16 メリディアの視察
Bクラスの有力貴族だったラフエルらの死が学内で広まってから、1週間ほどが経過していた。その一件は公式には「容疑者不明・動機不明」で処理され、Bクラス領域は騒然とした空気に包まれる。あちこちで「白銀の裁定者」の噂がささやかれ、平穏だったはずの学院は再び落ち着きを失いつつある。とはいえ、教師陣は根拠の乏しい噂だとして注意を促すだけで、決定的な手がかりもないまま時間が過ぎていた。
そんなある日の朝、Dクラスの教室にふと緊張感が走る。「公爵家のご令嬢が来るらしい」という噂が先に伝わり、皆がそわそわしている。
ドア付近に人だかりができる中、アルドは1週間後に行われるはずのマリア・シュト・シグラー襲撃作戦に介入するためヴァールノートへBルート確保の依頼を出したり、魔道具のメンテナンスをしたりと準備を行っていた。
アリシアとの捜査協力も継続中だが、今は進展がない。
「ねえ、リーシェ」
不意に声をかけたのは、隣席のイルマだ。彼女が首を伸ばし、扉を気にしながら言う。
「なんか、すごい人が来てるっぽいよ。貴族だけど、私たちに親身に話を聞いてくれる、って噂の……」
「……貴族に期待しすぎないほうがいいんじゃない?」
気のない返事を返すと、イルマはむくれた顔をする。ツェリとベルティアも心配そうにチラチラとこちらを伺っていたが、誰もが今は新たに来る“監査委員”の正体に興味津々らしい。
すると、D5クラスの扉が開き、風通しの悪い室内に一瞬明るい光が差し込んだ。そこには淡い金色の長髪をすっとなびかせる美しい少女が立っている。
まるでAクラスの特権を体現するような、その高貴な佇まい……だが表情はどこか落ち着いていて、妙に険がない。
「失礼します。私はメリディア・リィト・ヴァイスロートと申します。倫理監査委員の仕事で、視察に参りました」
Dクラスの生徒らは一瞬たじろぐ。公爵家の娘、しかも名門Aクラス——アリシアの件で少しは慣れているものの、そんな人物がわざわざDクラス領域に来るなど本来はありえないことだからだ。
室内に入ると、メリディアはDクラスの設備の悪さに驚いたのか、小さく息をつき、「想像以上に酷いですね……」と低く呟く。
薄暗い教室、埃っぽい空気、剥がれかけた扉板、ひび割れた床——どれを見てもAクラスの恵まれた環境とは程遠い。彼女はそれらを丹念にメモに書き取りつつ、まっすぐ前を向いて進んでいく。
「監査委員さんですよね? 何でも私たちの話を聞いてくれるとか。 私たち、ずっと前から設備が古くて困ってて……最近は照明すらまともに変えてもらえなくて……」
横からツェリが「い、イルマ、そんな失礼な……」と焦るが、ベルティアも「でも、せっかくだし、今こそ伝えなくちゃ!」と続く。
メリディアは少し目を瞬かせてから、穏やかに微笑む。
「失礼なんてことはありません。どんなご意見でも聞かせてください。監査委員として、Dクラスの現状を正確に知りたいんです」
彼女の丁寧な口調に、イルマたちは拍子抜けした様子。ツェリが消え入りそうな声で「こ、こういうのを上に報告してもらえるんでしょうか……?」と問うと、メリディアは深く頷く。
「ええ、もちろん。Dクラスにも正当な権利があるはずですし、改善提案が通るように頑張ってみます。危険な箇所や不備があれば、具体的に挙げていただくほうが助かりますね」
そして、彼女はさっと光属性の術を手のひらに宿して、薄暗い天井を照らした。ほんのりとした光が室内を包み込む。
「明るい方が、見やすいですよね。照明の補充は数日お待ち下さいね」と柔らかい声で笑う。
その光景を見て、Dの生徒たちは一様に「おお……!」と感嘆した。Aクラスの術者ならではの洗練された制御と気遣いだ。
教室の奥に立ったまま様子を見ていた“リーシェ”は、そんなメリディアの振る舞いに軽い驚きを覚える。貴族派の名門公爵家ともなれば、Dクラスを見下すのが普通だろうに——この少女はまるで当たり前のように対応している。
やがて、メリディアがふとリーシェへ視線を向け、「先日のBクラス発表会以来ですね……リーシェさん」と優雅に微笑んだ。
「はい。メリディア様。本日はどのようなご要件で……?」
「ええ、監査委員として来ました。様づけは不要です、どうか気楽に。ラフエル・ド・ヘルネの襲撃事件以来、学院は不穏な噂が立っていますし……。下層クラスの方々がいったい何を感じているのか、実情を知っておきたいと思いまして」
