17 集会前日
空は淡い曇り空を湛えながらも、何やら落ち着かない気配を孕んでいる。
アリシアは、Aクラス塔の渡り廊下から見える中庭の木々を眺めつつ、胸の奥に渦巻く不安をどうにか抑えようとしていた。
明日、B区画で開かれる貴族派の集会で、再び事件が起こるのではないかーー
そんな考えが頭を離れない。
最近の「模倣犯」――おそらく”ルーメン・テネブレ”と呼ばれる宗教団体による貴族派暗殺が頻発しており、貴族派があつまる大きな会合が狙われる可能性は否定できない。少し前にも学内の発表会で犠牲者が出たばかりだったのだ。
アリシアは昨日、アルドに会いに再びD5クラスを訪ねていた。
「一緒に貴族派の集会を見張り、次こそは犯罪を未然に防止しよう」と提案しようと思っていたのだが……。
「ごめん、明日は用事があって……D5クラスの集まりに顔を出さなきゃならない。抜けるわけにはいかないんだ」
アルドは軽い苦笑交じりでそう言ってきた。こちらがいくら説得しようとしても、彼は「約束があるからどうしても外せない」と頑なだった。
「そっか……分かったわ」
もちろん残念だけれど、彼にも都合がある。勝手に踏み込んで反発を買うのも得策ではない。
私は渋々引き下がったが、内心はモヤモヤが増すばかりだった。せっかく協力して犯人を追うはずなのに、こういう肝心な時に離れてしまうなんて……。
そんな思いを抱えたまま、前日の朝を迎えた。
(明日が貴族派の集会本番。もし“白銀の裁定者”なる模倣犯、または別の勢力が動くなら、このタイミングが最も怪しい。アルドがいない状態で大丈夫かしら……)
私はAクラスの廊下を歩きながら考え込んでいると、不意に「アリシア先輩」と声を掛けられた。
振り返ると、そこには新任で加わったばかりのメリディア・リィト・ヴァイスロートが立っている。浅い金色の長髪が印象的で、品のある佇まいで柔らかな笑顔を浮かべている。
メリディアの後ろに、ひとりの少女が控えていた。控えめな姿勢と地味な空気感があり、Aクラスの制服を着ているがどこかしら大人しそうな面差し。彼女は目立つことなくメリディアの斜め後ろに立ち、私と目が合うや小さく会釈をした。
「アリシア先輩、少しお時間をいただいてもいいかしら?」
メリディアがそう問いかける。その声はどこか上品で、距離を測るような響きがある。
「もちろん。何かご用件ですか?」
私が答えながら相手の反応を伺う。メリディアは軽く顎を引きながら、一歩近づいてきた。
「実は私、明日の貴族派集会でまた事件が起きないか懸念しておりまして……、倫理監査委員として対応すべきか悩んでいます」
やはり彼女も明日の集会に意識を向けているらしい。この娘は“正義”を標榜する立ち位置に見えるが、その内心は私にも測れない部分が多い。
「それはちょうど私も気にしていました。直近、不審死事件――主に貴族派が狙われた事件が立て続けに起きていますし、今回も何か起こるのではと……」
私がそう答えると、メリディアは神妙な面持ちで「ええ、そうですよね」と頷く。
すると、メリディアは後ろに立つ少女へちらりと目配せをする。少女は黙って一礼する。
「ご紹介が遅れましたね。こちら、わたしの補佐官を務めるケーナ・ルームといいます。ご挨拶を」
ケーナと呼ばれた少女は、小さく頭を下げて言った。
「ケーナ・ルームと申します。男爵家の出身ですが、Aクラスに在籍しており……メリディア様の監査業務をお手伝いしています。よろしくお願いします、アリシア様」
彼女は遠慮がちな笑みを浮かべる。肩よりやや短い黒寄りの茶髪に、朴訥とした気配……上位貴族のメリディアに寄り添う姿は、違和感といえば違和感だが、補佐官という立場なら納得もいく。
「ええ、よろしく。ケーナさん。……それでメリディアさん、集会の件で私に何か?」
私が促すと、メリディアはわざと声を落として続けた。
「実は、明日の集会で動くかもしれない事件は、B区画“だけ”に限りません。私のところへ入ってきた情報では、C区画やD区画で“貴族に不満を持つ集団”が決起しようとしているという噂があるんです。もしそれが本当なら、そちらがさらに危険かもしれません」
「C区画やD区画……?確かに下層クラスには貴族に恨みを抱く者も少なくないと思いますが、具体的にどこかで集合するとかいう情報が?」
メリディアは曖昧に口を結ぶ。
「裏付けがまだ弱いのですが、どうやらCとDそれぞれの区画で有志が集まるそうです。……これがただ集まるだけですめばいいのですが、万が一、大規模な暴動につながれば大惨事でしょう」
大規模な暴動という言葉に思わず私も息をのむ。たとえば謎の武装組織や魔道具闇取引に関わる反貴族派が入り込めば、殺人沙汰どころでは済まない可能性がある。
「こちらがB区画の集会を警戒しているうちに、裏でCやDの勢力が動く……ということも考えられますね。倫理監査委員としては、あえてB区画以外を注視する必要があるかもしれない、ということですか……」
アリシアが自分で整理しながら口にすると、メリディアは真面目な表情で首肯した。
