06 あの日の記憶
薄暗い空間で、アルドはまどろみの中を漂っていた。
遠くから聞こえる微かな音、揺れる光の残滓。
これは現実ではなく、夢の中だと意識できず、ふと懐かしい香りが鼻先をかすめる。
肉を焼く香ばしい匂い。
パリッとしたパンの香り、ハーブ入りのスープのかぐわしさ。
自宅の簡素なキッチンで準備したごちそうが、机いっぱいに並んでいる映像が揺らめく。
そこは事件前のある日。
双子の妹であるリーシェが年次最終試験を終えて、久しぶりに寮から帰ってくると聞いて、アルドは特別な料理を用意していた。
「今年は1年生で大活躍したって手紙に書いてあったな。さすがリーシェだな……」
独り言を呟きながら、アルドは小さなナイフでパンを均等に切り分けている。
家はそれほど広くないが、妹が帰ってくる日は特別だ。
テーブルクロスを敷き、手の届く範囲で最高の食材を揃えた。
親はいない。生活は決して楽ではなかったが、妹が学園で成功していることが何よりの誇りだった。
あれからもう1年経つのか、としみじみ思う。
妹が寮生活を始めてからは寂しかったが「期末試験が終わったら帰るね」と笑った顔を思い出す。
今日、その約束が果たされる。
「スープはもう少し煮込もうか……」
木のスプーンで味見する。
「うん、悪くない」
アルドは小皿を並べながら、やや緊張している自分に気づく。
久しぶりに再会する妹が、どんな話を聞かせてくれるのか楽しみだ。
Aクラスでの生活、美しい魔法陣を描く精霊術、成績上位を誇る彼女が、どんな冒険談を持ち帰るのか胸が弾む。
窓の外は晴れ、光が差し込む。
やがて日が傾き始めて、彼女が帰ってくる時間が近いはずだ。
アルドは手を拭いて、玄関付近で控えめに待つ。
時折、テーブルを振り返っては「もっと彩りが欲しいか?」と小さなトマトを飾ろうとするが、もう十分だろう。
だが、なかなか扉は開かない。
予定時刻を少し過ぎても、足音が聞こえない。
気になって外へ出ると、外の通りは静かで、遠くで小鳥が囀るだけ。
学園から家までは少し距離があるが、いつもならもっと早く帰ってきても不思議じゃない。
「試験が長引いてるのか?」
そう思って待つが、段々と胸に不安が募る。
あの子は有言実行タイプだ。約束した時間に大きく遅れることは滅多にない。
日が沈む頃、アルドは不安を覚え始めた。
スープが冷め、パンが少し固くなってきた。
肉は冷めても美味しく食べられるが、せっかくの温かい料理を最高の状態で食べさせてやりたかったなと悲しい気持ちになる。
火を再度入れるか迷う。
その時、窓から見た外の景色が揺らめく。
夢の中の記憶が、時間を少し飛ばしたようだ。
次に意識が定まると、アルドは自宅で落ち着かない様子で床を行ったり来たりしている。
辺りは薄暗い。
妹はまだ戻らない。
これはおかしい……心臓が速まる。
扉を開けて外へ出て探しに行こうと、手を伸ばしたその矢先、外から短くベルの音が鳴った。
チリン、と軽い響きが静かな夕暮れに溶ける。
(やっと帰ってきた!)
一瞬で表情が明るくなる。
アルドは焦るように扉を開き放ち、玄関前へ駆け寄る。
妹が試験を終えて戻ってきたに違いないと、胸が弾む。
だが、そこに立っていたのは見覚えのない男だった。
地味なローブを纏い、胸元に小さな学園の紋章を付けている。
その男は暗い面持ちで小声で告げる。
「すみません、学園からの使いで……リーシェ・ヴァルディスさんが試験中に魔力暴走を起こし、意識不明の状態です。すぐにお知らせをと思い……」
言葉は刃のようにアルドの胸を貫く。
思わず身を硬直させ、信じられない衝撃が血を逆流させるようだった。
「嘘だ」
声が震える。
あれほど才能溢れた妹が、試験で倒れるなど考えられない。
だが、男の申し訳なさそうな表情が真実を告げているようで、アルドは頭が真っ白になる。
「暴走……? じゃあ、今は?」
男は視線を逸らし、
「意識を取り戻す可能性は非常に低いと思われます……」
と、消え入りそうな声で言う。
幸せな再会のはずだったのに、今宵は絶望が覆いかぶさる。
用意したご馳走がテーブルに並ぶまま、冷えていく。
アルドは乱れた呼吸を整えようとしてもできず、拳を固く握りしめる。
この時、夢の中では光景がぼやけ、場面が飛ぶ。
次に見えるのは、家の中で倒れ込んだように座り込むアルドの後ろ姿。
待っていたはずの笑顔が消え、代わりに伝え聞く絶望的な報せ。
「妹が……意識不明……」その言葉だけが頭の中で反響する。
誰にも相談できない。
力がないから、学園上層部に直訴する権利もない。
せっかく準備したご馳走はテーブルで寂しく冷え、香りが虚しく部屋中に残る。
妹の笑顔を思い出そうとするが、今は悲痛な表情しか浮かばない。
あの時、リーシェが「試験終わったら絶対帰るね!」と明るく言った声が耳に蘇る。
その約束が破られたわけではない。彼女は戻りたくても戻れない状態なのだ。
アルドは沈黙の中で嗚咽を堪える。
夢の映像は滲むように薄れるが、その絶望的な感情だけは鮮烈だ。
もはや目覚めたいと願っても、この記憶は夢として追い続ける。
幻影の中、時が止まったかのように冷めた料理が並ぶ食卓と、ひとり膝を折ったアルドの姿が残る。
これが、妹が意識不明になった日の記憶――再び夢で焼き付けられた惨劇の一幕。
最後に、アルドが呟いた声が、夢の底で微かに聞こえる。
「……リーシェ……ゔぐぁ……リーシェ……ッ!!」
「…………リーシェ……」