23 聖女の誕生
それから数日が経った頃、私はもやもやとした胸の高鳴りを抱えつつ、学園内の様子を丹念に見て回るようになった。表向きは倫理監査委員としての視察や事件の調査のため――そう言い訳をしながらも、実際は“裁定者様”の足跡を探していたのだ。
しかし、先日のような派手な処刑めいた事件は起こらない。学内は一見すると平穏が戻ったかのように見え、貴族派の怯えと苛立ちだけが空回りしている状況だった。
(どうして、あれほど強大な力を振るっていた“裁定者様”が、ここしばらくは姿を見せないの……?)
そんな疑問が心をざわつかせる一方、私にとっては好都合な事態も起こっていた。つまり、私のように“裁定者様”を崇め、学内を腐敗から救おうとしている――もしくはそう信じている者が想像以上に多いのだ。
ちょっと耳を傾ければ、廊下の隅や教室の陰でささやかれる噂のなかに“暗闇の処刑人”への賞賛や憧れを語る者がちらほら混じっていた。
もっとも、大声で公言できる話題ではない。貴族派が聞けば命取りだ。それでも「貴族派をいずれ裁いてくれる力があるなら、そこに救いを求めたい」と熱を帯びた瞳で言う学生は思いのほか多かった。私はその光景を目にするたび、心の奥底で微かな確信に近い情熱を感じ始める。
(このまま隠れて“裁定者様”を拝むだけで終わるわけにはいかない。私が先頭に立てば、もっと大きなうねりを生み、腐敗をただす手伝いができるかもしれない)
そう考えるのに時間はかからなかった。私の周囲には貴族の名誉を振りかざす者もいれば、逆に負の感情を燃やしている下層や無所属の生徒もいる。けれど本当は彼らが狙っているのは「腐った貴族」に対する制裁であり、“裁定者”のように容赦なく悪を断ち切る神の手を求めているのだ――と私は解釈した。
かくして、私は動き出す。
唯一心を許せる相手であるケーナ・ルームに相談しながら。
ケーナは私と同じ一年生のAクラスでありながら、男爵家の出身というだけで、周囲の有力貴族の子弟からは見下されることが多かった。幼い頃から、高位貴族たちの傲慢な態度や、下位貴族への容赦ない仕打ちを目の当たりにしてきたケーナは、貴族社会の身分制度に強い不満を抱いていた。
しかし、それを表に出すことは決してなかった。彼女は常に控えめで、周囲に波風を立てないように生きてきた。そんな彼女にとって、私、公爵家出身のメリディアが分け隔てなく接してくれることは、ささやかな救いだったのかもしれない。
「裁定者様、ですか……?」
控えめな声で問いかけるケーナの瞳には、僅かな戸惑いと、それ以上の興味が宿っていた。
「ええ。この腐りきった貴族社会を変えてくれるかもしれない存在なの」
私がそう切り出すと、ケーナはまん丸な瞳をしばし伏せ、過去の記憶を反芻するように目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開き、決心したように頷いた。
「メリディアさんがそう思うのなら……私も、そういう考えがあってもおかしくないと思います。長年見てきた貴族たちの醜さは、目に余るものがあります。何か目に見えない正義の力が、学園の……いえ、世界の醜さを正そうとしているのかもしれませんね」
「ありがとう、ケーナ。あなたになら分かってもらえるって思ってたわ」
私たちは周囲に気づかれないように人通りの少ない校舎裏で顔を寄せ合い、そのまま小声で“裁定者様”について話し合った。初めは戸惑いがちだったケーナも、私が熱を帯びた声で貴族社会の腐敗を語るうちに、段々と共感を示すようになっていった。
その瞳には、今まで見たことのない強い光が宿っていた。
私はそこで一歩踏み込んだ提案をすることにした。
「ねえ、ケーナ。わたし……もっと大きな動きを起こせると思うの。単に噂を共有するだけじゃなくて、“裁定者様”を崇める人々を組織化すれば、学園を動かす力にならないかしら」
