死にたいぼくと殺したい少女
夏。まだ日も昇らないほどの早朝だというのに、道路を挟んだ向かいの道を体操着姿の少女が駆けていく。
肩から下げられた虫籠。旗のようにその手に構えられた虫網。虫取り少女が、のろのろと歩いていたぼくを追い抜いていく。
ぼくの住んでいるアパートの向かいにある児童養護施設。そこから出てくるのをたまに見かける少女だった。その背中を見送るとぼくはいつものように目線を伏せ、目的地へと向かった。
目的地である森の奥深くにさっきの虫取り少女がいた。虫取り少女が森にいることは別段おかしなことじゃない。でも、少女が採った虫を殺しているのは間違いなくおかしなことだった。
少女は虫籠から虫を取り出しては淡々と潰す。次の犠牲者はカブトムシだった。
「そのカブトムシ、いらないの?」
声をかけると、くるりと少女がぼくの方へと振り向く。
「お兄さんはこのカブトムシ、ほしいんですか?」
視界外から話しかけたにも関わらず、少女は驚いた素振りを見せない。
「五百円なら出す程度には」
ぼくの提案に少女は少しの間ぴたっと動きを止めてから、カブトムシを持っている方と逆の手のひらをこちらに差し出した。なるほど、金が先というわけだ。しっかりしていて大変よろしい。
近づいて、その手のひらに五百円玉を載せる。対価として手に入れたカブトムシが、ぼくの右手で元気にわしゃわしゃと脚をうごめかせていた。
少女は五百円玉をポッケの中へと仕舞った。思わぬ小遣いに喜ぶ素振りは見えない。感情が表情に出にくいのか本当になんとも思っていないのか。初めて話しかけたぼくとしては判断が難しいところだった。
財布を閉じた少女が、地面に置ていてた虫かごを掴み、こちらに見せつけるように両手で掲げた。
「クワガタとカマキリもいます」
顔に出ないだけで、お金をもらえるのは嬉しかったらしい。
カブトムシとクワガタで両手が塞がってしまったのでカマキリは遠慮させてもらった。
その結果、虫籠に残されたカマキリくんは少女の運動靴にぐしゃりとつぶされる悲惨な最期を迎えることとなった。合掌。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
「はい。さようなら」
最後に少女がぺこりと頭を下げる。
少女の目が届かなくなったところでぼくは両手の虫達を開放した。
☓☓☓
翌日の早朝。少女はまた同じ場所で同じように虫を殺していた。
「おはよう」
「おはようございます」
少女は挨拶を返して、再び虫を潰す作業へと戻る。
「虫を殺すのって楽しい?」
「いえ全然。まったく。驚くくらいにつまらないです。でもわたし、確かめたいことがあるので」
「虫を殺して?」
「いえ」
少女は首を左右に振った。
「本当は人を殺したいんです。でも、どうせ殺すならできるだけ周りに迷惑をかけないようにしたくて」
たった今聞き捨てならない願望が少女の口から飛び出した気がしたのだが、聞き間違いだろうか。
「だからせめて、殺しても感謝する人の方が多いような、死んだほうが良い人間を殺そうと思ってるんです。でもそういった人はなかなか見つからなくて。だからそんな人が見つかるまで、仕方なく虫で妥協してるんです。でも、虫じゃあやっぱりなんにもわからなくて」
やっぱり聞き間違いではなかったらしい。
人を殺したい。普通に考えれば小中学生時に多く見られる強がりや嘘なんだけども、どうにもこの少女が語る言葉は不思議と真実に聞こえてならなかった。
彼女の言葉を信じるとしてだ。死んだほうが良い人なんてこの世にいない! なんて綺麗事は口が裂けても言えないものの、彼女の望む条件に合致するような殺して皆に感謝されるような極悪人がその辺にいるとは思えない。放っておいたところで少女が人を殺す機会は早々やってこないだろう。
ただ、彼女の希望に近い人材にぼくは心当たりがあった。死んだって誰も悲しまず、迷惑をかけることもない。そんな都合の良い存在に一人。
「ちなみにそれってさ、ぼくじゃダメなのかな」
言葉の真意を図りかねたのか、少女は首をかしげた。さすがに言葉が足りなかったか。
「つまり、ぼくを殺すのはどうだろう」
「ああ。なるほど。わかりました」
補足すると、少女がこくりと頷く。
「ではお聞きしますが、お兄さんはこれまでの人生でどんな悪いことをしてきたんですか」
その問いかけに、ぼくは過去へと想いを馳せる。
「なにか特別悪いことをしてきたって思い出は特にないかな」
「ならお兄さんは不採用です」
なかなかに手厳しい面接官だ。だがぼくのターンはまだ終わっちゃいないぜ。
