20 アリシア・フォン・フェルベール
ーー1ヶ月前、アルドが“リーシェ”として初めて学園へ足を踏み入れた日のこと
朝の鐘が鳴り止む頃、Aクラスの教室はすでに落ち着いた空気に包まれていた。
ここは学年最高峰、貴族や優秀な推薦生が集う特権的な領域。
アリシア・フォン・フェルベールは静かに席について、周囲を見回した。
貴族科出身の有能な生徒として多くの期待を一身に背負う彼女は、クラスメイトからの視線を自然に受け止めながら、微かな緊張感を秘めている。
アリシアは学園の成績上位者の一角として、このAクラスで日々を積み重ね、さらなる高みを目指すのが常だったが、今日は少し胸に重みがあった。
理由は簡単だ。
かつてAクラスで共に学び、彼女ですら上回る精霊術制御力を誇っていたリーシェ・ヴァルディスがDクラスまで降格したという報せを聞いたからだ。
リーシェは天才的な魔力才能を持ち、誰よりも整然とした術行使で、アリシアをはじめ多くの生徒から尊敬されていた存在。
あのリーシェが魔力暴走?
そんなはずがない。
アリシアは年次最終試験の日から、ずっと疑問が渦巻いている。
(本当に、あのリーシェが暴走したの? 信じられない。貴族派閥が妙な動きをしているって噂もあったし、これは事故じゃなく事件ではないだろうか)
そう考えていると、教師が入室してきた。
Aクラスの担任、エランドラ・ニムヴァル先生だ。
エランドラは背が高く、落ち着いた藍色の長衣を纏い、光沢ある金属髪飾りをつけている。
風と土の二属性精霊術を使いこなすデュアルコントラクターだ。
学園内でも稀有な指導力と総合力で知られる超優秀な教師で、表情は常に穏やかだが、その瞳の奥には精査するような鋭さを秘めているらしく、Aクラス生すら畏敬の念を抱く相手だった。
「皆、おはよう」
エランドラは静かに言葉を紡ぐ。
彼女が前に立つと、クラスの誰もが自然と背筋を正す。
Aクラスは貴族や特権階級の者が多く、基本的に自信家揃いだが、この教師に対しては軽率な態度をとれない。
2年生になった朝、まずは簡単な挨拶が行われる。
新入生はいないため顔ぶれは基本同じはずだが、一つだけ変わった点がある。
エランドラは一息置き、目を伏せてから切り出す。
「先日、Aクラスの有望生リーシェ・ヴァルディスが降格した件は残念だが、全員平等に結果を受け止め、精進してほしい」
この言葉で教室内の空気が微妙に揺れた。
(平等に結果を受け止めろ、だなんて……)
アリシアは内心、僅かに眉をひそめる。
リーシェは魔力制御において自分以上だったはず。
魔力暴走なんて、彼女がやるはずがない。
何か裏がある。
貴族派閥による陰謀か、あるいは学園上層部の工作なのか。
アリシアは以前から不審な噂を聞いていて、独自に調べ始めている最中だった。
エランドラは他にも2年生カリキュラムや今期の研究課題について手短に説明し、「以上で初日の挨拶を終える」と告げて、静かに教室を後にする。
軽く風を起こすような見事な足取りは、風精霊術の心得を感じさせ、教室に残った生徒たちは一瞬感嘆するが、それもすぐに消える。
先生が去った直後、教室はざわつき始めた。
「リーシェが落ちたって、本当なのか?」
「過去に例のないD落ちって聞いたよ」
「意識は戻ったけど、精霊術が使えなくなっちゃったんだって」
「信じられない、あの天才が、ねぇ……」
様々な声が交差する。悲嘆する者、「平民ごときがAクラスなんておかしかったんだ」と嘲る者、ただ単に驚いている者もいる。
リーシェは美しかったから彼女に憧れた男子もいれば、その才能と存在感に嫉妬していた者もいた。
「どっちにせよ、助かったならよかったよ。でも精霊術なしでDクラスなんて、これからどうするんだろう……」
としんみり呟く生徒もいる。
アリシアはこれらの噂話を黙って聞きながら、目を伏せる。
その横で、リーシェとの共通の友人でもあるミシャが、あくまで平静を装うような声で言葉をかけた。
「状況が変わっただけよ」
それは淡々とした一言だったが、彼女の視線は微妙な揺らめきを宿している。
アリシアは目を細め、ミシャの横顔を一瞬捉える。
何か言いかけたが、結局は何も言わず微かに息をついた。
周囲で飛び交う噂話の中、二人は言葉少なに、揺れ動く学園の空気を静かに味わっていた。
