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41 倫理監査委員会

夜の学園棟は静寂に包まれていた。

窓越しに見える月光が廊下を淡く照らし、澄んだ冷気が肌を刺す。アリシアは薄い外套を肩にかけ、厚い書類束を腕に抱えながら、廊下の奥へと足を運ぶ。


その先には、倫理監査委員の非公式会合が行われる小部屋がある。立派な権威と伝統を謳うこの組織だが、最近の様子からアリシアは胸を重くしていた。


ドアを開けると、既に三人の貴族派メンバーが席に着いている。Aクラスの4年生、3年生、そしてBクラスの3年生が一人――いずれも貴族派寄りで、今では学内に蔓延る腐敗の一端を握る存在だ。


「遅かったね、アリシアさん」


4年生のルクレト・ラ・フェンサールが皮肉気味に微笑む。


「すみません、記録を整理しておりました」


アリシアは丁寧に一礼して着席する。微かな緊張が、委員会の控え室を満たしている。


机上のランタンが淡い灯りを揺らし、木製のテーブルには各自の書類や魔力分析報告が並ぶ。まずは本日の議題が示される。


「さて、今回の方針だが……」


とルクレトが口火を切る。


「不審死事件が相次いでいる。その再調査を最優先することを確認したい。前回の合意通り、貴族被害者を出しているこの不審死への注力を強化する」


3年生のフィリオとBクラスのダリオンが頷く。


「当然だな。我々は学内の安寧を守るためにも、貴族層を脅かす不審死を軽視できない」


アリシアは眉をわずかにひそめた。

実際、この不審死事件は重大だとはいえ、最近報告されている不正行為も見過ごせないはずだ。平民生徒が理不尽な損害を被る小さな不正事件が相次ぎ、その多くが揉み消されていると聞く。


本来、倫理監査委員は公正な立場からこうした不正も摘発すべきなのに、彼らは「不審死の方が優先」と一蹴する方向だ。


「待ってください」


アリシアが低い声ながらはっきりと口を開く。


「不審死事件が重要なのは分かりますが、最近報告された不正事件も深刻です。小さな事件の積み重ねが、学内秩序を損ねています。そこにも目を向けるべきではないでしょうか」


貴族派3名は一瞬視線を交わし、ルクレトが苦笑する。


「またか、アリシアさん。確かに不正事件も無視はできないが、現状は不審死が最優先。我々に限られた時間と人手があることを忘れないでくれ」


フィリオが続ける。


「そうだ、今は一件一件の不正にかまけていたら、肝心の不審死の進展が遅れる。ましてやその不正というのは、いま直ちに危害を及ぼすわけじゃない」


ダリオンが詰め寄るように微笑む。


「不正行為など後回しでいいだろう。どうせ小規模な問題。騒ぎ立てるほどのことでもない」


アリシアは悔しさで胸が締まる。

ここで強く反論すれば、彼らの機嫌を損ねるだけだろう。だが、言わずにはいられない。


「不正行為が小規模だとしても、それを見過ごしていれば秩序は歪みます。平民生徒たちが泣き寝入りする構図は、長期的に見れば学園全体の信頼を損なうはずです」


「しかし、今は不審死だ」


フィリオは言下に打ち切るような口調。


「貴族派に被害が出ている以上、理事会もこれを急げと言っている。アリシアさん、あなたも承知してくれたまえ」


彼らは笑みを浮かべつつ圧力をかけてくる。

アリシアは渋々、「分かりました……」と小さくうなずいた。


心中には失望が広がる。倫理監査委員……本来は公正を掲げる組織なのに、今は貴族派が牛耳り、利己的な方針を強引に決めている。


(リーシェも、この腐敗した組織でどれだけ苦戦したのだろう……)


