03 偽りの微笑みと、嘘じゃない優しさのあいだで
アリシアはアルドに会うためにDクラスを訪れていた。
Dの古い廊下を堂々と歩く華やかで美しい容姿のアリシアはひどく目立つ。周囲の生徒は何事かと視線を向けてくる。小さなざわめきを背にしながら、アリシアは“リーシェ”が在籍する教室を思い出す。試験が終わり、新学年行事までの空白期間とはいえ、Dクラスの生徒はすでに登校しているかもしれない。
心臓が不穏に跳ねる。彼……アルドは、どんな顔で私を迎えてくれるのだろう。
試験以来、話していない。彼は私が秘密を知っていることを理解っているのだろうか?そして、私自身は彼に何を言えばいいのだろうか。怒り?感謝?それとも協力を申し出る?自分の胸の中で答えが定まらないまま、息が詰まりそうになる。
――それでも、歩みを止めるつもりはない。このままじゃ、一生後悔する。アルドともう一度向き合って、答えを探したい。
薄暗い廊下の奥にはD5クラスの教室が見える。扉を開く前、ノックの手が震えるのを感じ、アリシアは一度深呼吸をした。
(大丈夫、私は監査委員——ここに来る口実はある。彼に会いに来たのだって、理由がある。まずは、彼と話すだけ。何か手がかりを見つければ……)
ノックをして扉を開くと、思った以上に教室は静かだった。まだ時間が早いのか、生徒はまばらで、数人が机に突っ伏している。たまたま目が合った気の弱そうな少女が「あ、アリシア様……?」と驚きの声を漏らし、元気そうな少女も「え、なんでAクラスの人が?」と顔を見合わせる。
そして、教室の奥、窓際で突っ伏していた“リーシェ”が、ゆっくり頭を上げる。私の心臓が跳ねる。あの姿は妹の名を借りた“アルド”に相違ない。
廊下の光を浴びながら、彼がどんな表情をするのか、恐る恐る確かめる。彼は見慣れぬ訪問者が自分だと理解すると、かすかに目を見開き、何か言おうとするように唇を動かすが声は出ないようだった。
アリシアは息を呑む。
(ど、どうしよう、どんな言葉から切り出せば……)
周囲が微妙な空気になる中、教室の誰もがアリシアを注視していた。
リーシェの近くにいた気の弱そうな少女ーーツェリが「え、あ、その……リーシェ、アリシア様とお話が?」と気を利かせて声をかける。
アルドは困惑しつつも、小さく「うん……」と答え、席を立ち上がる。
互いに言葉なく視線を交わすだけ。心臓が高鳴り、苦しくなる。そうだ、私は決意したのだ。もしかしたら、アルドを追わず協力する形になるかもしれないし、反対に阻止する形になるかもしれない——でも何も言わずに離れるのは嫌だ。
そう思い、私は勇気を振り絞り、彼の名を呼ぶ。
「あ……えっと……リーシェ……あなたに話があるの。大丈夫かしら?」
アルドの瞳が揺れ、周囲の視線を感じつつ無言で頷く。
空き教室の扉を開けると、ほこりが混じった微かな空気が鼻をくすぐった。廊下の物音が遠ざかり、薄暗い教室の中には、古い机と椅子が無造作に置かれている。ここは普段ほとんど使われないため、人の気配はない。やや閉塞感を覚えるほどの静寂の中、アリシアは振り返ることなく足を踏み入れた。
後ろをついてきた“リーシェ”も、黙ってドアを閉める。視線を合わせてはいないが、そこにある空気感だけははっきり感じた。バタリと扉が閉まると、いっそう薄暗さが際立ち、窓際から漏れた光が埃を照らしている。とても会話しやすいとは言い難いが、人目を避けるにはちょうどいい場所だ。
「……ここなら、誰にも聞かれずに済むでしょう」
教室中央に立ち止まり、アリシアが小声でつぶやく。そうでもしなければ、どうにも息苦しく感じたからだ。そうして一拍の間を置いてから、意を決して彼女は“アルド”のほうを振り向く。
けれど、相手はいつもの“リーシェ”らしく柔らかく微笑んでいて、その調子でこちらを見返している。アリシアにはどうしても、その笑顔の奥に複雑な気配が隠れているように思えた。
だが、彼の真意までは読み切れない。自分が知る限り、“リーシェ”は──本当は“アルド”だ──妹を救うため復讐の道を歩んだ人物であり、今もなお何かを抱えている。けれど、それを表に見せようとしない。
「……あの、わざわざ呼び出してごめんなさい」
言いながら、アリシアは曖昧な距離を維持したまま立つ。近づきすぎると心臓がうるさくて、言葉が出なくなる気がしたからだ。しかし、ここに来たからには意を決して話さなくては。
「ううん、気にしないで。また会えて嬉しいよアリシア」
“リーシェ”の声音は穏やか。普段のDクラスの空気と変わらぬ柔らかさに感じられる。アリシアはその声に微かな安堵を覚えながらも、胸の奥が切なくなる。
(本当はあなたはアルドなんでしょう? 私がそう確信したこと、分かっているのかしら?)
