38 破戒の闇刃
リーシェの姿に戻ったアルドは検査会場へと向かった。
先程まで使用していた闇術はすでに解除している。 アリシアが事前に手続きをしてくれたおかげで、リーシェとして自由に行動できる。これ以上、周囲に警戒される必要はない。むしろ、怪しまれないためには、堂々としている方が良い。
(アリシアには感謝しないとな……。彼女がいなければ、こんなスムーズには進まなかっただろう)
アルドは心の中で、アリシアへの感謝を噛みしめながら廊下を進んだ。
肌に触れる空気はどこかひんやりとしている。石畳の上を踏みしめるたび、靴音が細く鋭く響き、人気のない廊下には不自然に音がこだまする。
そんな静寂の中、遠くから誰かが近づいてくる気配があった。目を凝らすと、前方の曲がり角から姿を現したのは――マリア・シュト・ジグラー。
(……まずい。目を合わせるわけには……)
アルドはとっさに視線を伏せ、壁際へ寄ろうとする。だが、その思惑を嘲笑うかのように、マリアの冷たい瞳がこちらを捉えた。
彼女の唇がわずかに吊り上がり、険しい表情から見下すような笑みに変わる。
「あら、リーシェじゃないの」
マリアの声は低く、底意地の悪い嘲笑を含んでいた。アルドの耳に、その声が妙に大きく響く。先ほどまでの静まり返った廊下が嘘のように、彼女の存在感がこの場を支配しているようだった。
「こんなところで何をしているのかしら? Dクラスの底辺が、私の視界に入るなんて気分が悪いわね」
いつもなら、軽く会釈してすれ違うだけで終わっただろう。けれど、今日のマリアには、普段以上に刺々しい空気が漂っていた。アルドは嫌な予感を覚えながらも、落ち着いた声色で応じる。
「……いえ、マリア様。たまたま通りかかっただけで――」
だが、それすら遮るようにマリアは口を開き、そのまま一方的な暴言を吐き続ける。
それが結末を決定づける“引き金”になるとも知らずに。
アルドはほんの数秒前までは、どうにかこの場をやり過ごす術だけを考えていた。マリアの前を通り過ぎ、検査会場へ向かえさえすれば、余計な波風は立たない。そう思っていたのに――。
「……さっきから気味が悪いほど静かね、精霊術が使えなくなった無能が。よくもまあ、平然としていられるものね」
マリアの声は、廊下に冷たく染みわたる。相変わらず高慢な態度。しかし、いつにも増して敵意が濃い。その視線には、明らかな嘲笑と侮蔑が宿っていた。まるで、目の前のアルドを踏み潰してやろうとでも言わんばかりの――悪意。
アルドは、微かに拳を握りしめた。心臓がどくり、と大きく鳴る。先ほどまで胸の奥でじくじくと疼いていた怒りが、急激に広がっていくのを感じた。
(……こんなところで癇癪を起こすわけには……。アリシアとの約束……いや、それどころじゃない。下手に騒ぎを起こせば、全部が終わる……)
そうわかっていても、マリアの醜悪な嘲笑を浴びるたびに、自制心は削り取られていく。目の端が熱を帯び、うっすらと視界が赤く染まる気がした。
「ふん。なんの反論もできないの? さすが無能と言われるDクラスなだけのことはあるわね。 貴方のような出来損ないが、Aクラスにいたこと自体が間違いだったのよ」
マリアが唇を吊り上げ、わざとらしく溜息をつく。石畳に反響するその吐息は、まるで煽るように甲高い。廊下を吹き抜ける冷たい空気のせいか、アルドの背筋に寒気が走る。それは恐怖というより、込み上げる怒りの昂ぶりと、理性が剥がれていく危うさに似ていた。
「アリシアの補佐官になったそうね? まだ懲りもせずに監査委員にしがみついているの? どうせ今さら足掻いたところで、精霊術が使えないんじゃ何の価値もないわ。さっさと引き下がったら?」
