表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/103

37 アリシアの来訪

朝のDクラス棟はいつも通り薄暗く、古い材木が軋む音と、質素な机の配置が目につく。リーシェとしてこの場にいるのは、もう慣れたものだった。


あれから何度もD5クラスで下層生の日々を演じてきた。精霊術が使えない落ちこぼれという仮面は問題なく機能している。ほとんどのクラスメイトは俺、いや“リーシェ”を特別扱いしない。


ところが今朝、教室が妙にざわついていた。

何か気配が変だ。窓際の席に座り、いつも通りノートを開いてぼんやりと過ごしていると、廊下で教師と誰かが話す声が微かに聞こえる。


「Aクラス……?倫理監査委員……?」


クラスメイトが囁く声が耳に届く。

嫌な予感がした。Aクラスの人間がDクラスへ来るなど滅多にないことだ。しかも“倫理監査委員”と聞こえた。余計に嫌な予感がする。


かすかな足音、そして教師が戸惑いながら「どうぞ」と教室に声をかける。扉が開く音が響いた瞬間、息が詰まりそうになった。


入ってきたのは美しい少女だった。

黄金色の髪が微かに光を反射し、整然とした佇まい、Aクラスでリーシェと並び称された才女、そして……妹の親友。リーシェの日記やメモで何度もその名前を見た、彼女だ。


(アリシア・フォン・フェルベール……なぜここに?よりによってリーシェの親友が来るなんて!)


心が一瞬でかき乱される。今まで多くの人物とリーシェとして会話してきたが、それらはすべて初対面。リーシェにDクラスの知り合いなどいるはずもなく、互いに面識がない関係だったから騙しやすかった。だがアリシアは違う。リーシェを知り尽くし、リーシェも彼女のことを親しんでいた。私の今の仮面を見破る可能性が高まる。しかもアリシアは倫理監査委員――つまり学内の不正や疑惑を追及する立場だ。


(まずい、落ち着け。リーシェの日記にはアリシアの好み、二人の思い出、過去の出来事から察することができるアリシアの性格。記録はある、”リーシェ”を再現できるはず……)


アルドは瞬時に心を冷静にする。深呼吸。彼女が来た理由はおそらく事件の調査だが、まずはリーシェとして自然に振る舞わなければ。リーシェとアリシアの会話パターン、呼び方、昔のやり取りは日記から熟知している。


アリシアは教師に挨拶しながら教室内を見渡し、「リーシェ・ヴァルディスは?」と尋ねる。教師が慌てて「リーシェ、来てくれ」と声をかける。教室内の視線がリーシェ《アルド》に集中する。


(リーシェになりきれ、今は精霊術を失った“元天才”として……)


リーシェ《アルド》は控えめに立ち上がり、席を出る。いつもなら平然と誰かと会話するが、今回はアリシアが相手。心臓の鼓動が耳元で響くが、表情は弱々しく、少し気後れした感じを装う。天才時代のリーシェは自信家だったかもしれないが、今は精霊術が使えない敗残者、Aクラスにいた頃の輝きを失った設定だ。アリシアもそこを突いてくるだろう。


「リーシェ、久しぶりね……状態が良くないと聞いていたけれど、こうして戻っているのね」


声は優しいが微かな痛みをはらんでいる。彼女は心配し、私を気遣い、ここまで来たのだろう。


「アリシア……久しぶりね。精霊術は使えなくなっちゃったけど、一応学園には戻ってこれたの」


日記にはアリシアとの関係、リーシェとのやり取りが詳細に記されていた。二人は対等な存在で、アリシアが貴族だろうと畏まらず、気軽に話していた。その調子で、昔の親友に再会した“懐かしさ”を感じさせる軽めの語尾にする。


アリシアの眼差しが軟化する。

「そう……よかったわ、意識不明と聞いて、ずっと心配していたの。あなたが倒れたあの日、私、もう何をしたらいいかわからなかった。だけど今こうして会えた」


私は内心で焦りつつも「ごめんね、心配かけて……」と弱弱しく言う。アリシアは小さく頭を振る。


「いいの、元気そうで安心したわ。精霊術が使えないって聞いたけど……本当に大丈夫?」


(ここは正直に弱さを見せて同情を誘えば、不審には思われない)


