしても出ない。喉が掠れて息が漏れるだけだ。でもそれで十分だった。私は心の中で叫ぶように喜びをあげていた。
暗闇に一筋の光が差し込んだ。
乾ききった心に、微かな希望が灯る。血の味がする唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
対するマリアは鋭く睨みつけながら、盛大に炎を巻き上げる。
「まさか……貴様が……! “白銀の裁定者”だと……!?」
答えることなく、少年はその白銀の瞳で冷ややかにマリアを見据える。
路地裏が奇妙な静寂に包まれるなか、白銀の少年はすっと手を上げると、風の精霊術を解き放つ。鋭い風の刃がマリアへ向かって薙ぎ払われ、マリアは炎を纏ったフレイムハートでそれを受け止める。
「風、だと……? それがお前の属性か!」
そう思い込んだマリアに対し、次の瞬間、彼はまったく同じフォームで手を振り、まばゆい炎の柱を噴出させる。マリアの背後にドッと火炎が広がり、彼女はとっさに土壁を形成して防ぐ。
「――風と炎……? デュアルコントラクター……!?」
そして、さらに追撃のように今度は水の弾丸が飛ぶ。氷結を伴う冷気がマリアの左腕をかすめ、霜がつくほどの冷たさがその体に走る。
「トライコントラクター……? そんな馬鹿な……!!」
マリアが舌打ちしながら飛び退く。
メリディアは先日話したばかりのDクラスの“リーシェ・ヴァルディス”という少女のことを思い出す。彼女は歴代でも稀な“トライコントラクター”だったと言われていた。
彼女の他に学園にトライコントラクターは存在していないはずだーー。しかし、今ここで戦う白銀の少年は、確かに三属性を操っている。
見る見るうちにマリアが押され始め、炎と土の組み合わせで反撃しても、風・炎・水で受け止められ、わずかに劣勢に陥る。さすがのマリアも、魔道具の火力で一撃逆転を狙うが、相手の動きは速く、華麗に避けられる。
あまりに多彩な術を意のままに操る姿は、人間業とは思えなかった。マリアの瞳に、初めて明確な焦燥の色が浮かんだのを、メリディアは見逃さなかった。震える唇に、微かな笑みが浮かぶ。
(やっぱり……このお方は、本物の……!)
「神」という言葉を口にするのを、メリディアはためらった。それはあまりにも畏れ多い行為のように思えた。
ほんの少し前まで、絶望で胸が張り裂けそうだったが、今は絶体絶命の自分の前に”白銀の裁定者”があらわれ、常軌を逸した戦いぶりを見せている。
込み上げてくるのは、畏敬の念だった。朦朧とする意識の中で、熱いものが込み上げてくる。それは涙なのか、それとも高揚なのか、メリディアには分からなかった。ただ、この奇跡を目撃できたことへの、深い感動が胸を満たしていた。
しかし、マリアもまた、並の術者ではなかった。フレイムハートを振るうたびに、周囲の空気が焼け付くように熱くなる。土壁を自在に操り、防御と攻撃を巧みに織り交ぜてくる。
戦況は再び拮抗し始め、激しい音が周囲に響く。
(まずい……このままでは人が集まってきてしまう)
メリディアは残された僅かな魔力を振り絞り、再び闇の結界を展開しようと試みた。
規模は小さいが周囲に音を消す結界が広がり少しずつ音が闇に吸い込まれ消えていく。
そのとき、マリアが不意にメリディアの方へ視線を向けた。
「死に損ないが! 邪魔だ……!」
彼女が土壁を盾にしながら炎弾を横合いに投げ放つ。
標的は、痛みに耐えて倒れかけているメリディアだ。
瞬間、耳を裂くほどの轟音が低く響き、灼熱の火球がメリディアへ襲いかかった。
「……っ……!」
そこまでだった。メリディアはもう身体を動かせない。
だが、目を閉じかけた次の瞬間、強烈な風が吹き荒れ、白銀の少年がメリディアの視界に飛び込んできた。