自分でも驚くほど、アルドは無言を貫いていた。何か言葉を返すたびに、感情が制御不能に陥りそうな気がするからだ。しかし、マリアはまるでその沈黙を見透かして楽しんでいるようだった。
見下すような眼差し。そこにあるのは、絶対的な優越感。その刹那、アルドはかつてマリアを殺そうとしたときの記憶をありありと思い出していた。
あの時は、アリシアの存在が踏みとどまらせた。
しかし、今のマリアの嘲りの言葉の数々は、容赦なくそのブレーキを砕きにかかってくる。
(もし、ここで殺せば……いや、待て……)
自分の中の冷たい声が「抑える必要などない」と囁く。
それを必死にかき消そうとする理性は、もはや薄氷のように脆く、砕け散るのも時間の問題だ。
このままでは、取り返しのつかないことになる。――いや、すでにもう一線を越えかけている。
マリアは鋭く顎を上げ、さらにアルドの心を抉る
「ふふ、本当に……”事故"で精霊術を失ったのはいい気味ね」
その瞬間――アルドの中で何かが切れた。
(――いや、もういい。終わりだ)
心の奥で燃え盛る黒い炎が、一気に堰を切って噴き出す。周囲の光がひゅっと薄暗くなったように見えたのは、気のせいだろうか。それとも、アルドの周囲に闇の力が滲み出し始めたせいなのか。
次の瞬間、世界から音が消えた。
誰もいないはずの廊下を吹き抜けていた風の音すら、まるで分厚い壁に遮られたかのように消え去る。
マリアが「何……?」と口を動かすが、その声は届かない。ただ、ひび割れそうな沈黙だけが空間を支配していた。
それでも、マリアは「これは、あの時の……!」と気づいたようで、即座に精霊術を展開しようとする。わずかに伸ばされた指先に、赤い光が集まりかけた。しかし、それより早く、アルドの闇がマリアの体を蝕んでいた。
「な、なんでーー!?」
彼女の術式は完成することなく、彼女の手元で掻き消える。まるで世界そのものがマリアを拒むかのように、音が消え、闇だけが満ちる。
アルドは静かに唇を結ぶと、ゆるやかに手をかざす。不可視の闇が、マリアの体内へと触れ――瞬時に、凄惨な破壊が始まった。
その瞬間、マリアは目に見えない力によって激しく打ちのめされた。外見上は何も変わらない。しかし、彼女の体内では、凄惨な破壊が進行していた。
アルドは微動だにせず、意識だけをマリアの四肢へと集中させた。
彼の瞳には、まるで標的の構造を透かし見るかのような冷たい光が宿る。骨の形、神経の繋がり、それらを正確に断ち切るイメージが頭の中に浮かんでいた。
マリアの左腕、右足、左足に意識を集中させ、闇属性の精霊術を放つ。それは、内側から対象を破壊する、極めて残酷な術式だった。
骨を砕き、
筋肉を引き裂き、
神経を焼き尽くす。
外からは傷一つ見えないが、マリアは想像を絶する激痛に襲われていた。
周囲には、闇の帷が静かに降りていた。それは、内部で行われている惨劇を隠蔽するための、アルドが展開した闇の結界だった。まるで黒い霧が空間を覆うように揺らめく。外の光は屈折し、何も無いように見える奇妙な領域がそこにある
しかし、この結界はあくまで認識を阻害したり音を消すためものであり、侵入を阻害するものではない。
アルドに残された時間は多くはない。
マリアの身体は、内部から激しく破壊されていた。アルドが放った闇属性の精霊術は、彼女の骨を砕き、筋肉を引き裂き、神経を焼き尽くしていた。外見上はほとんど変化がないにもかかわらず、彼女が感じている痛みは、想像を絶するものだろう。
彼女は、意識を保とうと必死だった。朦朧とする意識の中で、何とか状況を理解しようとしていた。自分が何者かに攻撃されていること、そして、その攻撃が内部から自分を蝕んでいることを。
