26 潜入
D5クラスの教室は、いつものように低い呟きや紙をめくる音が散らばる程度の静けさの中にあった。
古い窓枠から淡い日差しが差し込むが、その光は埃と混ざり合い、全体にやや薄暗い印象を与える。
アルド――今はリーシェ・ヴァルディスとして髪を茶色に偽装している――は、端の席でノートを閉じると、わずかな沈黙の中、仲間たちへ注意深く視線を巡らせた。
ツェリは相変わらずおとなしく、手元の薬草識別書を読みふけっている。
先日、彼女から得た情報と妹のメモを組み合わせて、C1のベルジが妹の仇を探し当てる上で重要な手掛かりになると考えたが、問題はどうやってベルジに接近するかだ。
DクラスからCクラスへの直接移動は困難。
長い廊下、分厚い結界、身分確認の警備……
原型上書きという強力な能力を持つアルドでさえ、一度に何人も乗り移る必要がある場合は、時間制限と連続使用による制約が厳しすぎる。
下手に無謀なチャレンジをすれば、制限時間切れや不審行動発覚のリスクが高まる。
アルドはペンを指先で回しながら考え込む。
試験の全員集合イベントでベルジに接触する案はあるが、まだ先の話だ。
このまま手をこまねいて、1ヶ月以上先の全二年生共通魔力適性標準試験まで待つのは気が進まない。
なんとか今のうちに少しでもCクラス領域の動きを探り、下準備をしておきたい。
「ねえ、リーシェ……」
少し離れた席からイルマが声を掛けてきた。
栗色ショートヘアでゴーグルを首にぶら下げたイルマは、魔道具いじりを趣味とする陽気な友人だ。
リーシェ《アルド》が「うん?」と軽く返すと、イルマは困った顔をして言葉を紡ぐ。
「この前の……また、あの資材倉庫に魔道具を作るための材料を取りに行きたいんだけど。最近また、同じようなCクラス不良がDとCの中間あたりの資材倉庫に来てるみたいなんだよね……。ほんと、何考えてるんだか……D側の場所なのに」
その言葉にアルドの目がわずかに光る。
資材倉庫……中間領域……Cクラス不良の出現……。
ここならC生に近づけるチャンスがあるかもしれない。
人目の少ない郊外施設でCクラスの不良を待ち伏せし、その誰かに乗り移ることでC領域へのアクセスが可能になるかもしれない。
だがイルマに計画を悟らせるわけにはいかない。
危険な目にあったばかりのイルマを巻き込む気はないし、彼女は正直者で心配性だ。
今はなるべく騒ぎ立てず、単独行動を取るほうがいい。
アルドは軽く肩をすくめる。
「また倉庫? 危険すぎるよ。イルマ、あんな場所行かないほうがいい。前回だって危なかったのに、危ないことはやめてよ」
イルマは「そうだよね……うん」と、少し残念そうに呟く。
だが、リーシェ《アルド》が止めるなら素直に引き下がるようだ。
「ありがとう、リーシェ、心配してくれて。私もまた危険な目に遭いたくないし、やめておくよ」
笑顔を浮かべ、イルマはあっさり納得した。
話が終わると、アルドは「用があるから」とさりげなく席を立つ。
ツェリが顔を上げるが、「ちょっと外の空気吸ってくる」と言い残し、イルマたちと別れる。
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Dクラス棟の裏手には少し広がった空き地があり、その先に伸びる道を辿れば、問題の「資材倉庫」がある一帯に行けるはずだ。
前回レヴンとの事件が起きた場所付近。
あの時はイルマが巻き込まれたが、今回は一人で行動する分、奇襲や監視を避けやすい。
アルドは新鮮な風を吸い込み、ほんの一瞬だけ目を細める。
Dクラス領域からCクラス領域への直接移動は、正面ゲートをくぐれば身分やクラスの記録が残る。
原型上書きでDクラスの教師に乗り移りCクラス領域へ向かうにはリスクが高い。
しかし、中間領域の資材倉庫でC不良を待ち伏せし、一度だけCクラス生に乗り移れば、不自然な記録を残すことなくCクラス領域に入れるかもしれない。
地面を踏みしめながら歩く。
人気の少ない道中、下校や自主練習で皆いなくなっているため、警備も手薄だ。
(Dクラスから離れた郊外なら、Cクラスがこっそり入ってくる余地がある。ここでCクラスの不良へ乗り移れば……)
視界の先に草むらや荒れた敷地が広がり、古びた資材倉庫が見えてきた。
コンクリ風の壁面にはひび割れが走り、内部には先日の戦闘の傷跡がそのまま残されている。
人気はなく、風が少し鳴るだけ。
アルドは廃棄された箱や木片の影に身を潜め、待ちの体勢を取る。
(本当にCクラスの連中が来るのか?)
