21 儚き日々の残響
ゆらりと空気を歪ませる炎をまとった杖がこちらに向けけて振り下ろされる。
私は激痛に耐えながらもその光景を正面からぼんやりと眺めていた。
周囲には倒れ伏した仲間たちの姿があるが、誰ももう動ける様子はない。周囲に展開した闇の結界も崩れる寸前だ。迫り来る殺意に対して今、私は何ひとつ為す術を持たない。
――燃え盛る炎の熱波が肌を刺し、あふれる血の臭いが鼻をつく。
マリアがゆったりと足音を立てながら近づき、その顔には、獲物を仕留める直前の、歪んだ笑みが浮かんでいる。
私はかろうじて息を整えようとするが、肺が焼けるように痛む。意識が霞みかける中、自分をここまで追い詰めた存在の力の凄まじさを改めて思い知る。
――もうダメかもしれない。殺される。死ぬ、ここで。
息苦しさが胸を締めつけるたび、視界が濁っていく。これが死へ向かう最期の瞬間というものなのだろうか。けれど不思議と、恐ろしさはなかった。代わりに押し寄せてきたのは──懐かしい記憶の数々。
わたしは公爵家に生まれた。家名は歴史の教科書にも載るほど古く、代々高名な魔術師や政治家を輩出してきた由緒ある一族だ。生まれながらにして周囲から期待され、多くの人々の前で「公爵令嬢」として完璧な振る舞いを求められた。何不自由ない暮らしが保障されているはずなのに、わたしの心はいつも閉じた庭園の中にいるような息苦しさを感じていた。
そのわたしを支えてくれていたのが、平民の少女ソフィだった。
両親がわたしの世話係として雇い入れたメイドだが、年も近く、彼女の柔らかな微笑みがわたしにはいつも救いだった。ソフィは決して大きな声をあげたり、見栄を張ったりしない子で、いつも淡い花柄のワンピースを着て、鼻歌を歌っていた。その歌は、どこかで聞いたことのある子守唄だったり、彼女が故郷で流行っていたという歌だったりしたが、どれも心が安らぐ旋律だった。まるで小さな灯火のように穏やかにわたしを照らしてくれる存在だった。
「メリィ、きっと貴方にも素敵な”運命の人”があらわれますよ」
ソフィはそう言いながら、いつもわたしの髪を優しく梳いてくれた。その温かい手に触れられるたびに、わたしは彼女が愛おしくてたまらなくなった。その瞬間、わたし自身も「メリディア」というただの一人の少女になれる気がしたからだ。
お嬢様扱いでないとき、ソフィはわたしを「メリィ」と呼んでくれた。いっそ彼女と一緒にどこか遠くへ逃げ出せればいい、と子どもじみた幻想を抱いたこともある。花柄のワンピースを翻しながら、楽しそうに歌うソフィと、二人でどこか遠い場所にいる自分を想像するだけで、心が温かくなった。
いつからだろう。あの優しい笑みと、穏やかな歌声を聞いているうちに、わたしは彼女を家族のように、いやそれ以上のかけがえのない存在として感じはじめた。姉妹というよりも、もっと深く、かけがえのない、唯一無二の存在として。
ソフィはわたしがどれだけ失敗しても笑顔で許してくれる。礼儀作法の指導者でもないのに、椅子に座る姿勢からナプキンの使い方まで、わたしがつまづくたびにさりげなく助けてくれた。まるで姉のように手を取って導いてくれるのだ。でも、それは教え込むような厳しさではなく、ただ優しく寄り添ってくれるような、そんな温かさだった。
そんな穏やかな日々は、わたしが十歳を少し過ぎたころに突如終わりを告げた。
ソフィは……貴族の客人に弄ばれ、声も上げられないまま、傷つき、そして命を落としてしまった。彼女の遺体を見つけたとき、わたしの心は音もなく崩れた。あまりに無残なその姿に、誰もが目を背けたがった。けれどわたしは最後まで、彼女の手を離さずにいた。
