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プロローグ

朝の陽ざしがやわらかく降り注ぐ初夏の学園中庭。

さわやかな風が若葉を揺らし、鳥の鳴き声が遠くから微かに響いている。

今日は一年生の年次最終試験当日だ。


その中央付近、まばらに集まる生徒たちは、そわそわと落ち着かない様子で視線をある一点に向けていた。

彼らが注目するのは、古い記念碑の脇に佇む一人の美しい少女。


茶色のロングヘアが朝の光を受けて柔らかく輝き、深い緑色の瞳が澄んだ泉のような透明感を放っている。


彼女は特別だった。


少女の名はリーシェ・ヴァルディス。


上位貴族ですら入るのが難しい最上位のAクラス所属、しかもトライコントラクターとして知られ、既に上級生からも将来を嘱望される存在。


「……あれがリーシェ・ヴァルディスか」


「一年でトライコントラクターって、本当に凄まじいな……」


控えめな囁きが、周囲に小さな波紋を広げる。

リーシェは耳に届く噂話に意識を向ける素振りはないが、その唇には穏やかな微笑が浮かんでいた。

何度となく浴びた賞賛にも、浮き足立たず、むしろ当然と受け止める余裕さえ感じさせる。


今日の試験は一年生最後の評価を決める大事な試験だ。

彼女はそっと襟元を整え、まばらに集まる視線を背に受けながら静かに息をつく。


深呼吸一つで、空気がクリアになるような感覚。

その仕草に周囲が気づくと、微かな溜息と期待がないまぜの沈黙が生まれる。


「……行きましょうか」


小さな声が漏れる。

リーシェは木陰から一歩踏み出し、試験会場へ向かう通路へと歩み出した。


回廊は石造りで歴史を感じさせる造り。

ここは王国有数の魔法学園で、無数の精霊術士が研鑽を積み、外部からも注目を浴びる場所。

一年生の年次試験は規模こそ控えめだが、この学園においてはどんな小さな試験も意味を持つ。

特にリーシェのような逸材なら、上級生や教員も内心、彼女がどのような精霊術を披露するか興味津々だ。


Aクラス――それ自体が賞賛に値するが、トライコントラクターとして複数精霊を自在に操る存在は歴代でも希少だという。

その重みを感じさせない優雅さが、彼女の特異性をより際立たせる。


心中で彼女は静かに思う。


(アルド兄さん、家で待っててね)