「ええ。既にB区画側は強い警備が入っているそうです。私たち監査委員の仕事は本来、警護ではなく校内の不正調査・監視が主。その意味でも、B区画は本来の護衛に任せて私たちはC、D区画の方を重点的に見回るべきじゃないかと」
確かにB区画は学院側の警備員や貴族派の用意した護衛が多く、警戒も万全だろう。逆にCやDの“決起”という情報など初耳だ。それが本当であれば学院側の警備はかなり手薄な状態になっていることだろう。
「確かにそうね……。でも、CやDで大規模な反乱なんて、私には想像しにくいんだけど」
アリシアはD区画の現状をそれなりに把握している。確かに貴族への不満は多いものの、そう簡単に一致団結して行動なんて起こせないのが実状だ。実力差も大きい。
メリディアは唇を引き結び、深い溜息を落とす。
「わたしもそう思いたいのですが、一部の宗教団体が動いているとの噂もありまして……いや、これは私の独自調査で、情報の確度もそこまで高くはありませんが」
アリシアはぎくりとする。まさかメリディアの元にも宗教団体の情報が入っていたとは。模倣犯の存在については外部にはあまり知られたくないが、監査委員の情報網を侮れないらしい。それに、ルーメン・テネブレが集会を行うということであればそこから多勢でB区画へ向かう可能性も無くはない。
「宗教団体ですか……分かりました。私はC区画を調査、警戒すればいいのですね?」
「ええ。私としてはそうしていただけると助かります。実際、B区画の集会は明日こそ厳重な警備によって守られるでしょうし、事件が起きる余地も少ないかも。もちろん“ゼロ”ではないですが……」
そう言いながら、メリディアは微笑を浮かべ、ケーナが控えのように静かに佇んでいるのをちらりと振り返る。
「ケーナ、あなたは私と共にD区画を巡回して様子を見ましょうか」
ケーナは「はい、かしこまりました」と小さく答える。その声はやや緊張しているようにも聞こえた。
(どうしてこの日に、わざわざルーメン・テネブレはC区画やD区画で集会を……?)
胸騒ぎを感じながらも、アリシアは貴族派の集会に関する噂や、模倣犯の動きなどを考えてみる。確かにB区画だけが怪しいとは限らない。けれど私の直感では、やはりB区画のほうが危険度は高いと思う。
しかし、メリディアが提示してくる“宗教団体の集団決起”の話は無視できず、もし本当にそこが狙われたら、私だけでなく監査委員会にも大きな責任がのしかかる。
「分かりました。では私はC区画のほうを当たってみます。……ただ、明日の貴族派集会が終わる時間帯にはそっちも一応見回りたいんですけど、それで大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん構いません。もしそちらの件が思いのほか早く終われば、一緒にB区画へ合流いたしましょう。私も一応の時間を合わせておきますよ。でもお気をつけて……C区画で何が起こるかわかりませんからね」
メリディアの言葉には淡々とした説得力がある。真っ当な倫理監査委員の論調そのものだし、私はその冷静さを多少なりとも信用するしかない。
今の私には、アルドに同伴してもらう余地がない。アリシア自身が独力でC区画を調べなければならない状況に追い込まれた形だ。
(どうしてこんなタイミングなんだろう……。アルドに相談してみたいけれど、彼は外せない用事があるようだったし……)
そんな疑問を抱きながら、アリシアは小さく息をついた。
「分かりました、ではC区域はメリディアさんに任せます。何か異変があったら連絡を入れます」
メリディアは満足そうに微笑んで、「お互い頑張りましょう」と返す。
それだけ言い残して、彼女はケーナを連れて廊下の奥へと消えていった。取り残された私は、やや不安定な気持ちでその背中を見送る。
こうしてアリシアは、複雑な思いを抱えたまま、明日の貴族派集会を“正面から警戒する”ことを諦めざるを得なくなったが、本当にルーメン・テネブレの集会が行われるのであれば模倣殺人を行う宗教団体の実態を掴むチャンスでもある……。
(B区画からD区画まで警戒が必要な動きがあるなんて……)
窓外の雲の切れ間から、一瞬だけ陽光が射してくる。学園の石畳が淡く光り、遠くの校舎にいる生徒たちの笑い声が微かに届く。その光景は一見穏やかで、まさか明日が嵐のような一日になるだなんて想像もさせない。
(そういえばアルドは大丈夫かしら?D5クラスの集まりがあるとか言っていたけど……メリディアさんの言っていた”集会”とは関係ないわよね……?)
メリディアの言葉をどこまで信じていいのかも疑問だ。でも、理由の真偽を確かめる術がない以上、私は監査委員として学園の安全を確保するためにやるべきことをやるしかない。
(とにかく、今はメリディアが言う“C区画の不満勢力”を調べるしかない。……もしかしたら、そこからルーメン・テネブレや新たな動きを掴めるかもしれないし)
わずかな期待を自分に言い聞かせながら、アリシアは教室へ戻るため階段を下りる。昨日までは、アルドと一緒にB区画へ行き、模倣犯を捕まえるつもりでいたのだけれど。物事はそうそう思い通りに運ばないのだと、改めて痛感する日となった。