そのとき感じたのは、公爵家という名の高貴な檻が持つ、底知れぬ汚濁だった。名誉と血統を誇る貴族たちは、表向きは自分たちを清廉潔白であるよう装う一方、裏では弱者を踏みにじり、あたかも人形のように扱う。ソフィの死は、そんな腐敗と歪みに満ちた社会の中で起こるべくして起こった悲劇だったのだろう。わたしは唇を噛み、そして誓った──この家も、この貴族社会も、全部を憎んでやる、と。
その強烈な憎しみは、やがてわたしのうちに潜んでいた力を呼び覚ました。
闇の精霊。
貴族の常識では“穢れ”だと蔑まれる存在に等しい。闇の精霊との契約を持つ者は、呪われた者として忌避される。しかし幸いなことに、わたしにはすでに光の精霊との契約があった。
幼いころから才能を見込まれ、貴族の子弟らしい「光の魔術」の手ほどきを受けていたこともあり、わたしが“闇”に手を染めていると疑う者はいない。表向きは光の精霊術だけを使える才女として振る舞うことができたからだ。
当初は、自分の中に二つの相反する精霊が同居していることに戸惑った。光の精霊は厳かでありながら優しい存在だった。闇の精霊もまた、まるで母が子を見守るように、わたしの陰鬱な心をそっと抱きしめてくれるのを感じた。世間が忌む“闇”という言葉には、恐ろしく邪悪なイメージがつきまとう。だが、その実態はわたしの中で渦巻く悲しみや怒り、そして弱さを穏やかに包み込んでくれるものだった。わたしの憎しみも、悲しみも、まるごと受け止めてくれる。その温かさは、ソフィの手を思い出させるほど静かで優しい。
闇の精霊と契約したことを知れば、公爵家は間違いなくわたしを排斥するだろう。彼らが恐れるのは、わたしが持つ闇の力そのものというより、その存在が公爵家の名誉に泥を塗ること。
家名を穢す存在は、たとえ血のつながった子女であろうと遠慮なく始末される可能性がある。わたしは貴族社会の裏の顔を、ソフィの死を通して嫌というほど味わっていたから、その未来を簡単に想像できた。だからこそ、わたしは闇の精霊術を隠しつつ、表向きの光の術だけを磨き、優秀な公爵令嬢を演じ続ける道を選んだ。
そうすることで、いつかは復讐を果たせるかもしれないと。貴族という身分を逆手に取って、内側から腐敗を崩す手段を得られるかもしれないと考えたからだ。ソフィの無念を晴らすためにも、わたしはどうしても生き残らなくてはならなかった。
闇の精霊を受け容れたことで、わたしの魔力は飛躍的に増大し、光の術にも一層磨きがかかるようになった。それはまるで、二つの精霊が手を携えてわたしを支えてくれているかのようだった。
やがてわたしは、世界最高峰の学園「グラン・アカデミア」へ入学を果たした。
学園にも上辺の権力や容姿だけを取り繕う者ばかりが集まる──その現実に、私の心は次第に冷えていった。公爵家の娘という肩書きで周囲からもてはやされるのは慣れきっているものの、そこに私自身の本質を見てくれる人など皆無だった。
ある日の昼下がり、中庭のテラスで午後の紅茶を楽しんでいると、案の定、取り巻きの一人が近づいてきた。
「メリディア様、本日もお美しいですね。その淡く美しく輝く髪は、まるで陽光そのもののようです」
男はわざとらしく目を細め、甘い言葉を囁いてくる。男爵家の三男だとかで、特に秀でた才能もないくせに、家柄だけを鼻にかけている典型的な貴族の子弟だった。
「あら、ありがとうございます」
私はいつものように微笑み返す。内心では、また始まった、とため息をつきたくなるのを必死で堪えた。
「いえいえ、当然のことを申し上げたまでです。メリディア様のような才色兼備のお方とお話ができるとは、光栄の至りです」
男はさらに言葉を重ねてくる。その目は、私の顔ではなく、胸元や足元をちらちらと見ている。下品な視線に、吐き気がこみ上げてくるのをなんとか抑え込んだ。