兄、アルド・ヴァルディスは精霊術が使えないため、この学園には通っていない。

だが、今日が試験日であることは知っているはず。

きっと家で何気ない日常を続けながら、彼女の帰りを待ち、良い結果が出ると信じてささやかなご馳走でも用意してくれるだろう。


そのごく普通の優しさが、リーシェには何よりの支えだった。


回廊の先に、大きな扉が見えてくる。

その向こうが試験会場だ。

会場前には、同じクラスの親友であるアリシアとミシャが応援に来ていた。

アリシアは成績上位を競い合う幼馴染で、ミシャは寡黙な広識の秀才だった。


アリシアがすっと目を合わせ、小さな声で言う。

「堂々と行って、リーシェ」


簡潔で的確な激励だった。

ミシャは言葉を発しないまま、凛とした表情で頷いてみせる。

リーシェの首元には、先日ミシャから贈られたネックレスが淡く輝いていた。


リーシェは二人の応援に感謝しながら、上級生たちの好奇の視線など気にも留めず、静かに扉へ手を伸ばした。

周囲がざわめく気配に、リーシェはほんの一瞬瞳を細める。


この国の魔法体系は精霊契約が基本で、ほとんどの生徒は一体の精霊と一生を共にする。

だがリーシェは三体契約――それがどれほど規格外かは上級生も承知だ。

そんな期待を背負いながらも、彼女は大げさな気負いを見せない。


「……行こう」


二度目の小さな独白。

今度は決意をより強固なものにする合図だ。

彼女は扉へ歩み寄る。


まもなく、年次最終試験が始まる。

光が、微かに揺れるような錯覚を覚えたのは気のせいか。

リーシェが手をかけた扉は、淡い魔力障壁で覆われているのか、ほんのわずかな抵抗を感じる。

だが、その程度の妨げは彼女にとって取るに足らない。

軽く指先に意志を込めると、扉は静かに軋みを立て、内側へと開いた。


そこに広がるのは、1年生用の試験会場として用意された特設ホール。

石造りの床には簡易的な魔法陣が円形に描かれ、周囲は大小の机や、立ち見の観客スペースが設けられている。

通常、この最終試験は大勢が詰めかけるほど華やかではないが、今年は別だ。

ホールの上部にはギャラリーがあり、一部の上級生や指導教員がそこから見下ろしている。


繊細なステンドグラス越しに差し込む光が、円形魔法陣の中心点をすっと照らし、その真下には試験官らしき教師が二人立っていた。


「ようこそ、リーシェ・ヴァルディス」


中央で待つ白髪混じりの男性教師が、朗らかな笑顔で声を掛ける。

「君の評判はよく耳にしているよ。今日の成果、楽しみにしている」


教師の声は柔和だが、内心はどれほど期待を抱いているのか、彼女にはわかっていた。

応える代わりに、リーシェは軽く会釈する。


すでに数名の1年生が周囲に整列していて、その中には彼女をちらちらと盗み見る者がいる。

普段なら、この試験は個別に行われる基礎評価であり、全員が居並ぶ必要はないのだが、今日は多くが彼女を見届けようと自主的に残っているらしい。


「いよいよリーシェの番か、待ちくたびれたよ」


誰かが小声で囁き、すかさず他の生徒が「しっ!」と注意する。

静かな空気が漂う中、リーシェは魔法陣の中央へゆっくり進む。

魔法陣上に立つと、足元から微かな魔力の脈動が感じられる。


これは試験用の補助結界で、受験者の魔力特性を測定し、応用力を評価するもの。

今から彼女が行うのは、自ら契約している精霊を呼び出し、その調和を示しながら複数の属性術を繰り出すデモンストレーション的試験だ。


「準備はいいかい?」


先ほどの教師が再度声を掛ける。

リーシェは軽く顎を引いてうなずく。

それで十分意志は伝わる。


少し離れた場所には、別の若い女性教師が、詰めた表情をしながら魔法計測器を操作しているようだ。

その指先がやや不自然な速さで動いている気がしたが、リーシェは特に深く気にしない。

学園には様々な個性の人間がいるし、試験当日は監督役が緊張することもある。


深呼吸。


リーシェは両手を胸の前で組み、目を閉じ心の中で、3体の精霊を呼びかける。

炎を司る精霊、澄んだ水を操る精霊、そしてしなやかな風の精霊。

彼女は日々の練習で、この3体との対話を何度も重ね、通常ではあり得ない安定を築いてきた。


静寂が張り詰める中で、彼女の周囲に淡い光が揺らめく。

まずは炎の精霊が柔らかな微光をまとって応え、水の精霊がその流れを包み込むように清涼な空気を生む。

風の精霊が最後にささやくと、3つの力が見えない糸で結ばれ、バランス良く彼女の周囲に漂う。

観ている上級生の一人が息を飲んだ。


「やはり……この子は本物だ」


