17 復讐の刃
――あの時、目の前でかすかな物音がして、アルドの肉体が力なく床へ崩れ落ちた。
倒れ込んだその姿はまるで抜け殻。
今、自分はレヴンの体内にいて、目の前には自分だったはずの体が転がっている──
この異様な感覚が胸を突く。
(あれが俺の体……でも、今は俺がレヴンの中にいる。こんなことがありえるのか)
アルドは焦りを抑え、無闇に動き回る代わりに視線だけを慎重に移動させた。
もし誰かがこの瞬間を注意深く見ていたのなら、レヴンの瞳が翠色から変化し、白銀色の輝きを帯びていることに気づいただろう。
ナジャの干渉によって宿った特有の光が、瞳の深奥を染め上げていた。
倉庫の中では、Cクラスの取り巻きたちが呆然と立ち尽くしている。
先ほどの神秘的な光や奇妙な現象をまったく理解できず、彼らは一様に困惑と戸惑いを露わにしていた。
「あの光はなんだったんだよ……?」
「さっきまで苦しんでたのは、もう大丈夫なんですか……?」
「リーシェが突然倒れたぞ」
「レヴンさんがやったんですよね?」
低い囁きが飛び交う。彼らは倒れ伏すリーシェを見て、レヴンが仕留めたと信じ込んでいるようだ。
まさか中身が入れ替わっているなど、夢にも思わない。
アルドは心中で小さく嘲笑を浮かべた。
(勘違いもいいところだ。だが、利用価値はある)
彼はレヴンの口元を、できるだけ自然に緩めてみた。
唇や頬の筋肉も微妙に感覚が違うが、少しずつコツを掴む。
「やりましたね、レヴンさん」
一人が称賛を込めて近寄りかける。アルドは目を細め、この肉体でできることを試すべきだと考えた。奴らは疑っていない今が好機だ。
(この体は風属性の精霊術を扱うはず……どれほどの魔力回路を持っている?)
アルドはレヴンの右手をゆっくりと上げてみる。手首をひねり、指先を軽く揃える。
その瞬間、微かな気流を感じる。
空気が袖口を撫で、床に積もる埃がささやかに舞い上がった。
「レヴンさん、どうしたんですか……?」
取り巻きの一人が首をかしげるが、アルドは気に留めない。
今は魔力の流れを手探りしている最中だ。少しずつ意識を集中し、風の流れを強める。
ふわりと埃が渦を描く。髪が、かすかな抵抗を感じて揺らめく。
(これが奴の精霊術か……意外と扱えるな)
理屈ではなく感覚で理解する。アルド本体は精霊術を使えなかったが、今はこの肉体を介して魔力回路へ直接干渉できる。
契約済みの精霊との繋がりも継続し、術発動に素直に応じるらしい。
取り巻きたちはまだ事態を飲み込めず、薄い笑いを浮かべながら「レヴンさん、もう大丈夫なんですよね?」と声を掛ける。
アルドは無視して、さらに風の流れを高めるべく手をわずかに振った。
頬をかすめる微風――まだ弱いが、力の感覚は掴めた。この肉体でなら精霊術を十分に扱うことができるだろう。
アルドは状況を楽しむように思案する。
(妹の仇ーーその片棒を担いだ者達。散々人質まで取って俺を殺そうとした。ここで奴らを実験台にして何が悪い?)
元々、心は復讐に染まっていた。
今、新たな力を得たアルドは、この取り巻き連中を使い力を確かめ、快楽的ともいえる破壊衝動を満たそうと決意する。
次の瞬間、風の流れが微笑とともに鋭利な刃へと変わる予兆が、闇に沈む倉庫で静かに息づいていた。
アルドの唇が自然に綻ぶ。
先ほどまで沈黙していた凶器が、今は自分の手足のように操れる。
視線を前に向けると、取り巻きの4人が、上司と思い込んでいるレヴンを不安げに見つめていた。
「レ、レヴンさん……?」
怯えた声が宙を彷徨う。アルドはわざと無言を貫く。
彼らの視線が倒れたリーシェからレヴンへと移る。その一瞬、アルドは手を軽くかざし、風の流れを鋭い刃に練り上げる。
金属音のような風切り音が短く響いたかと思うと、最も近くに立っていた取り巻きの一人が、呆気なく真っ二つに裂かれた。
「え……?」
そいつの問いかけは最後まで形成されない。血の飛沫が薄暗い倉庫の空間を横切り、床を赤く染める。
「レ、レヴンさん!? なんで……」
他の三人が悲鳴を上げ、後ずさる。激しい動揺が走るが、アルドはその様子を冷酷に観察し、体の震えを自覚する。
だがそれは恐怖ではない。
(なるほど、こうやって精霊術を使うのか……)
まるで微細な魔力回路が指先に溶け込み、意思に応じて鋭利な刃を紡ぎ出せる。
理屈抜きで理解できるこの感覚が、復讐心をさらに煽る。
「な、なぜですかレヴンさん!?」
三人が絶叫し、足をもつれさせながら逃げ場を探す。
この倉庫は閉ざされている。アルドは相変わらず無言。答える必要はない。今は力を確かめる時だ。
指先の微かな動きと共に、風が猛る。
一人目には壁へ向かう強風を叩きつけ、脳髄が砕けるほどの衝撃で沈黙させる。
壁に叩きつけられた死体が滑り落ち、床に血の水溜まりを作った。
続いて二人目には突風の槍を形作る。
身体に流れる魔力回路を丁寧に感じ取り、意識を集中すれば、風は鋭い突起を創り出す。
「ひっ……!」
悲鳴を上げる間もなく、そいつの胸を貫通した風の槍が、命の輝きを一瞬で絶つ。
肉を裂く音と共に、血の臭いがさらに濃くなる。
最後の一人は膝をつき、泥のような涙と涎を垂らして命乞いをする。
「お、お願いです、助けて……わ、私はレヴン様の命令に……」
懇願の声が薄汚く響くが、アルドは冷ややかな眼差しでそいつを見下ろす。
もう迷わない。わずかな風の打撃で首を弾くように吹き飛ばした。
血が、頭部が、宙を舞い、床に転がる。
刹那の沈黙が降りる。
すでにこの倉庫に立っているのは、レヴンの身体を奪ったアルドだけだ。
アルドは深く息を吐いた。
もっと正確には、次の行動を冷静に判断しているかのように見える。
周囲には、先ほどこの場所まで連れてきた不良や、最初に体術で倒した5人が気絶して転がっている。
だが彼らはまだ息がある。何らかの形で証拠が残るかもしれない。
「使える能力は何でも試そう……」
そう心の中で呟き、アルドは再び風を呼び起こす。
今度は宙に舞う刃が、すでに倒れている者たちの死骸を木端微塵に切り刻んだ。
肉片が飛散し、骨や臓器の欠片が混ざり合い、血の飛沫が狂気じみた模様を描く。
これはもはや証拠隠滅どころではない。
復讐と怒りが制御不能な形で発露し、理性と狂気が入り混じる。
アルドは、その行為から罪悪感を感じ取れないことに気づく。
むしろ、淡々と「なるほど、こうすれば痕跡は残りにくいな」とさえ思う。
血塗れの倉庫で、アルドは微動だにせず、わずかに呼吸を整えた。
妹の仇を討ち、力を試しても、罪悪感はない。
それが、彼がいかなる存在になりつつあるのかを示す証のように、赤黒く燃え立つ復讐心が胸の内で唸り続けていた。