「……何……が……起こっているの……?」
彼女の思考は、激痛によって断片的に途切れていた。
しかし、本能的な恐怖が、彼女を支配していた。
死への恐怖、そして、この得体の知れない力への恐怖。
アルドの瞳が白銀に輝き、マリアを冷酷な目で見つめる。
「そ、その瞳……リーシェ……お前がぁ……」
彼女は、残された僅かな力で、抵抗しようとした。動かない手足を必死に動かそうとし、体を捩じり、何とかこの苦痛から逃れようとした。しかし、彼女の身体は、アルドの術によって完全に制御されていた。彼女の抵抗は、無意味だった。
「あ……ありえない……こんな……こと……」
最初は歯を食いしばって何かを言おうとしていたが、やがてその声もかすれた悲鳴へと変わっていく。
目を見開き、唇を震わせながら、マリアは絶望に沈む自分を自覚せずにはいられなかった。
涙が、彼女の目からとめどなく溢れ出す。彼女は、助けを求めた。誰かに、この苦しみから解放してくれるようにと、心の中で必死に祈った。
「たす……けて……」
辛うじて絞り出された声は、闇の結界に阻まれ、誰にも届かない。
彼女の口は、痙攣するように動き続け、「ゆるして……」「いや……やめて……」など、断片的な言葉を発している。それは、もはや言葉ではなく、苦痛に歪んだうめき声に近かった。
彼女の目は、恐怖と絶望で大きく見開かれ、虚空を見つめている。
アルドは、マリアへの攻撃の手を緩めなかった。前回は決定的な一撃を躊躇してしまった。結果、マリアは生き延び、今、再びリーシェを侮辱している。
同じ過ちは二度と繰り返さない。
アルドの決意は、鋼のように固かった。
ほんの一瞬だけ、アルドのまぶたの裏にアリシアの微笑みがちらついた。
――だが、もう迷わない。彼は迷いを振り払い、マリアの命を刈り取る一撃を放つ。
もう、後戻りはできない。
それは、目に見えない、しかし確実に相手を死に至らしめる、極めて精密な攻撃だった。
標的の神経系を内部から破壊し、脳機能を停止させる。
マリアの喉仏がごくりと上下し、息が止まった。外見上は一瞬の硬直が走っただけ。だが、次に緩むように崩れ落ちたその姿からは、もう生の気配は感じられない。
外見上は、ごく僅かな、薄い傷跡が残る程度だろう。それすら、注意深く見なければ気づかないほど微細なものだ。
彼女の命は、今、完全に絶たれた。
これまで、幾度となく人を殺めてきた。その度に、罪悪感など、微塵も感じたことはなかった。敵は容赦なく駆逐する。それが、アルドの信条だった。
しかし、今回、マリアを殺めた後、彼の胸に、これまで感じたことのない、重い感情が湧き上がってきた。
それは、罪悪感だった。
だが、それはマリアを殺したことに対する罪悪感ではない。アルドは、自分の感情を冷静に分析した。
これは、アリシアに対する罪悪感だ。彼女との約束を、破ってしまった。
(……すまない……アリシア。 俺は、お前の信頼を裏切った……)
アルドは、心の中で、アリシアに深く謝罪した。彼女の優しさ、彼女の正義感、そして、自分を信じてくれた彼女の気持ち。それら全てを、彼は裏切ってしまった。その事実は、彼の心を深く痛めつけた。
だが、それでも、アルドの復讐の炎は消えることはなかった。それは、彼の存在を支える、原動力だった。アリシアへの罪悪感を抱きながらも、彼は復讐を諦めることはできない。
アルドは黒い霧を纏い、足早に廊下の奥へと消えていく。後ろを振り返ることはしなかった。もし振り返れば、自分がしたことを改めて突きつけられるようで、恐ろしかったから。――それでも、彼は復讐の道を歩み続ける。その暗い火は、もう誰にも消せない。