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40 祈りの涙

事件現場には、重苦しい空気が漂っていた。視界の端では、警備兵がロープを張り、立ち入りを制限している。その動きや武具の擦れる音が、どこか不穏な空気をさらに煽っていた。行き交う人々の足音には焦りがにじみ、誰もが口をひそめながら、小声で噂を交わしている。


あの後、周囲の捜索や現場検証が徹底的に行われた。学園の警備兵はもちろんのこと、理事会の役人たちも総動員され、現場周辺は物々しい雰囲気に包まれた。


途切れないざわめきが、メリディアの背後を絶え間なく流れていた。捜査の指揮官らしき男が大声で指示を飛ばしているが、メリディアはどこか遠くの出来事のように感じた。誰もが狼狽し、首をかしげ、苛立ちを露わにしているのに、自分の心だけが澄んだ水面のように静かだった。


(このような捜査など、無駄なのに……)


メリディアは内心でそう思った。これは、自分のような未熟な人間が起こせる業ではない。神の御業、白銀の裁定者による裁き。人がいくら知恵を絞ろうとも、神の力の前では無力なのだ。彼女はそう確信していた。だからこそ、周囲の混乱を冷めた目で見ていた。


そして、白銀の裁定者と約束していた時間が近づくと、メリディアは落ち着かない様子でそわそわとし始めた。何度も懐中時計を取り出して時間を確認し、周囲をそわそわと見回している。


ケーナには「では、行ってくるわね」とだけ伝え、人目を避けるように早足で待ち合わせ場所へと向かった。


待ち合わせ場所に選ばれたのは、会場の外にある人通りの少ない用具置き場だった。薄暗く、埃っぽい匂いが立ち込めるこの場所は、人目を忍ぶには最適だった。メリディアは、周囲に誰もいないことを慎重に確認してから、倉庫の中に入った。


倉庫の扉を開けた途端、鼻を突く埃のにおいに思わず眉をひそめる。薄い月光が隙間から差し込み、床にかすかな光の帯を落としていた。辺りはしんと静まり返り、先ほどまで聞こえていた学園の喧騒が嘘のように感じられる。まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのようだった。


薄暗い倉庫の奥に、一人の男性が立っていた。薄暗い中でも、その輝くような銀髪は、まるで月光を浴びているかのように白く輝いていた。そして、その銀の瞳は、暗闇の中で静かに、しかし力強く輝きを放っていた。その姿は、まさに白銀の裁定者その人だった。


その神々しいまでの美しさに、メリディアは再び言葉を失った。胸が高鳴り、全身が震え、込み上げてくる感情を抑えることができない。彼女の心は、畏敬と感謝、そして何よりも、彼への深い愛慕の念で満たされていた。


メリディアは、思わず、王に拝謁する時のように、片膝をつき、頭を垂れる姿勢を取った。それは、彼女なりの、最大限の敬意の表れだった。彼女にとって、彼は神であり、救いであり、そして何よりも、焦がれるべき存在だった。薄暗い倉庫の中で、彼女は一人、神に祈るように、その姿を見上げていた。


メリディアは、静かに口を開く。


「私を……助けてくれたこと、そして……私の不始末……マリアを討ってくれたこと……心より、感謝申し上げます……」


その声は、深い感謝と畏敬の念に満ちていた。


彼女は、言葉を選びながら、丁寧に感謝の言葉を紡いでいった。白銀の裁定者がいなければ、今頃自分はどうなっていただろうか。想像するだけでも、身の毛がよだつ思いだった。さらに彼が、自分のために、汚れた血をその手で払ってくれた。その事実は、彼女の心を深く揺さぶった。


「貴方様のおかげで——」という言葉の途中、彼女の声は唐突に途切れた。


メリディアが絶え間なく感謝の言葉を紡いでいた、まさにその瞬間。


まるで世界全体が深い水底に沈んだような感覚。倉庫の埃さえ、宙で凍りついたように見える。メリディアの耳は鈍い圧迫感に包まれ、心臓の鼓動だけがいやに大きく響いた。息を呑んだ彼女の唇からは、声が出ているのかも分からない。視界の端がわずかににじむ。


——これほどの闇術を、瞬時に展開できる者が、いったいどれほどいるというのだろう。


驚いているメリディアに、アルドは静かに近づき、彼女の手を握る。

その瞬間、メリディアの心臓は激しく高鳴った。再び、あの温かい手に触れられている。その事実に、彼女は言いようのない幸福を感じた。


アルドの手から、温かい何かが自分の胸の中に入ってくるような、心地よい感覚を味わう。それは、失っていた大切なものが、再び自分の元に戻ってきたような、満ち足りた感覚だった。彼女は、目を閉じ、その温かさを全身で感じようとした。