諦めかけた頃……しばらく耳を澄ますと、遠くで複数人の軽い足音が近づく気配がある。
風がカサリと音を立てる。遠巻きにくぐもった笑い声。
3人ほどの人影が倉庫へ近寄ってくる。
(いい展開だ。この中から一人選ぶ)
「なあ、バスコ、先輩が言った素材は昨日も持っていったろう? 毎回こんなとこまで取りに来る必要あんのかな」
「さあな、先輩がまた行ってこいって言ってたろ。足りなかったんじゃねえか」
「それなら最初から必要な数を言っとけよ、面倒くせえ」
古びた資材倉庫の内部は薄暗く、埃が積もった木箱が不規則に積まれている。
そこにCクラス生らしき三人組が軽い雑談を交わしながら入り込んできた。
上級生のようで、やや落ち着いた声色だが、動作に退屈気味な雰囲気が漂う。
「ま、気にしても始まらねえさ。俺だって不満はあるが先輩には逆らえやしねえだろ」
「そうだな、ハンツ、ここは人も来ねえし、そこに積んであるやつ持ってきゃいいだろ」
「またこんな場所まで来るのは面倒だから全部持ってくぞ。たく、これで最後にして欲しいぜ」
三人の会話を盗み聞きしながら、口調や立ち振る舞いを観察し、乗り移れるタイミングを待つ。
断片的な情報から判断するに彼らの名はハンツ、バスコ、そして三人目は軽口が多く名乗っていないが、皆3年のC5所属らしい。
素材を取りに来ただけのようだ。
「もうすぐ日が暮れる、戻ろうぜ。ゲートが閉じると面倒なことになる」
「おう、バスコ、荷物忘れんなよ」
「わかってるって」
そう言いながら、三人は倉庫内の暗がりから出て行こうと足音を立て始めた。
夕闇に沈む頃――三人組が立ち去ろうとするとき、アルドは壁際から静かに回り込む。
一番後ろを歩くバスコと呼ばれた背の高い男……彼が狙いだ。
アルドはレヴンに対して行った動作を再現するかのように、右手を空中にかざし、指先でバスコの頭を握りつぶすかのように動かす。
その瞬間、アルドの瞳が淡く白銀色に滲む。
深緑の瞳が透けるように変化し、かすかな光が反射して暗がりに輝き始める。
原型上書きが発動し、不可視の鎖がバスコの精神と体を締め上げる。
わずかな抵抗が起きる前に、アルドはバスコの中へ入り込み、意識を奪った。
その結果、アルドの元の身体は倉庫の地面へ崩れ落ちるように倒れ込む。
アルドの体が倒れたことで微かな物音が響く。
ハンツが
「おい、待った! 今、物音がしたぞ」
と警戒を滲ませるが、バスコは素早く
「あぁ、俺が荷物を落としただけだ」
と軽くごまかす。
「おい、落とすなよ。わざわざ探したんだからよ」
もう一人が小声で返し、そのまま三人は倉庫から出ていく。
アルドがバスコを完璧に操ったおかげで、仲間たちに疑いは生じないままだった。