45 筆記試験
朝露がわずかに残る学園の石畳を、無数の足音が響いていた。試験初日が幕を開け、全二年生が巨大な講堂に集まるため、AからDクラスまで、この学年に属する600人以上の生徒が続々と移動している。空気にはほんの少しの緊張感が混じり、普段の雑談声よりも落ち着いたトーンが行き交う。晴れた空の下、特設の掲示板には試験概要が貼り出され、ほとんどの生徒は既に知っているとはいえ、確認のため目を走らせている。
「今年は試験日数は3日間。初日は筆記と基礎魔力適性テスト、2日目に応用演習、3日目に魔力制御と実技だって。いつも通りね」
ツェリがDクラス棟の前で、イルマと一緒に歩きながらつぶやく。リボンを軽く整え、手元には筆記用の筆記具が揃っている。
イルマはゴーグルを頭に乗せたまま
「あー、初日はやっぱり筆記か、理論苦手なんだよねー」
とぼやく。
そんなイルマに、ツェリは控えめに微笑む。
「でも、今年は公平な試験って噂が広まってますし、不正で得をする連中はいないはずです。私たちも、地道な努力が報われるかもしれません」
実際、ツェリの胸中には安堵が広がっていた。この数週間で学内を揺るがした不正摘発は大きな波紋を呼び、結果的に多くの貴族派生徒が検挙されている。とくに試験直前にC区画倉庫で起きた一件は決定打だった。
昨年の件をうけ学園が厳しく取り締まりを行ったのだろうか、詳細は分からないが、不正魔道具や禁制薬物が露呈してしまい、芋づる式に多数の不正者が摘発された。
ツェリはそのときファロンから警告された「今年も貴族派が不正するかもしれない」という話を思い出す。
(結果的に防がれたのね……不正なんて行われず、本当に良かった)
今年は不正無し、純粋な実力勝負だ。ツェリは自己ベストを出せるよう、深呼吸して歩みを進める。
同じくDクラスから出発したベルティアは空を仰いで
「今日晴れてるわね! 筆記なんて眠くなるけど、この空気なら集中できそう!」
と呑気に笑う。
ファロンは無口なまま、半歩後ろをついてくる。興味なさげだが、目線は前を向き、まるで戦場へ赴く前の静かな張り詰めを感じる。彼もまた公平な試験をありがたく思っているかもしれない。
一方、アルドは少し先を歩いていた。貴族派の不正が大量摘発された背景には、自分が夜にC区画へ潜り、倉庫を襲撃し証拠をばらまいた出来事がある。
その場に駆け付けたアリシアが即座に不正を検挙し、学内規則に従って処分を厳行。そこから派生して、関連する貴族派たちも次々と摘発されたと聞いている。
(これで今年の試験は公正になったか。妹の事件に関与した奴らは減らせたし、貴族派の不当な優位性も削げただろう)
アルドは静かに満足する。精霊術が使えない自分にとって相手に不正を行われるのは致命傷だ。リーシェの姿では正攻法で戦うしかないためチャンスが潰える。
全二年生が向かう講堂は、学院でも最大規模の建物の一つで、巨大なドーム屋根の下、千人規模が一堂に会しても余裕のあるスペースが広がる。筆記試験は全クラス共通の内容なため、同時に試験を行うことで試験問題の流出を防ぐ目的もあるようだ。
出入口で教員たちが名簿と顔写真を照合しつつ、指定席へ誘導している。魔力妨害結界が張られ、試験中は映像記録用の魔道具で不正対策もしっかり行われている様子だ。
「指定席はここね、Dクラスはこの区画、D5なら……あ、こっち!」
イルマが頑張って人波をかき分け、リーシェ、ツェリ、ベルティア、ファロンと揃って座れる列を探し出す。指定席はクラス単位でまとまっているが、同じD5チームで隣同士になるわけではない。だが、今日の筆記は個人戦だから問題ない。
試験開始まであと10分。講堂内は息を潜めた囁きが交錯する。
「筆記は難問揃いらしいよ」
とベルティアが隣の生徒と少し話して聞いた噂を伝える。
「でも、理論はリーシェさんが得意だから、少なくとも私たちのチーム……というかDクラスで理論トップは決まりじゃない?」
ツェリが笑う。
「ええ、リーシェさんは学術論考で満点狙うって以前から言ってましたものね」
イルマは「私も最低限は取りたいけど……ああ、数字は嫌だなぁ」と再度こぼす。
ファロンは黙したままだが、周囲を観察している。以前のようなあからさまな貴族派のヒヤかしがない。何人かの貴族派有力者は既に席が空いており、彼らは捕まって欠席か、別室で取り調べを受けているらしい。雑音が減ったことで、真剣勝負に挑みやすくなった。
「皆、頑張りましょうね」
とツェリが柔らかく微笑み、4人とも軽く頷く。リーシェ(アルド)は深く息を吐き、
(満点を取る。この公平な土俵でなら心配事もない、全力で臨むだけだ)
と心の中で決意する。
試験監督の教師が講堂中央の壇上へ立つ。頭には厳格な表情を浮かべ、「静粛に!」の一声で会場が水を打ったように静まる。
