エピローグ
アルドは、Dクラスの古くて埃っぽい空き教室の扉を開けた。軋む音にわずかに眉をしかめながら、中に足を踏み入れる。かつての学習机や椅子が無造作に積まれ、窓から差し込む光に埃が舞っている。人気のない空間には、どこかひんやりとした静寂が漂っていた。
扉を閉め、古びた机に腰を下ろすと、先日の出来事を思い返す。
メリディアは完全に命拾いし、闇属性の力が露見することなく、ルーメン・テネブレの指揮を続けることができている。そして、妹の仇の主犯格でもあるマリアを討つことができた。
目的は果たせた。しかし、胸の奥には言いようのないざわつきが残っている。
(……俺はアリシアとの約束を……)
思考がそこまで及んだ瞬間、教室の扉が急に開いた。中に入ってきたのは、アリシアだった。彼女は、リーシェの姿をしているアルドを見つけると、声をかけた。
「リーシェ、もうきていたのね」
アリシアの表情は、少し険しい。彼女は、学内で広まっている噂について話し始めた。
「あれ以来、不審死は起きていないけれど、白銀の裁定者を肯定するような発言や噂は、今まで以上に学園中で大きな広がりを見せているわ……」
アリシアは、眉をひそめて続けた。
「ルーメン・テネブレの組織力が、この一件でさらに拡大しているのではないかと、私は懸念しているわ」
アリシアは、自身やリーシェを殺そうとしたマリアが倒されたこと、そして模倣犯が検査で見つからなかったことを知り、複雑な思いを抱いていた。彼女の表情には、怒りと悲しみ、そして僅かな恐怖が入り混じっていた。
「あれから検死も行われたけれど、今回もBクラスの時と同じで『ほぼ外傷はないのに内面的な破損が著しい』という、原因不明の死だったそうよ。でも、薄い傷や内部の損傷から考えて、ルーメン・テネブレの闇術によるものでしょうね……」
アリシアの言葉に、アルドは内心で安堵した。自分が仕組んだことが、見事に模倣犯の仕業として処理されている。これで、自分の身に疑いが及ぶことはないだろう。
「そうか……」
アルドは、平静を装って短く答えた。そして、アリシアが何かを思い出したように、少し疑わしげな視線を向けてきた。
「そういえば、アルド……あなた、あの時ちょうどいなかったけど、何をしていたの……?」
(くっ……)
アルドは、一瞬言葉に詰まったが、すぐに言い訳を考え出した。
「……トイレだ」
「会場についてからずっとトイレに行っていたの……?」
アリシアの目はどこか疑わしげだ。アルドは苦笑いしつつ、さらなる弁解を口にする。
「あー……ほら、俺は男だが、リーシェの姿で男子トイレに入るわけにはいかないだろう?かといって、女子トイレに入るのも、女性に対して申し訳ない。だから、中に人がいない状況になってからトイレを使うようにしているんだ。せめてもの配慮ってやつだな」
アルドは、できるだけ誠実な表情を作り、もっともらしい口調で説明した。この言い訳が、アリシアに通用することを祈りながら。
アリシアは、アルドの言葉をじっと聞いたまま、息を詰めている様子だった。やがて、頬を赤く染めて視線を落とした。
「そ、そう……ご、ごめんなさい……デリカシーがなかったわね……」
どうやら、アルドの言い訳は成功したようだ。アリシアは、自分の質問が不用意だったことを恥じているようだった。
アルドは、内心で安堵の息を吐いた。なんとか、アリシアの疑いをかわすことができた。しかし、同時に、アリシアを欺いていることへの罪悪感も、僅かに感じていた。
「あ、そうだ。あともう一つ、確かめたいことがあったのよ」
アリシアは、少し躊躇いがちに、しかし重要なことを切り出すように言った。その表情は真剣そのものだった。
「先日、B区画でマリアがあなたに腕を落とされた時の話だけど、彼女、言っていたの……貴方がトライコントラクターどころか、五つの属性を操るマルチコントラクターだって……光と闇も操ったとも言っていたわ——」
アリシアの言葉に、アルドは息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、全身に冷や汗が流れるのを感じた。マリアがそんなことを言い残していたとは、予想外だった。アルドは、頭を高速で回転させ、言い訳を考え始めた。一瞬の沈黙の後、彼は落ち着いた声で話し始めた。
