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02 アルド・ヴァルディス

先程まで視線を集めていた少女は古びた木扉の前で立ち止まっていた。周囲に人影はない。


ここは学園の外縁部、先程まで遠巻きに見ていた高貴な塔や先進設備からほど遠い、狭くて簡素な建物――Dクラス用の教室がある区画だ。


少女が指先で扉の取っ手に触れると少しばかりガタついた感触が手のひらを伝う。

この建物は、古い。

かつてリーシェが当たり前に通っていた――あるいは通うと思っていた――上質な施設が遠い幻のようだ。


本来であれば今頃リーシェはAクラスにいるはずだった。

最高の扱いと最高の環境で、華々しく成長し、さらなる高みへ。


そうなるはずだった。

だがリーシェはDクラスへの移籍などという不名誉を受けている。


なぜこんなにも落差があるのか、なぜ誰も止めないのか、なぜ彼女がこんな地味な制服をまとい、下位クラスに落とされるような屈辱に甘んじなければならないのか?


一度、軽く息を吸う。

鼻先から入り込む空気は、かすかに埃っぽい。

目を細めて、どこか遠くの日々を思い返す。


記憶の中に、かつての温かな声が響く。

あの少女は笑っていた。

何か失敗しても、いつも前向きで、周囲に希望を振りまいていた。

明るい髪が光を受けて揺れ、緑色の瞳で「大丈夫だよ」という視線を送ってくれた。


あの頃、彼女の隣に立っていた自分は――


今、その隣に立つことはできない。

彼女は深い眠りに閉ざされ、意識不明のまま戻ってこない。

あの華やかな笑顔が、冷たく閉じた瞼の裏に隠されている。


どうしてこんなことになったのか。

理不尽だ。残酷だ。

深い憤りが、喉元に苦い熱を生む。


彼女の輝きが踏みにじられた。

その尊厳を、名誉を、未来をも奪われている。


指先が、ほんの少し震える。

震えは怒りか、悲しみか、それとも決意か。

多分、そのすべてが混ざり合っている。


Dクラスの女生徒用のスカートに強い違和感を感じる。

それでも、この姿が必要だった。

地味なDクラス用の制服を着用し、茶色の長い髪をなびかせる。

今はこうして周囲に「あの少女が戻ってきた」と思わせる必要がある。


だが、その印象は微妙に違うはず。

同じ顔、同じ髪でも、瞳の光は別人であった。


優しさの代わりに冷静な鋭さがあり、周囲は戸惑い、声も掛けづらい。

その戸惑いが、今は都合が良かった。


彼女のことを思い出すたびに胸が痛む。

リーシェが意識不明になった日、どれほど絶望したか。


笑顔を奪われた、才能を奪われた存在を前に、何もできなかった。

その悔しさ、惨めさが、今の鋭い視線の源にある。


内面の嵐を表に出さず、ただ扉を見つめる。

この木製の古びた扉は、かつてリーシェが通るはずのなかった道。

Dクラス――精霊術がまともに使えない底辺とされる者たちの集う場所。


あの日以前なら、彼女ならまっすぐAクラス棟へ行き、特別な実習室で優雅に訓練していただろう。

今、その幻を思えば思うほど、胃の底に熱い塊ができる。


許せない。


誰が仕組んだのか、まだ何もわからないが、この理不尽な結末は覆さなくてはならない。

たとえこの手が穢れても、リーシェを救わなければならない。


扉の表面に触れると、少しザラついた木肌が指先に伝わる。

まるで積み重なった無数の失望や妥協が、ここに沈殿しているようだ。

Dクラスの者たちがどんな目で見られ、どんな屈辱に耐えてきたか、この建物は知っているかのよう。


だが今、自分はその屈辱を甘受し、そこから這い上がる覚悟を固めている。

彼女の名誉を回復し、真実を突き止め、奪われた笑顔を取り戻すために。


静かに唇を引き結ぶ。

心の中で彼女の笑顔が揺れる。

遠い日の光景、優しい言葉、励ましが蘇る。

あの時、自分は笑顔に救われた。

今度は自分があの笑顔を救い出さなければならない。


……鳥が鳴く声が微かに聞こえる。


外縁部は閑散としていて、誰もこの扉を大々的に注目しない。

周囲の生徒は先ほど門前で迷い顔を見せた者たちとは違う顔ぶれがちらほら視界に入るが、彼らはここを利用する同族のような存在かもしれない。

Dクラス生たちは、「戻ってきたあの子」をどう受け止めるのだろう。


以前なら、彼女がDクラスへ降格なんてあり得なかった。

今は、その非常識が現実となっている。

不審と疑念で満ちた学園生活が再スタートする。


この瞬間、扉を開く行為は儀式に等しい。

もう後戻りはできない。

白銀の髪を隠し、茶色の長髪で「リーシェ」として歩む決意を行動で示す。

それでこそ、彼女の未来を取り戻すための第一歩になる。


覚悟を決め、重心を少し前にかける。

取っ手を握り込み、軽く力を込める。


薄暗い室内からどんな匂いが漂い、どんな生徒が待ち受けているのか想像もつかない。

不潔な環境かもしれないし、冷たい視線があるかもしれない。


だが、それらの苦難など、彼女が受けた苦痛に比べれば取るに足らない。

妹が眠り続ける限り、心が痛む空虚さに比べたら、どんな環境も乗り越えられる。

復讐や救出への道が険しいほど、決意はより固くなる。


かつて、自分にはこのような場所は縁がないと思っていた。

Dクラスが、というわけではない。“精霊術が使えない”自分が学園に通うことになるなどと夢にも思わなかったからだ。

だが、今はここが新たな出発点になる。


微かな軋み音が耳元で響く中、一筋の光が室内に差し込む。

光の中に、茶色い髪と深緑の瞳を持つ美しい少女が立っているように見える。


――だが、それはその名で呼ばれた存在、リーシェ・ヴァルディスではない。

そこに立つのは、リーシェを名乗るアルド・ヴァルディスという少年。


瞳はかつての穏やかさを失い、鋭く前を射抜く。

周囲が何を思い、どう困惑しようと構わない。


この不自然な変化を、今は誰にも理解できぬままでいい。

理解させるのは、これからだ。


決意と沈黙を纏い、その足はDクラスの簡素な空間へと踏み込む。

ここが、新たな戦場であり、始まりの地。


復讐と愛情が胸中で激しく交錯する中、アルド・ヴァルディスは、もう迷わない。


アルドは静かに、しかし確かな意思を込めて修羅の道を歩み始めた。

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