(リーシェ……本当に大丈夫かな。今すぐにでも会いに行きたいけれど、Dクラス棟ははるか下……)
学園は諍いを避けるため、上位クラスから下位クラスへの移動には厳しい制約を課している。
AからBへ行くには特別許可が必要。
それより下へ行くのは事実上不可能。
AクラスにいるアリシアがDクラスに直行する事などできるはずもなかった。
(でも、リーシェはDクラスにいる。あの子が苦しんでいるかもしれないのに、顔を見ることすらできないだなんて……)
アリシアは小さく息を吐く。
「ねぇ、ミシャ」
もう一度、隣の席の友人に声をかける。
「リーシェに会いに行く方法はないかな?」
ミシャは苦笑気味に答える。
「ええ、私もリーシェに会いに行きたいわ。けど、今は難しい……」
「そうよね……」
アリシアは再びため息をついた。
リーシェはAクラスにいた頃、アリシアとリーシェは共に高みを目指すライバルであり親友だった。
今、その友人がDクラスにいるという。
精霊術を失い、まるで別世界に取り残されたような状況。
(会いたい……)
そう思い立ったアリシアは、さほど考えずに席を立つ。
「ごめん、ちょっと用事があるから」
ミシャは訝しがるが、「うん、またね」程度で深く追及しない。
アリシアはそっと教室を抜け出す。
廊下を歩く中、アリシアはエランドラ先生の姿を探した。
教師なら、正当な理由を用意すれば、リーシェとの面会を取り付けられるかもしれない。
Aクラスの貴重な人材だったリーシェが落ちたのは学園にとっても痛手だろうから、何か特例をもぎ取れないかと考える。
やがて、エランドラが資料室へ向かうのを見つける。
アリシアは急ぎ足で近づき、静かな声で呼びかけた。
「先生、お時間よろしいでしょうか?」
エランドラは振り返り、穏やかな面持ちで応じる。
「どうした、アリシア? 初日から熱心だな」
アリシアは息を整え、
「Dクラスにリーシェがいると聞きました。彼女に会いたいのです。状況を確かめたい」
と率直に告げる。
エランドラは微妙な表情を浮かべる。
「……分かっていると思うが、Aクラスから2ランク以上下へ行くことは禁じられている。Dクラスへ赴くなど、論外だ」
アリシアは苦しそうに言葉を続ける。
「でも、リーシェは私たちの仲間でした。事故とされているが、私は疑問を拭えません。直接確かめなければ……」
エランドラは軽く首を振る。
「アリシア、規則は規則だ。どんなに実力者であろうとも、2ランク下への行き来は許可できない。そもそも、Aクラス生がおいそれと下位クラスに足を運べば、格差や派閥対立を煽りかねん。学園は過去にそれで争いが起きたことを忘れたか?」
その声は優しいが、譲らない意志を秘めている。
アリシアは唇を嚙みしめた。
「……分かりました、先生」
仕方なく一歩下がり、頭を下げる。
ここで無理を通せば、かえって目立ち、貴族派閥や上層部に怪しまれる。
エランドラは淡々と付け加える。
「もし何か公的な行事があれば、全クラスが一堂に会する機会もある。そういう場であれば顔を見ることくらいはできるだろう」
言外に“ルールを守って手段を考えなさい”と言っているようだった。
(確か、2ヶ月後に全二年生共通魔力適性標準試験があるはず……その時なら、Dクラスのリーシェも来るだろう。みんなが一堂に会する場であれば会話くらいできるかもしれない……けれど2ヶ月も先だ……)
「あぁ、そうだ。もう一つ方法があったな。ちょうどリーシェにも関係することだし、君なら最適だろう」
エランドラが笑みを浮かべてアリシアに告げる。
「なんでしょう? 教えて下さい」
アリシアは藁にも縋る思いで口にする。
「リーシェが倫理監査委員だったのは知っているね? 倫理監査委員には各学年のAクラスの成績優秀者が選ばれるが、リーシェが欠員になったため2年Aクラスから後任を選出する必要がある」
「倫理監査委員の捜査権限でリーシェのいるDクラスへ行ける……ということですか?」
「あぁ、倫理監査委員になれば捜査権限やクラス区間の移動の許可が得られるだろう。まぁ申請は必要だし、正当な理由も必要だから今すぐにと言うわけにはいかないがね」
「わかりました。私にやらせてください!」
教室に戻る道すがら、アリシアは最初に感じていた胸の重みが少し軽くなっている気がした。
(これでリーシェに会いに行ける……早く会いたいわ、リーシェ……)