アルドが手を離し、低い声で「もういいぞ」と言われた。


いつのまにか闇の結界が消え、周囲の音が一気に戻ってきた。メリディアは、自分が再び音の世界に戻ってきたことに気づいた。


「闇の精霊術は、君の元に戻しておいた。もうバレるようなヘマはするなよ」


アルドの言葉は、厳しくも、どこか優しさを帯びていた。それは、叱責というよりも、忠告に近いものだった。


メリディアは、試しに力を行使してみることにした。意識を集中させると、確かに、闇の精霊の力を感じることができた。失っていた力が、確かに自分の元に戻ってきている。その事実に、彼女は深い安堵を覚えた。


闇の精霊は、世間では悪いもの、穢れたものなどと言われている。しかし、メリディアにとって、その存在は暖かく、自分にとってかけがえのないものだった。それがまた、自分のもとに戻ってきてくれた。その事実に、メリディアの目は少し潤んだ。


「あ、ありがとうございます……白銀の裁定者様……」


彼女は、再び、深い感謝の念を込めて、そう呟いた。その声は、先程までの動揺が嘘のように、静かで、穏やかだった。彼女の心は、再び、白銀の裁定者への畏敬と感謝で満たされていた。


白銀の裁定者と呼ばれたことに対し、アルドはほんの僅かに眉をひそめた。その表情の変化は微細なものだったが、メリディアはそれを敏感に察知し、僅かに身を固くした。


「一つ言っておくことがある」


アルドの低い声が、静かな倉庫に響いた。その言葉に、メリディアは緊張を隠せなかった。


「俺の正体、そして俺と会ったことなど、一切口外するな。家族、親友、仲間……誰であってもだ」


アルドの言葉は、命令というよりも、厳重な警告だった。メリディアは、その言葉の重みに息を呑み、力強く答えた。


「はい。承知いたしました。命に変えてでも守ると誓います」


彼女の言葉には、迷いはなかった。白銀の裁定者——彼への絶対的な忠誠と、彼を守るという強い決意が込められていた。


「先ほど一緒にいた女……ケーナといったか。あいつにもよく伝えておけ」


アルドは、ケーナのことも忘れずに、メリディアに伝えた。


「はい。必ず」


メリディアは、再び力強く頷いた。ケーナにも、この秘密を厳守させることを誓った。


「あとは……そうだな、君は目をつけられている可能性もある。しばらくは派手な行動や、危険な相手への攻撃は慎めよ」


アルドは最後に、メリディアを気遣う言葉を静かに残した。彼女の身を案じ、これ以上危険な目に遭わせまいとする思いが、淡々とした口調の奥に感じられる。そのまま彼は振り返ることなく、倉庫の裏口へと姿を消した。


メリディアは思わず胸元を押さえ、去りゆく背中を見つめた。追いかけたい衝動が込み上げるが、彼の意志に背くわけにはいかない。だからこそ、ここで足を止めねばならなかった。


アルドの気配が完全に消えると、メリディアはそっと目を閉じる。胸を満たすのは、白銀の裁定者への畏敬と感謝、そして何より、燃え上がる恋にも似た熱情だった。


「あぁ……白銀の裁定者様……」


そう心の中で呼びかけた瞬間、メリディアの意識に、今は亡きソフィの面影がふと差し込んだ。


(私を救ってくれた……再び奇跡をくださった……白銀の裁定者様、あなたは私の"運命"……!)


心の内でそう呼びかけた瞬間、不意にソフィの声が脳裏をかすめた。


『メリィ、きっとあなたにも素敵な“運命の人”が現れますよ』


あの日、ソフィは柔らかな笑みを浮かべながら、そう言ってくれたのだ。メリディアはその記憶の残り香を噛みしめるように、そっと涙を流す。


(あなたの言う通りだったわ、ソフィ……)


ソフィと笑い合った日々の映像が鮮明によみがえり、胸がきしむように痛む。あの笑顔を失って、どれほどの時が経っただろう。それでも今、白銀の裁定者という運命の人に巡り合えた——。


メリディアはもう一度涙をぬぐい、心の中でソフィに語りかける。

まるで親友がすぐそばで見守ってくれているかのように。

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