私は目線を少し下げ、「正直、辛いかな……精霊術も使えないし、Dクラスはこのような環境だし、戸惑うことばかり。でも慣れれば大丈夫かも……」と声を小さく絞る。


アリシアは心底心配そうな顔。

「ごめんね、Dクラスがこんなに劣悪な環境だなんて知らなかったわ。あなたがこんな所で苦労してるなんて……」


私は首を左右に振る。

「気にしないで、アリシア。あなたとよく飲んだリアファール産の紅茶のような贅沢はできないけど、生活に困ることはないから大丈夫よ」


前に日記で読んだ“紅茶を好む”といった記載を思い出し、軽く話題に出してみる。

アリシアは微笑む。


「リーシェ……。そうね、そこまで昔の出来事でもないのに少し懐かしいわ……ミシャと三人でラウンジで飲んだ紅茶、美味しかったわよね」


会話は想定よりスムーズだ。アリシアは疑う様子もなく、昔の親友と話している気分に浸っているようだ。私の内心の緊張は徐々に緩み、不審がられていないことに安堵する。だが安心は禁物、ボロを出せばすぐに怪しまれることだろう。


教室の生徒たちも奇妙な光景に緊張していたが、徐々に和らいでいる。アリシアが脅すような雰囲気でなく、昔の友人に再会しただけの空気を作っているからだ。


「そういえば、リーシェ。実は、私、どうしてもあなたに会いたくて倫理審査委員になったのよ」


アリシアが不意に真剣な表情に戻る。アルドは先ほどの噂話を聞いて知っていたが演技で驚いて見せる。


「えっ?本当?」


と目を見開く。

アリシアは軽く微笑むが、その瞳には強い決意がある。


「そうよ。D区域に入る許可を得るにはそれなりの立場が必要だった。あなたを見舞うことも叶わず、もどかしかった。でも、こうして話せてよかった」


胸が痛む。彼女は純粋な友愛でこの立場を手に入れた。彼女に嘘をついていると思うと心が重い。しかし、目的のため仕方がない。


「嬉しい……そんなに私を気にかけてくれていたなんて」


私は少し涙ぐむふりをする。リーシェは涙もろくはなかったが、今は弱っている設定だから自然だろう。

アリシアは表情を柔らげる。


「ええ、そしてD区域立入許可が取れたついでに、あなたにも話を聞きたかったの」


声が低くなる。


「実は、最近学内で不可解な事件が相次いでいるの。レヴン、ベルジ、ソシア、カーリス……聞いたことはある? 彼らが仲間を殺した上で、自分は無傷で死ぬ奇妙な事件が続いているわ。魔力暴走として処理されているけれど、さすがにこの数は異常だわ」


心臓がまた鼓動を強める。まさにアルドが行った処刑劇だ。アルドは平静を装い、


「そうなの?そんな事件が……Dクラスにはあまり情報が入ってこなくて」


と曖昧に答える。アリシアは小さく頷く。


「他にも、短期的な記憶喪失のような事例がC・Dクラスで増えているの」


アルドは驚く。不審死の件は想定内だが、まさか記憶喪失の件についても調べていたとは。


「関係があるのかはわからないけれど、リーシェの試験当日の事も同じように不自然な魔力暴走が起きたのよね? 何か心当たりはない?」


ここが正念場だ。アリシアはリーシェに事件と関連があるのではと探りを入れている。リーシェの事件の魔力暴走はアルドが起こした不審死とは関係がないが、発端になったという意味では関係がある。だがここはあくまで“何も知らない被害者”として演じるしかない。


「ごめんなさい……事件当日の記憶も曖昧で、あれこれ思い出そうとすると頭が痛くて……本当に何も覚えていないの」


寂しそうに目を伏せる。

アリシアは悲痛な表情になり、「ごめんなさい、無理に思い出さなくていい。あなたを追い詰めるつもりはなかったの」と言う。彼女は本当に優しい。リーシェの日記で読んだ通り、アリシアは恩情深い人だ。