「確かにぼくが死んで感謝する人はいないかもしれないけど、ぼくが死んだってだれも気にしないと思うんだ。それは君の言う、なるべく周りに迷惑をかけずに人を殺したいって望みにはぴったりな人材だと思うんだけど」
そう。ぼくは少女の言う死んだ方が良い人間ではないかもしれないけれど、別に生きてようが死んでようがどっちでもいい人間ではあるのだ。
自分で死ぬ勇気のないぼくと、できるだけ周囲に迷惑をかけず人を殺したい少女。需要と供給は合っているはずだった。
少女はぼくの目をじっと見つめる。
「わかりました。採用しましょう」
こうしてぼくの進路が決まった。少女に殺されて死ぬという人生の進路と終点が。
「ところで、お兄さんはどうして死にたいんですか」
少女の素朴な質問にぼくは言葉を詰まらせる。
「いじめられたから」
口をついたのは半分本当で、半分嘘だった。
「そうですか」
少女がそれ以上踏み込んでこないことにホッとする。もうすぐ死ぬくせに、この期に及んで恥を隠そうとする自分が情けなくて、ぼくはいっそう死にたくなる。
少女が「ああ」と無機質な声を漏らす。
「そうでした。忘れてました。お兄さん、わたしの名前は菊田小夜、小学六年生です。短い間にはなりますが。よろしくお願いします」
少女は手を太ももに置き、ぺこりと頭を下げた。
「ぼくは田島秀人。フリーター16才。こちらこそよろしくお願いします」
ぼくも同じように丁寧に頭を下げる。
「ではお兄さん、さっそくですが殺しても良いですか?」
相変わらずの丁寧な言葉遣いで、少女は懐から刃物を取り出した。
自己紹介を終えたのに、どうやら名前で呼んではくれないらしい。ぼくはほんの少しだけ残念に思った。
☓☓☓
「ちなみにその刃物はどこで?」
「包丁です。施設のキッチンからくすねてきました」
ふむふむとぼくは頷く。つまりこの少女は今から出どころがはっきりしている凶器でぼくを殺して返り血を浴び、死体を放置して帰ろうというわけだ。
「嫌でしたか? 包丁」
少女がこてんと首を傾ける。そこじゃない。
どうやら少女には自身の犯行を隠そうという発想がそもそもないらしい。このままぼくを殺せば一日と経たず彼女の犯行は明るみとなるだろう。少女はそんなこと気にしないかもしれないがぼくは気にする。
少女にその気がないのなら、ぼくが責任を持って隠ぺい工作をしなくては!
「いいかい菊田ちゃん。人一人殺すには、色々と準備が必要なんだ。だから、殺すのは明日の朝早くにしよう。ちょうど君と最初に会った時間くらいにこの場所で」
本当は夜にしたかったけど、深夜に施設から抜け出すスニーキングミッションを少女に強要するのも酷だろう。
「わかりました。明日ですね」
少女は特に不満を垂れることもなく頷く。どうしても今すぐ殺したいというわけでもないらしい。
「じゃあぼくはもう帰るけど菊田ちゃんは?」
「わたしも帰ります。それではさようなら、お兄さん」
「ああ、さようなら。いや、ちょっと待った」
お辞儀をして、颯爽と立ち去ろうとする少女を引き留める。一つ言い忘れていた。
「その包丁は元あった場所に戻してくるように」
少女はこくりと頷いた。
☓☓☓
次の日、約束通り日も昇らないうちにぼくと少女は森へとやってきた。
少女はぼくの用意したカッパ、目出し帽、サングラスの不審者一式を装備して返り血対策を万全にしている。
凶器に関してはぼくがいじめっこ達への復讐のために勢いで購入し、長らくほこりを被っていたナイフをすでに渡した。
少女が死体の処理に困らぬよう自分の墓穴も汗だくになりながら掘り終えた。
これでもう殺される準備は万端だった。
少女の、そしてぼくの望み通り、誰にも迷惑をかけることもなくぼくはもうすぐ死ぬ。いや、誰にもというのは嘘か。少なくとも一人、ぼくが死ぬことで迷惑をかけてしまう人がいる。
菊田小夜。穴を掘り終えたぼくに「お疲れ様です」と肩にかけていたタオルを差し出すこの少女に、これからぼくは殺人という十字架を背負わせるのだから。罪に問われるのはバレてしまったらの話。けど、たとえ誰にバレずとも少女がぼくを殺したことについて良心の呵責に苛まれる日がいつか来る……とはこの少女に限ってはなぜだか思えないけど、そういうこともあるかもしれない。
それがわかっていて、それでも殺されようとしているぼくはまさしく少女の望む通りの死んだ方が良い人間なのかもしれなかった。
自分の汗で湿ったタオルを少女に返す。少女はなにも気にする様子もなくそれを再び首にかけた。タオルを洗って返せないことが、心残りといえば心残りだった。
