58 記憶の混流
まるで底なしの水底へ落ちていくように、アリシアは意識がゆっくり深い闇へ溶け込んでいく感覚に囚われていた。呼吸をしているのかさえ曖昧で、見上げた先には天井も空もなく、足元にも大地らしきものがない。ただ己がここに“いる”らしい感覚だけが辛うじて残っている。
たとえ夢だとしても、こんなにもはっきりとした“痛み”や“震え”が伝わることがあるだろうか――。意識がぼやけ、現実か幻か分からない違和感の中で、アリシアは自分の名を一瞬思い出し、そしてまた意識が沈む。
(ここは……どこなの……?)
心の声だけが虚空に浮かぶ。声を出しているつもりなのに、何も聞こえない。それでも、誰かの存在を感じた気がして、アリシアはその“誰か”を求めるように手を伸ばす――が、そもそも自分の手すらあるのか確信が持てない。
どれほどの時が流れたか。足元も天井もない漆黒の領域に、かすかな膜のような白い光が漂い始める。やがて、その光が無数に砕けて、小さな結晶の断片となってあちこちを舞い踊る。まるで、夜空に散った星の欠片が風に流されているかのような幻想的な光景。アリシアは吸い込まれるようにそれを見つめる。ぼんやりとしていた思考が、そこにピントを合わせたがっていた。
すると、“その断片”は映像を宿し始める。ひとつ、またひとつと、いくつもの“場面”が結晶の面に映り込み、アリシアの目の前に滑り寄ってくる。最初は雑音混じりのぼやけた映像がちらつく程度だったが、徐々に輪郭を結び、色彩が濃く、立体的になっていく。
(なに……これ……?)
言葉に出さずとも、思考が揺れる。背後に吹くかすかな風が心を促すように感じられた。アリシアがその断片に意識を向けると、それがふわりと拡大し、映画のスクリーンが目の前で再生されるかのように鮮明になっていく。
――そこに映し出されたのは、病室。白いベッドの上で小柄な少女が眠っている。茶色の髪が枕に広がり、まつげが長く美しい、しかし意識はない。その傍らには白銀の髪をした少年が座り込んでいた。彼の瞳は深い緑色で、苦しげに眉を寄せながら、その少女の手を強く握っている。病室特有の消毒薬の匂い、白いシーツの冷たさ、その場に満ちる沈黙が、痛いほど伝わってくる。
アリシアは思わず言葉を失う。
(リーシェ……? 意識不明のリーシェ? それと、この白銀の髪の少年は……いったい?)
リーシェが学園に来る前、あるいは事故後に寝たきりになったときの姿だろうか――そんな推測が浮かぶ一方で、アリシアの胸には説明のつかない強烈な切なさが押し寄せる。そう、“自分”が見ているはずなのに、感じている痛みは、まるでこの少年自身が抱える苦悶そのもののように突き刺さるのだ。
断片はあっという間に切り替わり、今度は年次最終試験の光景へ移る。そこにはリーシェがいた。かつてアリシアが知っていたリーシェ――天才的な魔力制御を誇る、いつも凛としていた姿。しかし、そのリーシェが舞台の中央で苦しそうにうずくまり、周囲には妙な空気の歪みが走り、制御不能の魔力が渦を巻いている。教師や他の生徒がパニックに陥り、リーシェに駆け寄るが、何かがおかしい。
アリシアはその映像を飲み込みながら、胸の奥がチクリと痛んだ。
(……あのとき、リーシェが暴走事故を起こしたのは、やはりただの事故じゃなかった?)
映像はまるで回想のように次々と切り替わる。学園の裏路地で黒いローブをまとった者たちが「彼女を消せばいい」「不幸な事故に仕立てろ」と囁き合う場面。リーシェが落ちてきたDクラスの陰湿な空気。倫理監査委員だと名乗る貴族派の男たちが裏で金やコネを使い、不正を揉み消すシーン。
そして、ミシャが”首輪”と称されるネックレスをリーシェに渡したこと。
アリシアは息を詰まらせる。
(そんな……ミシャが……あの子が、貴族派の陰謀に加担していた?)
考えたくないが、映像はそう示している。そして、そのアクセサリーには見覚えがあった。
アリシアの胸には信じたくない気持ちと、深い悲しみが混ざっている。
次々と流れてくる映像はどれも、アリシアが噂程度に聞いたことがある学内の汚職を、まるで内側から映した“真実”のように見せつけてくる。心がどこまでも重く沈み、それらが捏造でないと感じられるだけに絶望感が増す。どうして、こんなにもリアルに肌で感じるのか――言葉にならないほど苦しい。
(これは……なんなの……?)
