60 この想いは……
意識が戻ると、視界はゆっくり明るさを取り戻していった。冷たい床の感触がまず背に伝わり、頭がひどく重い。私はしばらく瞬きを繰り返し、わずかに動く指先から自分の身体が現実へ帰ってきたことを確かめる。
(……ここは?)
喉が乾き、声にならない息が漏れる。かすれていた視界が鮮明になるにつれ、試験会場の面影が浮かんできた。広間の端には倒れ伏した教師が見え、周囲の機材やセッティングが倒壊し、ところどころに水溜まりや焦げ跡が残っている。まるで戦場を駆け抜けたあとのような荒れようだ。
(私、たしか試験中に……。魔力制御が乱れて……)
そこまで思い返し、はっとする。さっきまで自分が激しい暴走に巻き込まれていたのだ。周囲を見渡すと、他の生徒や観客はすっかり避難したのか姿がない。遠くで誰かがこちらを見ている気配はあるけれど、この広間には人気がほとんどない。
「アリシア、大丈夫……?」
後ろから声が耳に届いた。私のすぐ隣……そちらへ視線を向ければ、そこには“リーシェ”が倒れ込むように横たわっている。
だけど、私は知っている。この姿の彼は“リーシェ”ではない。妹リーシェに成り代わった“アルド”なのだと、ついさっき、記憶の世界で見てしまった。
彼は苦しげな呼吸のまま起き上がり、私を心配そうに見ている。
「だ……だいじょうぶ……ええ、たぶん……」
それ以上言葉が出てこない。彼は“リーシェ”としていつも通り接してくるが、私の頭の中には、さっきまで見ていた壮絶な記憶が鮮明にこびりついていた。
彼は私が追っていた犯人、学園に不審死をもたらす闇の存在だ。けれど私はもう、彼の苦しみと悲しみを見てしまった。妹を救えず、復讐を帯びながらも、それでも私を——“敵”のはずの私を、命を懸けて助けてくれたのだ。
「……よかった。急に制御が乱れ始めて……危なそうだったから、無理矢理止めたんだ。少しは落ち着いたみたいだね」
アルドが”リーシェ”のようにかすかな笑みを浮かべる。まるで何も知らないとでも言うような表情だけれど、私は視線を彼から外せない。どうして彼がそんな風に私を守ろうとしてくれたのか、分からないまま胸が締めつけられる。
(どうして……私は、彼を捕らえる立場だった……)
そのはずが、いま彼の顔を見た瞬間、拒絶どころか頬が熱くなる。この感情は恐怖でも警戒心でもなく、もっと別の、心の奥がじんわりと溶かされるような——まるで恋のような、戸惑いに近いときめきだった。まさかこんな状況で、そんな想いを抱くなんて、自分でも信じられない。
「……なんで、助けてくれたの……?」
やっと言葉を繋ぐと、彼は少しだけ困ったように笑う。
「そりゃ助けるよ、アリシアは親友だからね」
彼は”リーシェ”として振る舞い、問いの意味を理解していないようだ——いや、理解していてあえてわからない振りをしているのかもしれない。
傷だらけの彼を見ていると、その切なさに胸が塞がれる。私の暴走を止めるために、どれほどのリスクを負ったのか想像すると、呼吸が乱れそうになる。
(あなたの復讐を手伝うことは、私にはできない……。でも、あなたを助けたい……)
言葉に出せず、心の中で繰り返すだけ。私たちは敵対関係のはずが、彼のことを考えると、もはや敵として扱えない自分に戸惑っている。
「アリシア? 本当に大丈夫?」
彼が再度私の名を呼ぶ。脈が跳ねる。この目は嘘じゃない——私を救う気持ちが溢れている。思わず目をそらそうとするが、まるで糸に引かれるように彼の瞳を見つめてしまう。それが妙に甘く、切なく、胸を苦しくさせた。
(どうしよう……この想いは……)
分からない。彼がどうして私を助けてくれたのか、今は答えも見つけられない。
けれど、体の奥からこみ上げる感情が一つだけ確かにある。彼は復讐の闇に染まり、数々の罪を重ねてきたかもしれない。でも、その深い悲しみや優しさを知ってしまったら、私はもう彼を拒絶できないのだ。
まるで脆い水面をそっと撫でるように、胸が微かにときめいている。彼と視線を重ねながら、私はどうするべきかも分からず、ただただ息を呑むしかできなかった。