「それで、何かご用件でも?」
私はできるだけ事務的な口調で尋ねる。早くこの場を終わらせたかった。
「いえ、特に用件というほどでは……ただ、メリディア様の美しいお姿を拝見したくて、ついお声をかけてしまったまでです」
男はにやにやと笑い、さらに距離を詰めてこようとする。その時、別の男が割って入ってきた。
「やあ、メリディア様。このような場所でお会いできるとは、奇遇ですね」
今度は伯爵家の嫡男だった。先ほどの男よりは多少マシだが、彼もまた、私を家柄や容姿でしか見ていないのは明らかだった。
「お二人とも、ごきげんよう」
私は軽く会釈する。彼らの間では、私を巡っての無言の牽制が始まっていた。どちらが私に取り入るかで、優位に立とうとしているのだ。
「メリディア様、よろしければ今度、私の屋敷で開かれる夜会にいらっしゃいませんか? きっとお気に召すと思いますよ」
伯爵家の嫡男が誘ってきた。
「あら、お誘いありがとうございます。でも、その日はあいにく予定がありまして……」
私は適当な理由をつけて断る。このような誘いは、これまで何度も受けてきた。そして、その度に、適当な理由をつけて断ってきた。
「そうですか、それは残念です。ですが、またの機会にぜひ」
男は残念そうに言うが、すぐに別の話題を振ってきた。それは、最近流行の演劇の話だったり、貴族の間での噂だったり、どうでもいい話ばかりだった。
私は彼らの話に適当に相槌を打ちながら、早くこの時間が過ぎ去ってほしいと願っていた。彼らの言葉は、私の耳を素通りしていく。私の心は、遠い場所に、ソフィと過ごした穏やかな日々に、飛んでいた。
「メリディア様の光属性は素晴らしい」「メリディア様は本当に美しい」などと取り入ろうとしてくる貴族どもの相手をしていると、形容しがたい倦怠感が募る。
けれど、その内心を漏らすわけにはいかない。私はいつものように柔らかな微笑みを作り、相手に合わせて頷く。
それだけで彼らは「さすがメリディア様、教養も立ち居振る舞いも完璧だ」と悦に入るのだ。表向きは穏やかな優等生に見えるらしいが、私自身にとっては息苦しい作業でしかない。いつしか、社交の場へ出るときは胃が重くなるようになった。
学園に入って最初の大規模試験。私は公爵令嬢として期待をかけられているし、何よりも“自分の力を試す”という点でも手を抜けなかった。闇属性は封じ込めているが、表向きに示す“光”の精霊術だけでも私は十分優秀と評価されるレベルに仕上げていたのだ。
結果として、私は一年生ながら全教科総合で最優秀の成績を取り、そして実技でも大きくポイントを稼いで首席となった。もちろんAクラスの中にも才能ある者は多く、中には高位貴族の子弟もいたが、彼らを抑えてトップを勝ち取った形だ。
周囲は「さすがヴァイスロート公爵家の令嬢!」「光属性の申し子!」と囃し立て、さらに私を褒めそやす。私はそれを苦笑交じりに受け止めながら、頭の片隅では闇の力を全開にしていたら、どれだけ圧倒的な差が出たのだろうなどと皮肉な思いが渦巻いていた。
そんな私に舞い込んだのは“倫理監査委員”への任命要請だった。学年トップの成績を収めた者から選出される例年の慣習で、実力と倫理観を兼ね備えた“理想の貴族”を育成する狙いもあるらしい。
正直、興味はなかった。貴族派に支配された組織のイメージが強く、「どうせ上辺の正義を振りかざす道具なのでは」とまで思ったからだ。
だが、私の立場上、断るわけにもいかなかった。公爵家の娘が名誉ある役職を辞退すれば、家の名に泥を塗りかねない。
こうして、不本意ながらも倫理監査委員会に名を連ねることになった。
ーーそして、彼女は”運命”に出会った。