自問が生まれた瞬間、再び断片が変わる。
次の映像は、まだ幼い少年が鏡の前で髪を撫でていた。朝目が覚めると、彼の髪色は真っ白に変わっていた。周囲の子どもは奇妙がり、大人たちも恐怖混じりに「呪われた子では」と囁く。
少年は孤立し、その胸の奥にわずかながら“妹”が心の支えとして存在しているようだ。妹は穏やかな笑みで「髪が月光みたいで綺麗」と言ってくれる。そのささやかな幸福が不思議とアリシアの胸を暖かくする。
(あの少女はリーシェ……? ということは、彼はリーシェの兄……? リーシェに兄がいるという話はリーシェから聞いていた。自分よりも頭が良いと自慢げに言っていたのを覚えている)
ーーまた映像が切り替わる。
大きな窓のある小さな家で、テーブルにクロスを敷いて食卓を飾り、楽しそうに何かの料理を並べる少年がいる。彼は器用な手つきでパンを切り分け、「リーシェが喜ぶかな」と呟いて微笑む。アリシアの胸が妙に暖かく、そして涙ぐみそうになる。少年の“彼女を大事に思う気持ち”が、ビリビリと伝わるのだ。
ところが、妹は帰ってこない。試験で事故に遭い、意識不明になったと伝えに来た使者から残酷な事実を告げられ、少年は絶望に崩れ落ちる。用意した料理が冷めていく光景がまざまざと胸を抉る。まるでアリシア自身がその場所に立っていたかのように痛みを覚える。
「あ……あぁ……この胸の苦しみはきっとーー」
一瞬にして世界が崩れ去るような絶望を味わい、足が震え、その場で崩れ落ちるような感覚がある。その真っ暗な絶望感がビシビシと痛烈にアリシアへと伝わってくる。
さらに映像は加速する。ベッドの上には、茶色い髪をした少女が横たわっている。少女の表情は穏やかというよりも、生気がないまま深い眠りについているようだった。その横に寄り添う少年は複雑な悲しみと怒りを押し殺しているかのような顔つきだ。見つめる瞳には涙の跡が残り、彼女に向けて「必ず救う」と呟いている――
ほとんど無我夢中で借金を重ねて治療費を捻出しようとする少年。周囲からの嘲笑や同情を受けながらも、少年は妹を救うための糸口を探そうと奔走している。
その過程で見つかった妹のメモには、学園の不正、貴族派の陰謀、そして裏社会で暗躍する魔道具取引や不穏な研究についてまとめられている。
妹が倫理監査委員としてそれらを暴こうとした結果、年次試験で罠にかかり、命を落としかけた――これはもはや確信に近いと少年は判断する。
学園へ復讐と救済を目的に乗り込み、自分が妹に成りすまして“リーシェ・ヴァルディス”として潜り込んだ……そんな荒唐無稽な内容が、アリシアの脳に直接突き刺さる形で理解されていく。
その後も映像は続き、闇夜の学園を縦横無尽に動き回る“白銀の髪と瞳を持つ青年”の姿を映す。
昼はDクラス生“リーシェ・ヴァルディス”としてクラスメイトに接し、夜は”アロド・ヴァルディス”として不思議な力を使い暗躍する。
アリシアはそこに“復讐”という強烈な感情を見た。痛いほど理解してしまう。
(アルド……この名が脳裏に浮かぶ。白銀の髪の“彼”の名……)
そう意識した瞬間、これまで得てきた映像が“アルド”と呼ばれる存在の視点そのものだと理解する。リーシェの兄として学園に潜り込み、妹を救うために上位クラスを狙い、そして裏で貴族派を次々に葬ってきた。
過激な行動、血に染まった夜の連続殺人、しかしその根底には“妹を救いたい”という純粋な想いが渦巻いていたこと……アリシアは何故か心が震える。自分が追っていた“不審死事件”の犯人が、こんな行き場のない苦悩を抱えた少年だと知り、息が詰まる。
さらに新しい断片が押し寄せる。
イザークやベルジ、ソシアらの記憶の断面も一緒に流れ込んできている。アルドが原型閲覧を通じて収集してきた情報――学園内の貴族派による陰謀や凶行。それを手がかりに、アルドが暗躍し、次々と不審死を起こし、貴族派を抹殺していった事実。
アリシアは喉をひりつかせる。そんな残忍な殺しの映像が彼女の目に焼き付き、冷汗が伝うような気がする。だけど、同時にその凶行が“正義感ある彼女自身”に向けられたものではなく、“妹を奪った憎き貴族派”への激しい復讐だと理解してしまう。
(でも、こんなの……とんでもない……わたしは、彼のやり方を肯定できない。けれど、この痛みは……)
血飛沫の匂い、暗い路地に転がる死体、暴走する彼の怒りと悲しみ。まるで悪夢を見ているような衝撃に身を震わせながら、アリシアの中でドクドクと鼓動が高まる。体温が上がるのか下がるのかもわからない。
映像は学園の屋上、昼のDクラス教室、夜の倉庫、次から次へと移り変わり、最後はリーシェの病床でアルドが囁く姿へ収斂する。
そこで映像群が一気に途切れ、周囲の黒闇もパリンと音を立てて崩れ去る。
アリシアはガクッと膝をつくような意識感覚を覚え、虚空を見上げる。“身体”などないはずなのに、なぜか関節が痛むような錯覚だ。胸は焼けるようで息苦しい。
まるで、誰かの人生をまるごと体験した余波に、心がぐしゃりと押し潰されそう。
(アルド……リーシェのお兄さん……妹を救うために、こんなことを……)
呆然としたままアリシアは心の中で呟く。