56 暴走
試験会場のステージに飛び込んだアルドが見たのは異様な光景だったーー
本来ならば、ここは多くの生徒が集まる個人演習フィールドの一角だ。
ところが今、一帯を騒然とさせるほどの異変が起きている。
薄い水のヴェールがあたりを渦巻き、その合間に閃光が走って空気を焦がしているようだった。
人々の悲鳴がこだまするが、多くの者は恐怖で腰を抜かすか、遠巻きに避難してしまっている。
試験官らしき教師数名も地面に倒れ、意識を失ったままだ。
その中心――そこにはアリシア・フォン・フェルベールがいた。
青白い顔色で目を大きく見開き、光と水の精霊術が激しく暴発しかけている。
本来ならば優雅に術を操れるはずの、デュアルコントラクターとして有名な彼女が、まったく制御できないまま強大な魔力を垂れ流している。
周囲の空間には強烈な圧力が漂い、突風のような魔力が渦を巻いている。
足元には水の奔流が散乱し、上空には無数の光の欠片が飛び交っていた。
「やっぱり……リーシェの事故と同じ現象か……」
アルドは試験会場の端にたどり着き、そう呟く。
彼の脳裏を、意識不明の妹の姿がよぎる。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が背中を伝う。
今は“アルド”ではなく、“リーシェ”の姿だ。一般公開された試験会場に入ること自体は不自然ではないが、リーシェの姿で無茶をするのはリスクが大きい。
それでも、茶色の長髪を揺らし、鋭い瞳で状況を確認する。
試験最終日の個人演習が行われていたこの場所は、すでに戦場のような惨状だ。
アルドが走り込んだ瞬間、見知らぬ教師がこちらを指差して叫んだ。
「危ない! そこに近づいちゃダメです!」
悲鳴混じりの警告だが、アルドは構わずアリシアのもとへ駆け出す。
このままでは、かつてリーシェが年次最終試験で暴走した時と同じ最悪の展開になるだろう。あの悪夢を繰り返すわけにはいかない。
アリシアは激しい震えの中、言葉にならない声を漏らしている。
肩の周囲に浮かぶ光の粒子が不気味な振動を発し、水の魔力があたりを伝わってさらなる暴発を誘発している。
その制御不能な力が空間を軋ませていた。
「アリシア……っ」
アルドが彼女の名を呼ぶが、かろうじて聞こえる「逃げて……」という声はあまりに弱い。
焦点の合わない瞳が、こちらを見ているようで見ていない。
足元で水が爆ぜ、光が線を描きながら飛び散る。強烈な魔力干渉がアルドの身体を突き上げ、息苦しさを覚える。
もしアリシアが完全に暴走すれば、このエリアは破滅的な被害を被る。
(どうすれば、この状態を止められる?)
アルドは小走りで近づこうとするが、水圧の奔流が横殴りの波となって襲いかかる。
素早く身を伏せ、地面をかすめる水の刃を回避する。
「くっ……!」
思わず歯を食いしばりながら転がるように回避した先には、無数の光の矢が降り注いでいた。
衝撃波が地面を震わせ、土ぼこりが舞い上がる。
「ナジャ、何か方法はないか?」
アルドは心中で始祖精霊ナジャに問いかける。
身体の奥にある契約の声が、淡々と応じてきた。
(方法か…… いや、諦めたほうが良い……)
「方法があるなら教えてくれ。俺はどうしてもアリシアを助けたい」
(うむ……あれは外部魔力振動と本人の高い魔力制御力が原因だろう。
身体内部で魔力が逆流し、脳への負荷や魔力経路過剰活性で“暴発”を起こす仕組みじゃ)
「じゃあ、あのネックレスを破壊すれば、なんとかなるか?」
(待て、落ち着け。あのネックレスは言わば起動スイッチのようなものじゃ。
今更壊したとて暴走はおさまらぬ……が……)
言い淀んだナジャは、しかし続ける。
(汝があの娘に代わって魔力を制御することができれば、暴走による肉体的損傷を食い止められるやもしれん)
「俺がアリシアの代わりに魔力を制御する……?
つまり、原型上書き《アルキウム・オーバーライト》でアリシアに乗り移り、俺が制御すればいいのか?」
(いや、今はすでに制御を失い、暴走が始まっておる。
相手に汝の存在を上書きしたとて、暴走を止めることはできぬ……が)
ナジャは話すことを躊躇いつつも続ける。
(以前に原型閲覧は、相手と同じ階層に干渉すると言ったな?
あの時は詳しく言わなんだが、同じ階層では“閲覧”だけでなく、
存在を“改変”することも可能じゃ)
「改変……?」
(そうじゃ。言わば――原型改変
相手が制御を失っておっても、アルキウム層――存在の根底へ干渉すれば、影響の及ばぬ範囲から一方的に暴走を鎮められるやもしれん)
「そんな方法があるなら早く教えてくれ!」
(ただ相手の存在を覗くのとはわけが違う。覗くだけでも相手と自分のアルキウムが影響し合うのに、それを直接触れ改変しようとしたらどうなるか、想像はつくか?)