「これより、全二年生共通魔力適性標準試験、一日目の筆記及び基礎魔力理論テストを開始する。時間は90分、問題冊子はこれより配布する。試験中の会話、カンニング、違法魔道具の使用は即失格だ。先日の不正事件を受け、今年は全てを厳重にチェックする。健闘を祈る!」
言葉の響きが重いが、公平さが保証されているなら、生徒たちは逆に集中しやすいかもしれない。配布された問題冊子を受け取り、アルドは1ページ目から順に目を通す。
(魔力理論、属性間干渉の計算問題、魔力回路設計理論、歴史的事件の記述問題……網羅的だな。よし、全部想定内)
ペンを握る。ペン先が紙に触れ、滑らかに文字が走る。
アルドは妹との思い出を微かに思い出す。リーシェも理論は得意だった、学園に入るまでは俺が妹に勉強を教えていたくらいだ。自分も学術においては負けていない。
前の方ではツェリが静かにペンを走らせている姿が見える。彼女も努力した分を発揮できるだろう。
イルマは「うーん」と唸る気配が伝わるが、すぐ真剣に書き出す。ベルティアは最初の方で引っかかったが、ほどなく解答の方向性を定めたらしく、ペン音が規則正しくなる。ファロンは気配を消したまま書き進めているようだ。
この巨大な講堂ではAクラスやBクラスも同じテーブルの遠方に座っているはずだが、不正者が消えたために彼らの優位も精霊術や魔道具の正当な使い方のみになる。つまり学力で対等に闘える。
1時間が経過した頃、アルドはもう半分以上の問題を解き終えた。難問が多いが、事前に研究した理論を駆使すれば十分対応できる。
(思ったよりも大した事ないな)
と内心で微笑む。集中力を切らさず、最後の応用問題に取り掛かる。属性干渉計算、相対魔力出力の最大点を求める複雑な数式……だが、イルマとの魔道具談義により理論の本質を理解できたためスムーズに解くことができた。
ベルティアは音響関連の理論問題に苦戦しているかもしれないが、基礎点は確保できているはず。ツェリは薬草学や治癒理論でポイントを稼ぎ、イルマも最低限はカバーするだろう。ファロンは情報解析系の問題で点を取るかもしれない。結果的に、このチーム内で誰がトップを取るかはともかく、Dクラス内でも上位を狙えるかもしれない。
終盤、残り5分。アルドはすべての問題を解き終え、見直しに入る。ミスがないか丁寧にチェック。合格ラインは余裕で超えた感触だ。
「終了!そこまで!」
監督の教師が声を上げると、一斉にペン音が途絶える。
用紙回収が行われ、生徒たちは静かに椅子に背を預けて休息する。休憩時間を挟んで午後には基礎魔力制御テストがあるが、まずは筆記が終わった安堵が流れた。
ツェリは心中で不正がなくて良かったと改めて思う。昨年までなら、貴族派が裏で特殊な魔道具を使って解答を送受信するなどの噂もあった。しかし、今年はそんな嫌な空気が消え、真っ当に努力したものが報われる環境ができたのだ。
学院の中枢部屋では、学院の試験監督が不正検知魔道具で確認しているだろう。パニックや混乱はなく、誰もおかしな行動を起こしていない。
(この平穏な試験が続くなら、わたしも落ち着いて実力を出せる)
ツェリはそう考えて背中を伸ばす。
イルマは「はぁ、終わった……数字の問題、リーシェが考えてくれたイメージ記憶法でなんとか書けたかも」と小声で呟く。
ベルティアは「最後の応用問題、絶対わたし間違えたー!」と軽くボヤくが、元気で問題ない。
ファロンは無表情で腕を組み、「……まあ、最初から理論点はそこそこ取れればいい」とつぶやく。
アルド(リーシェ)は「みんな、お疲れ様。次は基礎魔力制御テストがあるけど、焦らずいきましょう」と笑顔で励ます。これまでの努力、イルマの魔道具談義、ツェリの薬草知識、ベルティアの士気、ファロンの慎重な性格、どれも明日以降の実技や応用演習で力になる。
試験初日はまだ半分残っているが、筆記という一番フェアな知識勝負が終わった今、結果はどうあれ、心を穏やかに保てる。
今後待ち受ける応用演習や個人実技では、精霊術が使えないアルドは苦戦を強いられるだろうが、少なくとも初日は完璧だ。嫌な気分で終わることはない。
周囲を見ると、Aクラスでも苦々しい表情を浮かべる者もいれば、余裕綽々な者もいる。Bクラス、Cクラス、Dクラスはそれぞれ一様に肩を落としたり満足したり、反応は様々。だが、その差は純粋な学力の差であって、不正や裏工作の不透明さではない。
そうして初日の筆記試験は、全二年生にとって平等なスタートを切らせた。精霊術に優れた者も、学術理論に強い者も、魔道具改良で奇策を狙う者も、全員が同じ舞台で争う公正な試合。
貴族派が多く撤退し、学術評価が正当化されたこの年。アルドたちDクラス下層から抜け出す希望の光が、教室の高い窓から差し込んでいるようだった。