「……それは、俺ではない。ルーメン・テネブレのやつらだ」
「え、どういうこと?」
アリシアは、アルドの言葉の意味が分からず、怪訝そうな表情を浮かべた。
「闇術……については、正直詳しくないが、どうやら幻術に長けた力があるらしい。幻術で”白銀の裁定者”を生み出し、マルチコントラクターなんていう、とんでもない幻を相手に見せて、神秘性やら畏怖などを与えているみたいだ」
アルドは、できるだけもっともらしい口調で説明した。幻術という言葉を持ち出すことで、マリアの証言を曖昧にし、自分の新たな力から目を逸らそうとしたのだ。
「俺がやつの腕を落とした時は、ルーメン・テネブレのメンバーの風使いの男を使っただけだ。仮に俺が闇を使おうと思ったら、闇使いの身体を乗っ取る必要がある、のは知ってのとおりだ」
アルドは、アリシアが知っている既知の情報を持ち出し、自分の言い訳に信憑性を持たせようとした。
「幻術……確かに、闇術は幻術にも長けると言われているわ……ありえるわね……」
アリシアは、アルドの説明を聞きながら、顎に手を当てて考え込んだ。闇術が幻術に長けているという話は、彼女も聞いたことがあった。アルドの言い分にも、一理あるように思えた。
「ま、そういうことだ。俺には闇術は使えない」
アルドは、念を押すように言った。これで、アリシアの疑念を完全に払拭できることを願っていた。
「ご、ごめんなさい。私、この前もう二度と疑わないなんて言ったくせに……」
アリシアは、申し訳なさそうな表情で俯いた。彼女は、以前アルドを疑ったことを後悔しており、再び同じことをしてしまったことに罪悪感を感じていた。瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「い、いや……疑うのは自然だ、むしろ疑わないほうがおかしい……。気にするな」
アルドは、フォローしないほうが良い場面だと理解しながらも、ついアリシアを慰めてしまった。彼女の悲しそうな表情を見て、放っておけなかったのだ。
「ううん、謝らせて……私、あなたが復讐をやめてくれたの、本当に嬉しいの。疑っちゃ失礼よね」
アリシアは、顔を上げ、アルドに微笑みかけた。その笑顔は、曇りのない、純粋なものだった。
アリシアの微笑みを見たアルドは、再び胸が締め付けられるような感覚に襲われた。彼女の純粋な笑顔は、アルドの心を強く揺さぶる力を持っていた。
しかし、彼は固く決意していた。もう迷わない。かつて、アリシアとの約束を優先し、マリアを仕留め損ねた。その結果が、今の状況を招いている。同じ過ちは二度と繰り返さない。
(俺はもう迷わない。リーシェの敵はすべて殺す。 たとえ、アリシアを欺くことになったとしても——)
アルドの心の中で、冷たい決意がこだまする。彼は、復讐のために全てを捧げる覚悟を決めた。たとえ、アリシアを騙すことになったとしても、止まらない。
(フィリオ・ブレイ・クレール……そして、リーシェを裏切ったミシャ・アルプウェイ……)
アルドの脳裏に、復讐すべき二人の名前が浮かんだ。フィリオは、妹の仇であり、全ての元凶。ミシャは、友情を裏切り、リーシェを陥れた憎き裏切り者。この二人だけは、絶対に殺す。アルドの決意は、これまで以上に強固なものとなっていた。
「アルド、聞いてる?」
「……ああ。ちゃんと聞いてるよ」
アリシアはそのまま笑顔を浮かべ、学園での些細な出来事を話し始める。彼女は何も知らない。
アルドは、アリシアの話に相槌を打ち、表面上は穏やかな顔を保っていた。
しかし、彼の心の奥底では、激しい復讐の炎が燃え盛っていた。その炎は、決して消えることなく、彼を突き動かし続けるだろう。
アリシアの笑顔を見つめるアルドの瞳の奥には、彼女が知る由もない、冷たい光が宿っていた。それは、復讐を誓う者の、静かで激しい決意の光だった。
以上で2部 完結となります。
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