23 降格の理由
翌日、淡い光がDクラス棟の教室を照らしていた。
この一帯は学園の底辺層が集う場所として扱われており、Aクラスの優雅な廊下と比べると床板は少し軋み、窓枠も簡素だ。
しかし、そこには生活の匂いがあり、努力や不満、淡い希望を内包した生徒たちの足音が響いている。
アルドはリーシェとしてD5クラスの教室へ足を踏み入れた。
その視界の端に、ツェリがいた。
穏やかな目をしているが、今は下を向いてノートをいじるだけ。
クラスメイトの輪から外れ、距離を置かれている様子は明白だ。
昨夜、ツェリは戸惑いながらもリーシェの部屋を訪ねてきたが、具体的な悩みは語らなかった。
その態度が少し気になる。
ほんの十数分して、他の生徒も席に着き始める中、ツェリの机に数名が近づいた。
彼らは半笑いで、冷たい声を投げかける。
「おいツェリ、聞いたぜ。お前、Cクラス時代に不正働いてたんだってな。それがバレてDまで落ちたんだろう?」
ツェリはハッとして顔を上げ、「違う…」と抗議するが、その声は弱々しい。
相手は「何が違うんだよ、実際にDに落とされてるじゃねーか」と揶揄する。
周囲の生徒は面白がるでもなく、興味なさそうに視線を外すか、見て見ぬふりだ。
ツェリは沈黙し、悔しさを飲み込み、傷ついた目で机を片付けて立ち上がる。
そして無言で教室を出ていった。
アルドはこの小競り合いを黙って見ていた。
(ツェリが不正? それは無いはずだ)
理由は単純だ。ツェリの実力は、試験内容やちょっとした実技を見た限り、Dクラス不相応に高い。
努力家であり、治癒術や薬草知識にも精通していると噂で聞く。
彼女の実力はDよりもB寄りだろう。
アルドは静かに席を立ち、ツェリを追いかけて廊下へ出る。
廊下には人気がまばらで、先ほどの生徒たちは教室内に残っている。
外の光が少し明るくなり、ツェリの背中を浮かび上がらせる。
彼女は廊下の突き当たり、窓辺で外の中庭を見下ろしている。
肩が微かに震えているようにも見える。
「ねぇ、ツェリ」
アルドは柔らかな声でツェリに話しかけた。
「リーシェさん……?」
ツェリは驚いたように振り返る。
「私はあなたが不正行為なんてしていたとは思えないんだけど。何があったの?」
アルドがストレートに疑問をぶつけると、ツェリは一瞬戸惑う。
その眼差しには人を嘲る色がない。
「あなた……は、違うの?」
思わず呟くように問い返すツェリに、アルドは首を傾げる。
「違う? 何が?」
ツェリは頷くような、頷かないような微妙な仕草をして、深呼吸した。
「……Cクラスにいた頃、私は貴族派の不正を見てしまったの。禁制薬物や特殊な魔道具で評価を底上げしているところを」
その告白は静かだが衝撃的だった。
アルドは耳を澄ます。
貴族派が不正によって評価を操作するなど、予想の範囲内とはいえ、実際に被害者が目の前にいることに不快感と怒りが込み上げる。
「正しいことをしたかった。誰かに告発して止めたかった。でも、誰も信じなかった。逆に私がでっち上げたとされ、評価を不自然に下げられて…気づいたらDクラスまで落とされてた」
ツェリは唇を噛み、悲痛な面持ちで続ける。
「今は誰も理解せず、私を嘘つき扱いする……」
「私はあなたを信じるよ」
アルドはツェリの手を軽く握り即答した。
その言葉にツェリは大きく目を見開く。
いつも拒絶と嘲笑ばかり受けてきた彼女にとって、ここで素直に信じてくれる人が現れたことが信じられないようだ。
「……なんで?」
ツェリは微かに声を震わせて問う。
「証拠もないし、誰も信じてくれないのに」
「証拠がなくても私はあなたを信じる。あなたは不正を行うような子じゃない。……それに、あなたほどの実力ならBクラスのほうが自然だわ」
アルドは理知的に答える。
本音を言えば、妹の事件の件もあり貴族派をまるで信用していないし、ツェリの話はアルドの仮説とも合致する。
「ありがとう…」
ツェリは目を潤ませ、微笑んだ。
心底安堵した表情だ。
彼女は初めて共感者を得たのかもしれない。
長い間、誰もが軽蔑し嘲った中で、一人の同級生が素直に信じてくれた喜びが滲み出ている。
「さっきの話、もう少し詳しく聞いてもいい?」
アルドは静かに尋ねる。
ツェリは頷き、かつてCクラスにいた頃の出来事を語り始めた。
Cクラスは学園内で実力重視とされているが、実際には微妙な政治的力学や貴族の影響が潜んでいるという。
点数や評価は公平に見えて、実力以外の力が密かに働いていた。