まるで稲妻のような速度。彼はメリディアの正面で腕を広げ、風の盾で炎弾を逸らそうとするが、間に合わなかったのか、右手で火球を掻き払うような格好になり、その手から皮膚が焼け落ちる焦げた匂いが立ち上った。
「…………っ!?」
声を出そうにも音が出ない。メリディアは衝撃で目が見開き、酸素がうまく取り込めない。
白銀の少年は苦悶の表情を滲ませながらも、メリディアの目の前に留まり、火球の余波を完全に受け止め、押し返した。床に散る火の粉がぱちぱちと弾け、夜の闇に消えていく。そこに残ったのは、右腕を痛々しく焼かれた少年の姿と、息を呑んで動けないメリディア。
(私のせいで……。白銀の裁定者様が、怪我を……っ)
メリディアは心が張り裂けそうだった。自分にまだ戦う力があれば、あるいは仲間が無事であったなら、こんな苦しい思いを彼にさせなくて済んだのに。裁定者様にけがを負わせるなんて、私はなんと罪深い。絶望が更に深まろうとした、その瞬間。
少年はメリディアの手をそっと掴んだ。咄嗟のことで驚いたが、音が消え失せた結界の名残りもあって彼の声は聞こえない。けれど、彼の瞳は真っ直ぐにメリディアを見つめ、何かを伝えようとしているようだった。その白銀の瞳は、確かな温かみを帯びていて、メリディアの荒んだ心をじんわりと溶かすかのように感じられる。
「……ぁ……」
言葉にならない声が漏れる。鼓動が強く脈打ち、仮面の下の頬が熱くなったのがはっきりわかった。何を言っているのかは分からないが、少年のまなざしが語るのは“もう大丈夫”という安心感。それだけでメリディアは目から涙がこぼれそうだった。
(彼の手……温かい……)
メリディアは、アルドが自分の手を取った瞬間、温かい感触に僅かに意識を取り戻した。安心感のようなものが胸に広がり、力が抜けていくのを感じた。
ソフィの面影がふと脳裏をかすめる。あの子もこうして私の手を取り、いつでも守ってくれた。ソフィが私の心を包み、白銀の裁定者様が私の身体を守ってくれる。そんな錯覚さえ覚えるほど、この一瞬にすべてが凝縮されていた。
やがて少年はメリディアの手をそっと離し、再びマリアの方へ向き直る。その瞳に宿る光が、先ほどまでの炎や風、水以上の異質な輝きを放っていた。メリディアは思わずごくりと唾を飲む。
その瞬間、彼は“光”を纏い、“闇”が微かに揺れるオーラとなってマリアの動きを阻害しはじめた。
ほんの数刻前まで、彼は風、炎、水の三属性を操るトライコントラクターに見えた。
しかし、今、彼の周囲には光と闇が渦巻いている。
それは、私が操る闇の精霊と酷似していた。いや、酷似などという生易しいものではない。まるで、私の精霊そのものが、彼の意志に従っているかのように……。
(あれは……光と闇……? 私と同じ二属性……? いえ、違う……あれは、私の……)
メリディアは息を呑んだ。理解が及ばない。どうして彼が、私の精霊を操ることができるのか? 五つもの属性を同時に維持するなど、常識ではありえない。しかし、目の前で起きていることは、紛れもない現実だった。
そもそも、どうすれば五つもの属性を同時に維持できるというのだろう? 世界にそんな術者がいるなんて、聞いたことがない。それでも目の前で起きている事実が、私の常識をひっくり返す。
彼はマリアに対して高らかに光と闇の衝撃波を繰り出す。ピリッと空気が震え、闇と光が一瞬にして混ざり合い、虹色を帯びた閃光が周囲を奔る。
マリアはフレイムハートから放たれる炎で対抗しようとするが、光と闇の奔流は、彼女の想像を遥かに超えていた。
激しい光と闇の奔流が弾け、轟音が夜空に吸い込まれていく。メリディアは息を呑み、その光景に見入っていた。
(すごい……。そして、美しい……)
マリアはなおも抵抗しようと、フレイムハートを振り上げた。
しかし、その時だった。
彼が静かに右手を振り下ろした。その瞬間。
鋭い風の刃がマリアの右肩を切り裂いたーー