ああ、そうだ。心残りといえばもう一つ。
「最期に聞きたいんだけど、菊田ちゃんはどうして人を殺したいのさ」
「それはですね。わたしの父親が母やわたしを殴って、人を殺して楽しむような、これ以上ないほど死んだほうが良い最低な人間だったからです」
少女はそんなちんぷんかんぷんで言葉足らずな動機を語って、
「それでは、さようなら」
ナイフを振りかぶった。
「なんじゃそりゃ」
幸運なことにそんな締まりのない呟きがぼくの最期の言葉になる事態は避けられた。
どこからか聞こえてきた声によって、ナイフを振りかぶったまま、少女の体はぴたりと静止したから。
かすかに森の中から聞こえてくるのは男の声と、先程まで嫌というほど耳にしていたシャベルで土を掘る軽快な音だった。
どれだけ証拠を残さないように工夫したところで、現場を見られてしまったら元も子もない。ぼくと少女は顔を見合わせた。
「「とりあえず」」
「隠れよう」
「見に行きましょう」
口を開いたタイミングはピッタリだったのに、意見についてはきっぱり別れた。
「見に行きましょう、見に行きましょう、見に行きましょう」
ぼくのシャツの端をひっぱりながら一定間隔で同じセリフを繰り返すbotになった少女にぼくは折れた。
「それじゃあ行こうか、小夜ちゃん」
仕方なく声の方へと歩き出すが、続く足音が聞こえない。振り返ると、言い出しっぺの少女は足を止めたままじっとこちらを見つめていた。すこし待ってみても動く気配はない。
「ああ、そういうことですか。わかりました」
ようやく再起動したと思ったら、そう言って少女は大きく頷くと
「ありがとうございます。では、行きましょう」
なぜかぼくにお辞儀をした後何事もなかったかのように歩き出す。
わかったってなにが? ぼくがぽかんとしている間にも少女はずんずん遠ざかっていく。ぼくは小走りでその小さな背中を追いかけた。
☓☓☓
茂みに隠れてこっそりと様子を伺うと、そこには夏だというのに暑そうなパーカーを着てフードを深く被る体格の良い男がいた。
「くそ、くそ。どうしてこんな面倒なことに」
男はぶつくさと悪態をつきながらシャベルで穴を掘る。
その側に寝袋が転がっている。ふくらみ具合から中に誰か入っているようだが、さきほどから微動だにしない。
人気のない森。穴掘り。ぴくりともしない寝袋。
こうもそれらしい情報が揃ってしまうと、状況がだいたい推測できてしまう。
「あの、お兄さん」
少女が目出し帽をすぽんと脱ぎ取り囁く。
「わたしお兄さんより、あの人の方が死んだ方が良い人なんじゃと思うんですけど」
少女は穴を掘る男を指差した。
少女も察したらしい。あの男が何をしようとしているのか。そして何をしてしまったのか。
☓☓☓
「お兄さん、どうぞ」
生暖かい感触が手のひらに当たる。
呆けているぼくの手を掴み、少女が握らせてきたのはナイフだった。
「どうぞ、とは」
本当はその一言だけで「行け、お兄さん! すてみタックル!」とポケットなモンスター扱いされてることは理解できたわけだけど、そんな事実を受け入れたくないぼくはすっとぼける。
「体格差を考えると、さすがにわたしが立ち向かうのは無理だと思うんです」
なるほど。実に素晴らしい判断力だ。その判断力で目の前の頼りなさそうなもやし男がシャベルという長い凶器を持った体格の良い男性に本当に勝てると思うのか、もう一度よく考えていただきたい。
「ああ、でもちょっと待ってください」
少女が思い出したように呟く。
力こぶも作れない枯れ木のようなぼくの腕をみて、さすがに少女も考えを改めてくれたらしい。
「トドメはわたしが刺したいので、いい感じに生け捕りにしてください」
そう言って、少女はナイフをぼくの手から奪う。
「君は凶器を持った相手に素手で挑めっていうのか」
「頑張って躱しましょう」
作戦は根性論だった。こんなところで小学生らしさをアピールしないで欲しい。
そもそも少女のろくでもない指示にぼくが従う必要はない。頭ではそうわかっているはずなのに、ぼくの体は少女の指示通り男に向かって突撃していた。
指示に従ってしまった理由ははっきりとしている。いつものことだった。
あまり頼られることなんてない人生だった。だから頼られるとつい言うことを聞いてしまう。たとえそれがただ良いように使われているだけのだとわかっていても。
「うぁっ」
茂みから跳びかかってきたぼくを視認して驚く男にタックルを叩き込む。奇襲されるとは思っていなかったのか、なんの抵抗もされなかった。ぼくは自分でも驚くほどあっさりと、男を地面に伏せることに成功してしまった。