そう言うメリディアの表情には誠実さが宿り、アルドは一瞬言葉を失う。貴族派の一角かと思いきや、言動はアリシアのように“本当に学生全体の環境を良くしようとしている”印象を受ける。
「監査委員の仕事で、こうして各クラスを見て回ることが大事だと思って……実際に目にすると、Dクラスの問題は深刻ですね。備品も劣悪だし、照明一つ取っても古いまま……」
彼女の手元にあるメモが目に留まる。そこには公爵家の令嬢らしい上品な字で「扉の蝶番補修要」「防具棚の損傷対応」などDクラスの問題点が細かく列挙してある。
「でも学院は意図して格差を作っているという話もありますし……改善は難しいのではないでしょうか」
「いえ、だからこそ伝える意味があるんです。もし授業に支障があるなら、遠慮なくおっしゃってくださいね」とまっすぐな瞳で答える。
アルドは、これが単なるリップサービスかどうか測りかねていたが、どうやら嘘ではなさそうだ。
「そういえば先日のラフエル襲撃以来、学内では”白銀の裁定者”という存在が取り沙汰されていますよね。Dクラスでは、どのように受け止められているのでしょう……?」
内心でアルドは警戒を強める。やはり、そこを聞きたいのかと思いつつ、外面は平然を装う。
「うーん……Dのみんなも色々な意見があります。支持する声もあれば、怖がる声もある。貴族派を憎んでる生徒もいるけれど、殺人まで支持する人ばかりではない……そんな感じでしょうか」
「そう……。殺人は容認できないという点では、私も同意見です。けれど、そういう行動に至る背景を無視できないのも事実。あなたはどう思いますか、リーシェさん?」
アルドは一瞬だけ言葉を飲み込む。メリディアの澄んだ瞳が探るように揺らぎ、静かな問いかけが空気を張り詰めさせる。
「……そうですね。“裁定者”が殺人を起こすことは問題だと思います。でも、根っからの悪意だけが理由じゃないかもしれない、とは思います。貴族派に踏みにじられた者たちがたくさんいる以上……」
「ええ、そこが難しいところですね。被害者が貴族派か否かに関わらず、命を奪えば罪となる。でも、その殺人の背景に何があるのかを追求しないと、また同じ悲劇が繰り返されてしまう。あなたもそう思いませんか?」
「……そうですね。そう思います」
歯切れが悪い答え。しかし、メリディアはそれで十分だったのか、小さく頷き「ありがとうございます」と微笑む。
メリディアは教室へと視線を戻し、ごく自然な挙動でアルドと肩が触れ合うくらいまで近くに足を運んだ。先ほどまで穏やかな笑みを湛えていた彼女の表情に、わずかに陰りが差し込んだようにも見える。淡い金色の髪が肩先にさらりと落ち、そのままの仕草で、彼女は”リーシェ”に問いかける。
「リーシェさん、あなたは貴族派を恨んではいないのですか?」
少し急な切り出し方に、アルドは緊張を高めた。イルマとツェリ、さらにはベルティアも耳を澄ませているようだが、メリディアはリーシェだけに聞こえるよう耳打ちしてきている。
アルドは少し口ごもりつつも、なんとか表情を崩さずに切り返そうとする。だが、メリディアの問いはあまりにストレートで、その意図を図りかねる。
「……恨む、ですか。私は、その……」
口に出かかった言葉が見つからず、ちょうど息が詰まってしまう。もともとアルドとしては、貴族派を憎んでいるのは事実だ。しかし“リーシェ”の立場でどう答えるべきか思考が追いつかない。そんな戸惑いを見透かしたように、メリディアが小声で続ける。
「実は、私は監査委員としていろいろと記録を閲覧しました。そして、あなたの“事故”……いえ、試験中に起きたあの惨劇についても多少の資料を見たんです」
その言葉に、リーシェは思わず身を強張らせる。メリディアは続けざまに静かに、しかし核心を突くように話を進めた。
「先日のアリシア先輩の“魔力暴走”の件と、あなたが1年生のころに経験した“事故”――これらは酷似していると私は考えています。どちらも学園の公式見解では“制御不良による暴走”だとされ、証拠不十分で立件されないまま終わっている。ですが……本当にただのアクシデントだったのでしょうか」
メリディアが周囲に聞かれないように、わずかに声を落とす。イルマたちも何か感じ取って、口を挟まないまま、聴き耳を立てているようだ。リーシェは喉が渇くような感覚を覚えながら、ぎこちなく笑みを作った。
「……さあ、どうでしょう。私にも何とも言えなくて。証拠なんて、どこにもありませんし」
メリディアはその返事を聞き、フードのようなケープの端を軽く握りしめる。表情こそ優しげだが、その瞳の奥に研ぎ澄まされた意志が宿っているように見える。