脳裏に幾つもの問いが浮かぶが、それを率直にぶつけるにはまだ心の準備が足りない。彼──いや、この見た目は“彼女”だけれど──がどういう姿勢で向き合ってくるか測りかねている。
「ええと……試験の時のこと、覚えてる? 私がその……魔力暴走を起こしかけたときに、あなたが……」
そこまで言いかけ、アリシアは声を詰まらせた。記憶の中に蘇るのは、あの嵐のような魔力に呑まれそうな自分を、体を張って支えてくれた“抱擁”の感触。思い出すと胸がざわめいて仕方ない。
彼女はゆっくり首をかしげ、「あぁ……うん、あのときは、本当に危なかったね。後遺症とか出てない?」と問いかけてくる。その心配する言葉はまるで昔からの親友が何も知らずに気遣っているかのようだ。
(本当は全部知ってるのに……)
アリシアの心は複雑に揺れた。もし彼の正体を知らなければ、純粋に嬉しいと受け止めただろう。でも今は違う。少し寂しさがこみ上げてくるのだ。彼女が“本心”を隠して嘘をついているように思えて。だが、そう感じた理由を口に出すわけにもいかず、アリシアは小さく笑ってみせる。
「ええ、私は……あれからは特に不調もなくて。だから大丈夫。本当に、助けてくれてありがとう」
本音を言えば“どうしてあそこまでして私を救ってくれたのか”を問いたい。けれど彼女は“リーシェ”としての自然な微笑みを崩さないまま「そっか、よかった」としか言わない。
胸がきゅっと締まった。自分が彼の正体を知っていることを話したほうが良いのだろうか?……とはいえ、それを伝えてしまうと彼をさらに苦しませるかもしれない。言葉が渦を巻き、どれを先に出せばいいのか分からないまま、喉が痛む。
――こんなにも一人の相手と話すだけで息苦しくなるのは、初めてかもしれない。
静かな空間に気まずい沈黙が訪れる。窓から差し込む光が埃を照らし、ふわふわと舞う様子だけが目に入った。
(伝えなければ……もっときちんと)
そう思い、アリシアは思い切って話を切り出す。
「……あの、実は……あなたのこと、助けたいと思ってるの」
一瞬、わずかな動揺が“リーシェ”の表情に浮かんだように見えた。驚きが混じった顔。アリシアは心臓が高鳴るのを感じながら続ける。
「私、あなたが……何か大きな悩みを抱えている気がして……何も言わずに隠しているなら、私が力になることもできるかもしれない。たとえば……科学施設を使うとか、あとは禁書庫の情報が必要だったりとか……」
口に出してしまえば、隠しきれない“知っている”感がにじみ出る。それでも、言わずにはいられなかった。
妹を救うために学院の上層部にアクセスしたい――そんな彼の願いを少しでも叶えたい。その思いが今のアリシアを強く突き動かしていた。
しかし“リーシェ”は静かに眉尻を下げるだけで、肯定も否定もしない。やがて、微苦笑を浮かべる。
「アリシア……ありがとう。そんなふうに言ってくれて嬉しいよ。でも、私は……大丈夫だから。もう試験も終わったし、何も困ることはないよ」
まるで“何も問題はない”という態度。けれど彼女《彼》の瞳の奥にある戸惑いの色に、アリシアは鋭く胸が痛んだ。言葉で「大丈夫」と言われても、その裏側には何かしらの思いがあるのでは……と感じ取れてしまうのだ。もしかして彼も“こちらが真実を知っている”と分かっていて、それを否定したいのかもしれない。
たまらなくもどかしくなり、アリシアはさらに一歩踏み込もうとした。
「あの……リーシェ、いや、アル……」
名を呼びかけた矢先、相手が静かに言葉をかぶせる。「アリシア……」
その低く掠れた響きは、一瞬だけ“男の声”にも聞こえた。アリシアの鼓動が跳ね上がる。だが次の瞬間には、また“リーシェ”の優しい声色に戻っていた。
「……私、アリシアに危ないことはしてほしくないんだ。この間だって、あなたは大変な目に遭ったでしょう? だから、もう無茶はしないで」