静かな感嘆が上から降り注ぐよう。

リーシェは目を開く。

3つの精霊が結んだ魔力の糸を丁寧に手繰り寄せるように、軽く手を動かすとその瞬間、空気がわずかに震え、小さな炎の玉がふわりと浮かんだ。


同時に、水が周囲に透明な球形バリアのような輝きを生み、風が優しいそよぎでそのバリア表面を撫でる。

観客たちは目を凝らす。

普通なら、精霊術は1体以上は扱えない。

それを3体同時など信じ難い光景だが、現に目の前で再現されている。


「素晴らしい……」


教師も感嘆の声を漏らした。

リーシェは微笑む。

ここまでは想定通り。


この後、精霊たちの力を組み合わせた複合術をもう一段階披露すれば、試験官は大満足だろう。

ゆっくり腕を上げ、さらなる魔力回路を紡ぐ。

炎、水、風が調和し、まるで小さな虹色の現象が生まれそうな予感がした。


だが、その時、足元の魔法陣がわずかに歪んだ。


……おかしい


何かが引っかかるような感覚。

リーシェは微かな違和感を覚え、念のため魔力の流れを慎重に確認しようとした。

しかし、それはほんの一瞬の隙だった。


次の瞬間、魔法陣からあふれる魔力が不自然なうねりを見せる。

彼女が呼び出した精霊力とのバランスが崩れ、炎が熱を増し、水が不穏な振動を起こし、風が鋭利な刃のように流速を上げる。


「……え?」


リーシェの瞳に一瞬の困惑が走る。

これは自分のミスか?

いや、そんなはずはない。

日々の訓練で安定性には自信がある。

何者かが外的に干渉しているような……だが、そんなことを考える暇はなかった。


上級生たちが上から「危ない!」と声を上げる。

試験官も目を見開き、「落ち着け! 精霊を戻せ!」と指示するが、リーシェにはもう精霊との対話が乱されているのが明白だった。


火球が暴走し、周囲の空気が熱を帯びる。

水が奇妙な振動と泡立ちを見せ、制御不能に陥り、風が斜めに力を発揮してしまい、場内の書類や軽い机を揺らす。


「きゃあっ!」


見学していた同級生が悲鳴を上げる。

リーシェは必死に腕を下ろし、魔力を引き戻そうとするが、既に何かが魔法陣を歪ませている。

足元を見ると、光がぎらついて歪んでおり、さっき見たあの女性教師が妙な動きをしていた気がするが、いまは特定不能だ。


「落ち着いて……!」


リーシェは自分に言い聞かせるように小声で叫ぶ。

だが、精霊たちが悲鳴のような共鳴音を放ち、彼女の制御を逃れ始めている。


なんで、どうして……


このままでは精霊術が暴発し、被害が出てしまう。

リーシェは最後の手段として精霊を一斉に解放しようと考える。

だが、何か見えない鎖が魔力を抑え込み、解放どころか、逆に圧縮してくるような感覚に襲われた。


「いや……」


嗚呼、まずい。

意識が揺らぎ、視界が白熱した光で覆われる。

炎、水、風が激突しあい、耳鳴りがひどい。

上級生が「逃げろ!」と叫び、仲間たちが散開する音がする。


魔力暴走の瞬間、リーシェは最後に兄の顔を思い浮かべた。

家で普通に過ごしている、あの穏やかな兄。

今日の試験結果を伝えたかった。

早く家へ帰って彼の喜ぶ顔を見たかったのに……。


光が閃き、空間全体が白熱するような明るさに包まれる。

瞬間的に感じる激しい熱風が、周囲の空気を揺らし、生徒たちを圧倒する。

リーシェは力尽きたように膝を崩し、その体は鉛のように重く、動くことすら困難になっていく。


遠くで誰かが「リーシェ!」と叫ぶ声。

教師たちが慌てて駆け寄る気配。

でも、もう瞳が重く、息が苦しい。


嘘でしょ、こんなはずじゃ……


考える間もなく意識が遠のく。

精霊たちとの絆が音もなく切れ、全てが静まり返る。


そして闇が訪れた。


――その場にいた全員が、目の前の光景に言葉を失った。

リーシェ・ヴァルディスは、意識を失い、その場に力なく倒れ込んでしまった。

1年生最強、トライコントラクターと称えられた少女が、突然の魔力暴走という想定外の事態に呑まれたのだ。


場内には、熱と光の残滓が漂い、錯乱した悲鳴と混乱が渦巻いていた。

耳をつんざくような騒音が、状況の異常性を際立たせる。

この日、誰もが確実だと思っていた「彼女の輝かしい未来」には、暗い影が差し込み始めていた。


その頃、外の世界ではリーシェの兄、アルド・ヴァルディスが、何も知らずに夕食のメニューを考え込んでいた。

この場の誰も、その平穏な日常を想像することはできなかった。

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