リーシェが不自然な事故で消えていった記憶が脳裏に甦る。

彼女の奮闘と挫折を思い出し、心が重く沈んだ。


アリシアは切ない思いを噛みしめる。

自分の目標だった理想的正義はここにはない。リーシェはかつて貴族でもない稀有な倫理監査委員だった。それに加えて新参の1年生と言う立場で戦っていたのだ。


1年生は来週から始まる試験の結果を持って学院側から倫理監査委員に任命されることになるが、今年は例年通り貴族から選出されることだろう。

貴族にとってアリシアのような正義感は鬱陶しい。大きな反発こそしないものの、言葉の節々に公正と正義を宿す彼女は、彼らを苛立たせているに違いない。


だが、アリシアも賢明だ。

この場で喧嘩腰になっても状況は悪化するだけ。今はしぶしぶ従いながら、裏で一人でできる範囲で不正事件を捜査しよう――そう心に決めた。


話題は不審死事件へと移る。

ルクレトがファイルを指し示し、


「では本題に戻ろう、不審死事件の進捗だ。アリシアさん、前には荒唐無稽な仮説を出していたね」


フィリオがニヤリと笑う。


「操る、だったか? ハハッ、人を操るなんて、子供の絵本の話だろう」


アリシアは頬を強張らせながらも、


「ええ、実は新たな状況を考慮し、“乗っ取る”という可能性も検討しているのです」


と淡々と返す。


「ほう、操るというのはありえないと結論が出たはずだが。次は乗っ取りか?」


ダリオンが嘲るように口を開く。


アリシアは用意していた資料を差し出す。


「ゲートの入場記録を解析し、記憶喪失が起きた時間とその前後の位置関係をまとめました。これを見ると、犯人は人から人へ移るように……つまり、一種の乗り移りで移動している可能性があると考えました」


するとフィリオが鼻で笑う。


「またお得意の夢物語か。確かに記憶喪失と位置関係は奇妙だが、だからといって人間を経由した移動など、神の御業か幽霊でもなければ不可能だろう」


ダリオンが同調する。


「おいおい、人を操るとか言い出したと思ったら、今度は乗っ取る? 犯人が人から人へ? 本気で言っているのか、アリシアさん」


ルクルトも肩をすくめる。


「操るだの乗っ取りだの、そんな奇抜な妄想は学術優秀者の言葉とは思えん。夢見がちなお嬢様には荷が重いのではないか?」


嘲笑が室内に満ちる。

アリシアは歯がゆい思いで指先を握り締めた。

実際、自分でもその説は超常すぎると感じている。しかし、何か不可解な現象が起きているのは確かだ。


「証拠はありませんが、現状説明できない事象が多すぎます。操作や乗っ取り、どちらにせよ未知の力かもしれない……」


「未知の力ねぇ。神が降臨したとでも? 面白い冗談だ」


フィリオが皮肉を言う。


「はたまた幽霊か妖精か、まるでお伽噺だ」


ダリオンも大仰に笑う。


アリシアは唇を噛む。

己の理論が示すのは状況証拠のみで、未知の力が存在する証拠もなく、それを可能と証明できない。誰も信じてはくれないと分かっているため、反論しきれない。


不審死事件の捜査は続けるものの、この突飛な仮説は一笑に付され、アリシアが時間をかけて調査した資料は雑に扱われる。

結局、彼女の新たな提案は無視され、不審死事件は強力な魔道具による防犯強化や巡回強化など“常識の範囲”で進める方針に固定される。


会合が終わる頃、アリシアは深いため息をついた。

一方の貴族派三名の顔には満足げな表情が浮かぶ。アリシアの正義感など「お嬢様の空想」程度にしか思っていないのだろう。


倫理監査委員……表向きは公正を盾にとる組織だが、中身は貴族優位で腐敗している。

貴族派の不利益になる試験の不正問題は調査を行わず、貴族派が被害にあった不審死事件の対策には膨大な費用のかかる魔道具の導入や警備員の巡回がスムーズに通った。


不審死事件の防犯を強化すること自体は否定しないが、試験の不正を隠蔽するような行為をもみ消すのは到底許せない。

リーシェはこんな連中と戦っていたのか、と胸が痛む。彼女が苦戦していた理由が骨身に沁みて理解できる。


しかしアリシアは諦めない。


(たとえ組織がこうでも、不正事件も不審死事件も、私が密かに調べてみせる。証拠さえ掴めれば奴らを黙らせることができる)


夜の冷気が頬を撫でる中、アリシアは小さく拳を握る。

大きく反発すれば潰される、今は弱い反論と従順なフリを続けるしかない。それでも裏で情報を集めるつもりだ。夜間巡回を増やし、小さな手がかりでも追う覚悟を固める。


さりげなく退席するアリシアの背中を、貴族派メンバーは冷ややかな目で見送る。表だって害は加えないが、うっとうしい存在として認識しているのは確かだ。

アリシアはそれを感じつつも、背筋を伸ばして部屋を出る。

彼女の言動の端々には正義が滲んでいたが、今夜は組織の壁に跳ね返された。

それでも希望の灯は消さず、夜の闇へ踏み出す。


明かりの少ない廊下を歩きながら、彼女は心中で決意を固める。


(不正事件の被害を無視するなんてあってはならない。試験前後で忙しくなるだろうけど、ひとつずつ調べてみせる)


遠くで風が窓枠を揺らし、かすかな物音が響く。

アリシアは足音を抑えながら、自分に言い聞かせるように呟く。


「リーシェ、あなたが苦戦していた理由がやっとわかったわ……」


その深夜、誰もいない廊下を灯す月光だけが、彼女の小さな勇気を照らしていた

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