「事故にしては不可解な点が多すぎますし、最近の“白銀の裁定者”による被害者のそばにも、謎の装置だとか、魔力歪曲の痕跡だとか、いろいろ不審な点があるのです。もしかすると、あの時の“あなたの事故”も同じように仕掛けられた可能性があるのではないか、と私は思っているんです」
(やっぱり、いろいろ調べているのか……)
リーシェは内心焦りを覚えつつ、冷静を装ったまま言葉をつむぐ。
「えっと、確かに、噂は飛び交っていますね。けど、公式には何も確認されていないんです。あの日も、安定装置が何らかの不具合を起こしてしまった、という説明を受けましたし……私が騒いでも“証拠不十分”という形で終わってしまうのは目に見えてますから」
最後のほうは、ほとんど自嘲にも近い声音になっていたが、メリディアは気を悪くする様子もなく、むしろリーシェの本音が少し漏れたと感じ取ったように小さく頷く。そして、柔らかな微笑を浮かべる。
「大丈夫ですよ。もし何かあれば、ぜひ私に相談してほしいんです。……私は、こう見えても“腐敗”というものを見過ごすつもりはありませんから」
メリディアはそう言うと、窓の外に目をやった。薄暗い教室に差し込む僅かな光が、彼女の横顔を照らしている。その表情は穏やかだが、瞳の奥には深い悲しみのようなものが宿っているようにも見えた。
「かつて、私も大切なものを腐敗によって奪われたから……」
彼女は小さく呟いた。その声はほとんど聞き取れないほど小さく、独り言のようだった。すぐにいつもの柔らかな微笑を浮かべ、アルドに向き直る。
「ですから、もし何かお困りのことがあれば、遠慮なく私に話してくださいね」
「ええ……ありがとうございます」
アルドの内心では、激しい動揺が渦巻いていた。彼女の申し出は本気なのか、それとも何かを探るための罠なのか。アリシアのように信頼していいのか、まだ判断がつかない。ただ、こちらの返答に頷くメリディアの笑顔には、確かな優しさがにじむように感じられる――上辺だけの言葉には見えない、という印象だ。
周囲ではイルマやツェリ、ベルティアが息を呑むように画面を見守っている。“リーシェ”が何を話しているのか気になるのだろう。しかしアルドはそれ以上の深いことを語れないまま、ただ曖昧に微笑を返すだけだった。
そんなアルドの態度にも、メリディアは気を悪くすること無く「……分かりました。詳しいことはまたの機会にしましょう」と小声で締めくくる。
最後にスカートの裾を整え、メリディアは「では、失礼しますね」と礼儀正しく一礼し、教室を出る。Dクラス棟の古びた扉が軋んで閉まり、ほとんど足音を立てずに廊下へと消えていく。
その背中を見送る間、アルドはまるで心臓を鷲掴みされたような感覚に陥っていた。メリディアの言動や雰囲気が、本当に“貴族派を嫌う正義の人”なのか、それとも何か別の思惑を抱いているのか判然としない。
一つだけ確かなのは、彼女が“白銀の裁定者”の真相に強く興味を抱いているということ……。
(危険な相手かもしれない。でも、アリシアのように腐敗を憎む清廉な人間でもあるのかもしれない……)
ふと、教室の中に静寂が戻る。
「すごいわね、メリディア様。ヴァイスロート公爵家だっていうから、てっきり高圧的な態度かと思ったけど……」
イルマが呆れたように息を吐きながらつぶやく。
「ええ、まるでアリシア様みたいだった」
ツェリも同意して微笑む。
「なんだか幻想的だったね。光の術、あんなに優しく照らせるんだ。同じ光属性持ちとして力の差を見せつけられちゃったな〜」
ベルティアはメリディアの精霊術に感心をもったようだ。
しかしアルドだけは、彼女らの和やかな会話に参加する気分になれず、静かに椅子へ腰を下ろす。先ほどの“メリディア”の言葉を頭の中で反芻しながら、深く息をついた。
(俺の“事故”、そして先日のアリシアの事故――彼女が調べあげているようだ。安易に情報を与えれば、こちらの正体を嗅ぎつけられる危険性もある。……一体、どこまで探ってくるつもりなんだろう?)
その疑問だけが、胸に重く沈んで離れない。アリシアは“捕まえる気はない”と示してくれたが、メリディアが同じ方向とは限らない。
メリディアからは妹リーシェを陥れた貴族派に共通する冷酷さは感じられない。一方で、アリシアと似た“正義感”とも少し違う空気がある。
優しい言葉や理想論だけでは片付かないのが、この学園の闇だ。それでも彼女は本気で改善を目指すつもりなのかもしれない——