「組織、ですか……。崇める人々を集めるとなると、宗教のような……?」
ケーナは少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔つきになった。
「うん、イメージとしてはそう。わたしが教祖……なんて言い方はいやだけど、指導者的な立場になって、皆で“裁定者様”を讃え、貴族派の横暴を止めるために連携するの。貴族派の目を欺くためには、しっかりとした組織が必要になる。情報伝達の経路を確立し、連絡を取り合えるようにし、万が一の時のための逃げ道や隠れ家も確保しなければならない。あなたにも協力して欲しいの」
ケーナは目を丸くして息を呑んだ。彼女にとって、これは相当に急な話だったに違いない。しかし、それでもケーナは逃げ出さず、じっと私の顔を見つめている。その瞳には、決意のようなものが宿っていた。
やがて静かな声で「メリディアさんのためになるのなら……、そして、この腐った学園を変えられるのなら……協力します」と告げてくれた。その声は、以前の控えめな声とは違い、力強さを帯びていた。
そうして生まれたのが“ルーメン・テネブレ”という秘密結社だった。組織の運営は、ケーナが中心となって進めた。彼女は持ち前の几帳面さと情報収集能力を発揮し、瞬く間に組織の骨組みを作り上げていった。
情報伝達には暗号と伝書鳩を使い、集会は人目のつかない廃屋や通路を利用することにした。メンバーの役割分担もケーナが主導で行い、情報収集班、連絡班、警護班などが組織された。
「ルーメン」は光、つまり私が公にしている光属性を象徴するかのようでありながら、「テネブレ」は闇を意味する。私の内に宿る二つの精霊、光と闇。その対極をあえて一つに繋ぎ、“光と闇が同時に導く”組織というニュアンスを込めている。
私は裁定者様にも”光”と”闇”を感じていた。
もちろん、そんな由来はメンバーにも明かしていない。表向きは「暗闇の時代を照らす灯火」程度の適当な説明をしている。そしてありがたいことに、ケーナが積極的に動いてくれたおかげで、私の知らない下層出身の生徒たちを含め、少しずつ人が集まってきた。
もともと腐敗しきった貴族派に嫌気が差していた者や、無所属の平民も多い。さらに“裁定者”に直接助けられた、あるいは姿を見かけたという子たちまで現れたのだ。
そのうちの一人――Cクラスのイザナという少女が、私の中で決定的な衝撃をもたらしてくれた。
「ええ、私は確かに見ました。あの方は白銀の髪と白銀の瞳を持つ、神秘的で美しい少年でした……」
イザナの熱っぽい口調には、敬愛が滲み出ている。彼女はかつて貴族派に痛めつけられ絶望寸前だったところを“暗闇の処刑人”と思しき男性に救われたという。
そして間近で見たその姿があまりに幻想的だったのだろう。イザナいわく「あの凛とした姿は神の化身のようでした」と息を弾ませながら語る。
私には衝撃的な証言だった。巷では“暗闇の処刑人”なんて物騒な名で呼ばれていたが、それはあまりに不敬。彼は人々の苦しみを救う“裁定者”であり、白銀の髪と瞳を持つ美しく、絶対的存在なのだ、と確信に近い興奮がこみ上げてくる。
そこで私は、すぐに信徒たちに告げた。
「いいえ、“暗闇の処刑人”なんて俗な呼び名は今日限りでやめなさい。それは不敬よ。神の代行者ーー“白銀の裁定者”と呼ぶべき神聖な存在なのですから」
メンバーは頷き合い、その日から私たちの組織では“白銀の裁定者”と呼称を改めた。こうしてルーメン・テネブレは急速に拡大していき、やがて私は“教祖”あらため”聖女”として仮面を被り人前に立ち、“白銀の裁定者様を崇拝し、腐敗した貴族派を正す”という大義を掲げるようになる。
そこまでは、思った以上に順調だった。