「……閲覧しただけでも強い精神負荷や、こちらの記憶の流出があったが……。それ以上ということだな」
(ああ。存在に深く触れ、相手のアルキウムへ直接干渉すれば、原型閲覧以上の負荷がかかる。存在が混じり合い、元に戻れない可能性すらあるのじゃ。相手はもちろん、汝の命の保証もない)
ナジャはそこまでして助けるつもりか?と暗に問いかけていた。
(それに、あの娘は汝を追う存在――いわば敵じゃろう)
“アリシアは自分を追う敵”――ナジャの言葉に、アルドは苦笑いする。
確かにアリシアは不審死の犯人を追っている。それはアルドを捕まえようとしているということだ。
だが、アルドは彼女を敵だとは思っていない。
彼女はリーシェの親友であり、法や規則を遵守する正義心ゆえに動いているだけなのだ。
「……それでも、俺はアリシアを助けたい。それに……ここにいるのが“リーシェ”だったら、間違いなく彼女を見捨てたりしないはずだ」
そう決意して、アルドは身体を起こす。
視線の先で、アリシアが脚をもつれさせながらも光と水の激流を同時に放出している。
かつてのリーシェも、あのように苦しんだのだろうか……そう思うと胸が痛む。
周囲に避難を呼びかける者もいるが、すでに試験監督の教師さえ倒れていて、ここを何とかできるのは自分しかいない。
「ナジャ、行くぞ!」
(わかった……。じゃが、原型改変は原型閲覧以上に深く相手に触れる必要がある。
それには“あれ”に近づかねばならんが……)
眼の前には激しい雨のような水の塊が渦を巻いて覆っている。
水流は地面を濡らし、光の粒子が目に痛いほどの明るさを放つ。
彼女の持つ二つの属性が融合しながら大きく振動していて、周囲に近寄る者を強引に弾き返している。
「明確に意思を持って人を襲っているわけではなさそうだ、近づくだけであれば不可能ではないさ」
アルドは意を決して、暴れ狂う水流と閃光の只中へ突進する。
地面を裂くように噴き上がる水流、視界を灼く光の散弾――いずれも一発で致命傷を与えかねない危険な攻撃だ。
アルドは、ジグザグに走り跳びながら、時に転びかけながらも、必死でアリシアの足元を目指す。
必死で踏ん張りながら低く身をかがめ、噴き上がる水滴が鋭く肌を打つのをこらえる。
ちらつく光の粒子が目を刺すが、歯を食いしばり一歩ずつ距離を詰める。
「アリシア! 聞こえるなら応えて!」
まるで自分の声など届かぬかのように、彼女は暴走する魔力の渦の中心で苦しげにうめいていた。
アルドは一瞬、ためらいを感じるが、今こそ覚悟を決めるときだ。
その先に待つのは、どんな苦痛や危険なのか、考えても仕方ない。
彼女を救う以外に道はないのだから……。
声を張り上げても、そこから先は轟音に掻き消される。
アリシアは意識があるのか、それとも完全に魔力の渦に支配されているのか……。
しかし、一際強い光の衝撃波が足場を吹き飛ばす。アルドは思わず膝を突き、そこに不可視の鎖を出そうと試みるが――
「ぐあ……っ!」
アリシアほどの実力者の暴走は凄まじい。
不可視の鎖を放ってもすぐ弾かれてしまう。まるで神経が切れかけた爆弾に繋ごうとしているようだ。
(前にも言ったが、離れた場所から容易くアルキウムに干渉できるのは相手が格下の場合に限られる。たやすく縛るのは無理じゃ。強く触れねばならぬ)
ナジャの冷静な指示を受け、アルドはさらに半歩前へ進む。
「……アリシア!!」
思わず声を張り上げ、同時に腕を伸ばす。光の余波が腕を焼くように痛むが、怯まない。
視界がちらつき、耳鳴りがする。アリシアは口を開いて声を出そうとしているが、混乱により言葉にならない。かすかに「にげ、て……」と聞こえた気がする。
「いや、逃げられないよ……!」
アリシアの顔が苦痛に歪み、わずかながら暴走による攻撃が緩んだ。
アルドは意を決し、思い切り彼女を掴みにいく。横合いから迫る水魔法に背筋がヒヤリとするが、それも構わず背後に回り込みアリシアの細い身体を強く抱え込む。
ガコンッ――!
強烈な衝撃が背中に襲う。光が身体を斬り裂いたかのように痛むが、必死に耐えてアリシアの腕をがっしりと押さえる。
彼女の肌は氷のように冷たいが、それを覆うのは熱量にも似た魔力の嵐だ。
アリシアの瞳は、泣きそうなほど見開いていた。涙と汗が混じり、呼吸が乱れている。
彼女自身もこの暴走を止めたいのだろう。だが、二属性がぶつかり合い、外へ盛大に漏れている。
「……リ、リーシェ……?」
「大丈夫……必ず助ける」
アルドは震える声で囁く。アリシアの体からあふれる魔力の波がアルドを押し返そうとするが、腕の力で耐える。
(今じゃ、やるぞ!)
ナジャの内なる声に合わせ、アルドは意識を集中する。
――原型改変