ある日、ツェリは同じクラスの貴族生徒が禁制薬物や特殊な魔道具を使って不正に評価を底上げしている現場を偶然目撃してしまった。
彼らは何食わぬ顔で成績を伸ばし、上位に居座る術を心得ていた。
真面目で正義感の強いツェリは、それを見過ごせなかった。
才能と努力が正当に評価されるべきだと信じていた彼女にとって、許しがたい光景だった。
Cクラスには優秀な者が多いが、その裏で貴族派閥が暗躍していることをツェリは無視できなかった。
彼女は上層部や教師へ告発を試みる。
正しさを示せば必ず真実に耳を傾けてくれる――そう信じていた。
しかし、学園が動く前に貴族派は先手を打った。
彼らはコネや権力を駆使して逆転の構図を作り上げ、ツェリが“不正行為を働いていた”とでっち上げた嘘の証言を広め、多くの者を買収したり説得したりした。
教師や学園理事会がツェリの告発を受け不正の調査に乗り出したが、証拠は一切見つからなかった。
逆に、不正をしていたのはツェリ自身だと証言するものが多くあらわれ、真面目な生徒だったはずのツェリは罪を被せられる形になった。
ツェリが不正をしていたという明確な証拠もなかったため、正式な処分ではないが、“暫定的な不正による評価低下”という曖昧な処置で、ツェリの評価は不自然なほど下げられた。
結局、彼女は本来ならBクラス昇格も狙えたほどの実力者だったのに、一気にDクラスへの転落を強いられたのだ。
ツェリの声は淡々としているようで、一つ一つの言葉が苦く重い。
アルドは黙って聞きながら、妹を害した貴族派が似たような手口で他の生徒を陥れている構図を想像する。
ツェリが告発しようとした不正がなかったことにされ、逆に彼女が加害者扱いされてしまった過去――それが今のDクラス生活を苦しめ、彼女を孤立させているのだ。
「その貴族生徒について、もう少し教えてくれない?」
アルドが静かな声で尋ねると、ツェリは微かに目を伏せ、記憶を辿るような仕草をした。
「えっと、C1クラスにいるソシアさんとベルジさん、それにC2クラスのハザルドさんよ」
ツェリは慎重に名を挙げる。
古い記憶を引きずり出すような口調だった。
アルドはその中の一名に引っかかりを覚える。
妹が遺したメモ――そこには妹が事故前に調べていた人物のリストがあった。
その名簿とツェリが示した名前が合致するかもしれない。
胸中で確信めいた手応えを感じて、アルドはさらに問いを重ねた。
「ベルジ、という者のフルネームを教えてくれない?」
「確か……ベルジ・ドリベールだったかな」
ツェリは不確かだが思い出せる限りの情報を素直に伝える。
(やはり繋がった。妹の事故には貴族派が絡んでいる可能性がある。そして同じような不正や闇行為を繰り返しているなら、妹の仇に近づくための道しるべになる……)
アルドは心中で決意を新たにする。
ここで得た名前は、妹の仇を探し当てる上で重要な手掛かりになるかもしれない。
「ありがとう、ツェリ。あなたのおかげで大切なヒントが見つかったわ」
アルドは感謝を込めて微笑みかける。
ツェリは首を傾げ、「ヒント?」と小声で疑問を呈するが、アルドは軽く首を振ってはぐらかす。
「ううん、私の個人的な用事よ。あなたを巻き込むつもりはないから安心して」
ツェリはそれ以上問い詰めず、ただ安堵の息を吐いた。
ようやく誰かが自分の言葉を信じてくれたという事実が、彼女の心を満たしているのだろう。
多くを求める余裕などなく、今はそれだけで十分だ。
「本当に、ありがとう」
ツェリは目元を潤ませながら、微かな笑みを浮かべる。
「気にしないで。あなたが正しいことを私は信じている。それで十分よ」とアルドは優しい声で応じた。
ツェリはもう一度微笑み、少しだけ軽くなった足取りで立ち去っていく。
その背中には、さっきまでまとっていた悲壮感が和らいだ気配があった。
彼女は初めて理解者を得たことで、ほんの僅かな救いを見出したのだろう。
アルドはツェリの足音が遠ざかるのを待ち、廊下で一人佇む。
妹が残したメモと、今聞いたCクラス上位者の名前が一致する。
つまり、ツェリが不正告発で陥れられた事件と、妹の事故で関与が疑われる貴族派の悪行が似た構図で繰り返されているのだ。
あの時ツェリが告発しようとした不正は、今も尾を引き、貴族派は同様の手口で非貴族を踏み台にしている可能性が高い。
この確信はアルドにとって大きな一歩だった。
貴族派が学内で権勢を握り、陰で点数操作や禁制薬物を用いているという事実は、妹の仇追跡に必要な糸口になるだろう。