私は倫理監査委員として学内を自由に回れる特権を利用し、Bクラスにも足繁く出向いて、信徒を増やしていった。Cクラスのイザナが間を取り持ってくれたのも大きいし、ケーナが組織運営の事務的な作業をすべて取り仕切ってくれたおかげで、私が姿を隠したまま“聖女”として指示だけ出せば物事が進むようになっていく。
「裁定者様はいずれこの学園に再臨される。そして貴族派の腐敗を余すところなく裁くでしょう」
私は仮面の奥で小声で囁く。メンバーは歓喜の声をあげる。誰も私の本名を知らず、それでいて私の“光と闇の術”に畏怖を感じている。まさかその術が公爵家生まれのメリディアが隠し持つものだなど、誰も想像できないだろう——その事実が、私に奇妙な高揚感を与えていた。
そう、“白銀の裁定者”が再び学内で姿を現したとき、私はこの組織の力をもって彼の“聖なる裁き”を支える。
あるいは、その聖行に加担し、学園中を貴族派から解放する。もはや貴族社会の理不尽に抑えつけられて生きる立場ではない。私は公爵家という名を背負いながらも、同時に闇属性を秘め、そして“白銀の裁定者”の神格を信仰する“聖女”だ。ここでこそ、私の運命が揺れ動くのかもしれない。
それから少しの間、学内の空気は再び静けさを取り戻したように見えた。しかし、それが嵐の前の静けさだということを私は薄々察している。
なにしろ、“裁定者”様が一度も現れないで時間が過ぎるにつれ、学内には様々な思惑が錯綜し始めているのだ。
「“白銀の裁定者”はもう貴族派を討ち終えたのかもしれない」「いや、次に狙われるのはAクラスの上層部だ」という囁きが広がり、ルーメン・テネブレのメンバーも「ならこちらから動いて腐敗を断罪すべきです」と私に訴えてくる者が増えた。
私は、その声に応えるかのように、徐々に行動の幅を広げていく。けれど、あの“神”が本当に私たちをどう見るのかは、まだわからない。もし裁定者様が私たちの行動を認めず、ただの紛い物として断罪される日が来るとしたら……? 想像するだけで、胸が締め付けられるように苦しい。
もし、私が間違っていたら?もし、この組織が、ただの自己満足に過ぎなかったら?そんな考えが頭をよぎるたび、不安に押しつぶされそうになる。
組織が大きくなるにつれて、責任も重くなってきた。多くの信徒たちの期待を一身に背負い、彼らの行動を導く立場。それは、私が想像していたよりもずっと重く、息苦しいものだった。
もし、私が間違った方向に導いてしまったら……?もし、信徒たちを危険に晒してしまったら……?そんな不安が、常に私の心を苛んでいた。
(でも、いつか——いつかお目にかかることができたとき、その力と意志をこの目で確かめたい……)
“裁定者”様の正体を知りたいという欲求は、日増しに強くなっていた。白銀の髪、白銀の瞳を持つ、神の化身のような少年……イザナの言葉が、私の頭から離れない。
一体、どんな人物なのだろう?どんな力を持っているのだろう?直接会って、話を聞いてみたい。
そう思う一方で、同時に、恐ろしいという気持ちもあった。もし、裁定者様が、私が想像していたような存在ではなかったら?もし、彼が、ただの力を持った人間に過ぎなかったら?
あるいは、もっと恐ろしい存在だったら……?そんなことを考えると、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
私は信じる。再び学内に光と闇を帯びた嵐が吹き荒れるその日こそ、“白銀の裁定者”という神の真価を存分に見るときだ。
そして私は、その日を迎えるために、多くの信徒たちと共にルーメン・テネブレを動かし続ける。いずれ、白銀の神が姿を現し、私たちを導いてくれるはずだと——
胸の奥に燻る闇が、期待と不安、そして僅かな希望を囁いて止まないのだから。