そのままの微笑みに、アリシアは言葉を失う。拒絶ではない、しかし“踏み込まないで”という暗黙の警告のようにも聞こえた。
(本当は私だって、あなたが危険な道に踏み込むほうを止めたいのに……)
そう思っても、言葉にはできない。私を案じる言葉が嘘じゃないのはわかるのに、その向こうにある“本音”を知りたいという思いは届かない。アリシアは唇を震わせながら、何も返せずにいる。
やがて彼女《彼》は静かに立ち上がり、「ごめんね、あまり長居してると目立つし……」と呟く。
(……行かないで)
そう叫びたかったが、喉が動かない。アリシアはただ胸を締めつける感覚に堪える。すると彼女はドアの前で振り返った。
「アリシア、危険なこと……本当にやめてね。リーシェ《私》は……親友の君に無事でいて欲しいと思っているから」
その言葉だけを残して、彼女は足音も立てずに出ていく。
ドアが静かに閉まる音が室内にこだまし、アリシアは煮え切らない思いのまま一人取り残された。机に手をつき、息を吐きだす。心臓がうるさいほど鳴っているのを感じつつ、頭は混沌としていた。
(私、何も言えなかった……。アルドが正体を隠し続けるなら、私も腹を割って話すわけにはいかないのかもしれない。でも、彼は本当に心配してくれている……)
少し胸が甘く疼いて、顔が熱くなる。彼が私を大切に想う言葉に、思わず嬉しく感じてしまった自分がいるのが切ない。それでも、本当に私を遠ざけようとしているのなら悲しいけれど、そこにうかがえる”優しさ”に胸が締め付けられる。
あの夜、死にかけた私を抱きしめてくれた腕の温もりが、今も忘れられない。あれほど恐ろしい闇を抱える復讐者が、どうして私にそれほどの心配をしてくれるのか……疑問と嬉しさが混じり、ますます頭が混乱する。
「アルド……あなたは、私が知ってるって気づいてるわよね……? なんで気づいていないフリを?」
誰にも届かない問いかけを、声に出してつぶやく。自分でも答えは出せない。彼の真意を確かめるには、もっと踏み込んで話をするしかない。けれど、彼はきっと「危険だから関わるな」と拒むだろう。その優しさが、私をまた苦しませるかもしれない。
――別れ際の「危険なことはしないでね」という言葉が耳に焼きつく。背中を押し退けるようで、けれど本音では私を守りたいと感じているようにも聞こえた。そう思うと、どうしようもなく切なかった。
「私……あの時、本当にあなたに助けられて……。だから、今度はわたしがあなたを助けたいの。リーシェを救うということでも……あなた自身がこれ以上血を流さないですむようにするためにも……」
微かな声で呟いてみても、薄暗い部屋は沈黙を保つ。アリシアはふと窓に目を向け、細い日差しを見つめた。そのわずかな光が、どこか心に希望を運んでくるようでもあった。
――ここで終わらせたくない。
リーシェの姿でい続けるアルドを何とか導き出して、妹を救う手立てを一緒に探す。そして、復讐という道から遠ざけてあげたい。そんな思いが、胸のどこかに芽生えている。
(いや、私にはそんな資格も権利もないかもしれない。けれど……助け合うことができるなら……)
戸惑いと淡いときめき、そして温かな衝動が、アリシアの心を満たした。けれどそれは簡単に言葉にできるものではない。今はただ、あの人──アルド──の微かな優しさを胸にしまい込むしかない。
そうして胸中に渦巻く感情を抱えたまま、アリシアは古びた空き教室を後にした。頬に一筋の涙が流れたのは、そっと扉を閉めたときだった。すぐに手の甲で拭って、まるで何もなかったように背筋を伸ばす。
けれど、その瞳には消せない光が宿っている。自分の立場に縛られても、あの人を見捨てる気はない。たとえ遠回りになっても、再び会いに行こう。
次は禁書庫へのアクセス方法を探してみよう。
いつか心を通わせられる日が来ると信じて……。