アリシアは少し黙り込み、息を吸って話し始める。


「あのね、こんな事言うと正気を疑われるかもしれないから誰にも言っていないんだけどね」


と前置きをして続けた。


「私は、誰かが人を操って殺人事件を起こしているんじゃないかと考えているの。操られた人は殺されたり記憶を消されたりしているんじゃないかって。荒唐無稽な話だけどね……」


アルドは内心で身を硬くする。アリシアは非常に勘が鋭い。アルドがC区画で大量殺害を行い、事件に加担した者を根こそぎ片付けた結果、アリシアがその不審死事件と一部で発生している謎の記憶喪失を結びつけて考えているのだ。"人を操る"という考えも当たらずとも遠からずだ。


アルドは冷静を装いながら嘘を交え応える。


「そのようなことは不可能だと思うけど⋯⋯。私も魔術理論や魔道具については研究していたけれど、そのような話は聞いたことがないわ」


こう言えば、多少は自身の考えに疑問を持ってくれるかもしれない。

アリシアは軽く溜息をつき、


「そうよね、ごめんなさい。リーシェ。変なことを言ったわ」


疑念は晴れてはいなそうだが、これ以上その件について触れることはなさそうだ。


その後は事件のことには触れず、雑談を交わしていたが朝の授業が始まる時間が迫ってきていたこともあり、アリシアが席を立つ。


「……正直、来る前は心配だった。あなたがどれほど変わってしまったか……でも思ったより元気そうで、話も昔みたいにできたから安心したわ」


と安堵の息をつく。アリシアの表情は教室に入ってきたときよりも柔らかくなっていた。


「あ、そういえばそろそろ全二年生共通魔力適性標準試験があるでしょう? その時また会えるかもしれないわね。もし何か思い出したり、なにか情報が入ったら、私に教えて」


アルドは静かに頷き、明るく「ええ、また会いましょう」と返す。正直もう会いたくはないが、そう言うほかない。だがアリシアが訪れた理由も理解できる。


彼女は不審死の真相を探っているが、その事件を追う動機にはリーシェの不自然な魔力暴走の件も含まれているのだろう。妹が良い友人に恵まれていることを感じ、アルドは久々に嬉しい気持ちになり感謝の気持ちを伝える。


「ありがとう、アリシア。あなたに会えて嬉しかったわ」


「私もあなたに会えて本当に良かったわ、リーシェ。また来るわ」


と小さく囁いてから踵を返す。

アリシアが教師に軽く挨拶し、来た道を戻ると、D5クラスはほっとした空気が漂う。AクラスのエリートがわざわざDクラスに来て、特別指導や叱責なしに出て行くなど珍しいことだ。


私は席に戻り、表情を崩さず窓外を見つめる。危機は回避できた。アリシアを完全に欺けたかは不明だが、少なくともこちらを怪しむ様子はなかった。


(アリシアは勘が鋭い。もし彼女がさらなる手掛かりを得れば、俺に迫るかもしれない。だが、相手は妹の親友……彼女を傷つける事はできない。上手くかわしながら計画を進めよう)


心中でそう決意する。


やがて朝の授業が始まり、教師が淡々と点呼を取る。D5クラスの生徒たちは先ほどの出来事を忘れたかのように日常に戻る。アルドはリーシェとして、静かにノートを開いてペンを走らせる。


アリシアと対面し、本格的に正体を疑われるリスクが上がったが、リーシェの正体を見破られなかっただけでも上出来と言えるだろう。とにかく貴族派に攻撃を仕掛ける際にアリシアに遭遇することは絶対に避けたい。


俺は彼女を攻撃することができない。それに彼女はトップクラスの強さを誇るAクラスの才女だ。

《アルキウム・オーバーライト》を使おうにも直接触れる必要があるだろう。リーシェの姿なら警戒されずに触れるのは難しくないが、一度でも使えば記憶の欠落から一連の事件の犯人が“リーシェ”の仕業であると可能性が高い。


(できればもう二度とアリシアとは会わないでおきたいところだな)


アルドは窓から薄曇りの景色を眺めながらため息を吐いたーー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