男を押さえつけながら後ろを振り向くと、少女がとことこと小走りでこちらに近づいてくる。
あれ? とぼくはようやくそこで気づく。このままだと、少女はこの男を殺しぼくは用済みになってしまうんじゃないかと。
殺してもらうことが目的のはずなのに、ぼくは一体なにをやってるんだろうと後悔するも、予想に反して少女が向かったのは寝袋だった。
「なんなんだよ、おまえら」
下敷きにされた男が、困惑に満ちた声をぼくらに投げかけた。
「菊田小夜です。よろしくお願いします」
「田島秀人です」
多分、彼が求めているのはこういうことではないんだろうけど。
少女が寝袋のジッパーに手をかける。
「おい、やめろ!」
男の制止を気にも留めず、少女はジッパーを下げた。
「おじいさんです」
少女の言葉通り、顔を出したのは血の気のない、小さな穴がところどころに空いてしまった血だらけでしわしわのおじいさんだった。
少女はすっと手のひらを老人の首筋に添える。そして、
「の、死体です」
情報を補足した。
少女はくるりとこちらに向き直る。しゃがみ込み、ぼくに組み敷かれた男の顔を見下す。
「ところで、このおじいさんを殺したのはあなたですか?」
さて、男はどう出るだろう。正直に話すだろうか。相手は年端もいかない少女だ。知るかと突っぱねるだろうか。
なお、少女はその手にナイフを握っているものとする。
☓☓☓
「ルールを決めよう」
男にナイフを突きつけて脅す少女にぼくはそう切り出す。
「はい?」
少女は可愛らしく首を傾けた。
「今から二人であの人の話を聞く。両者一致でこいつは死んだ方が良いって思った時だけ殺していいことにしよう。ほら、勘違いで殺しちゃうのは良くないだろ?」
「多数決ですか。確かに冤罪はよくありません。そのルールを採用します」
よし。とぼくは内心でガッツポーズを取った。
「それでは改めて。あのおじいさんを殺したのは、あなたですか?」
「あ、そ、それは……」
「ゆっくりでも大丈夫ですよ、お兄さん」
ぼくは目を泳がして怪しいことこの上ない男ににっこりと微笑む。
「お兄さんはこの人なので、まず名前を名乗ってください」
が、ぼくの優しさの甲斐もなく、少女は男の喉をナイフで突っつく。
「は、はい。俺の名前はえっと、龍二。道長龍二です!」
男、自称道長龍二さんはしどろもどろにそう名乗った。
お兄さん呼びの人間を二人にすることで少女に名前で呼んでもらおうというぼくの目論見は失敗に終わった。
「それでは龍二さん。あのおじいさんを殺したのはあなたですか?」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ほら小夜ちゃんも、そんなに脅されると話せないってさ」
「そうですか」
ナイフが下げられ、男は震える息を吐き出した。
そう、安心してほしい。君が死んだ方が良い人になってしまえば、ぼくは用済みになってしまう。だからぼくは全力で君を弁護しよう。そのための多数決制度なのだから。
「俺じゃ、ない。俺は殺してない!」
男は力強く言い放った。ぼくもできればそうであってほしいところだ。
☓☓☓
昨日の深夜、男が訳あって世話になっているホームレスが散歩に出たまま一向に帰らないことを不審に思い探しに出たところ、散歩コースで血だらけで倒れているホームレスが!
と、龍二さんの主張はこんな感じだった。
話を聞いたところで、少女がピンと手をあげた。
「救急車や警察を呼ぼうとせず、コソコソと埋めようとしたのはなぜですか」
「そ、それは本人に言われたんだよ。俺が死んだら、誰にもバレないように死体を処理してくれって。意識も朦朧としてるのに何度も必死に頼んできて断れなくて……」
少女の鋭い指摘に、男はバツが悪そうに顔を伏せた。その仕草が頼みを振り切って救急車を呼ばなかった後悔からなのか、単に嘘を見抜かれまいと表情を隠そうとしているだけなのかは定かではない。
「まあホームレスをやってるくらいだから、どんな事情があってもおかしくはないんじゃないかな」
真偽を問い詰めるように龍二さんを見つめる少女に、ぼくはすかさずフォローを入れた。
「それにしてもなにがどうなったらホームレスにお世話になることに?」
そして即座に話を流すことも忘れない。
「えっと、それは、えっと……」
続く言葉が出てこない。眼球のスイミングが更に速度を増していく。
その怪しすぎる反応を見て、少女は男を入念にボディチェックし始めた。
「あっ」と男が情けない声をあげる。
パーカーのポケットから銃が出てきた。少女がマガジンを外すと、そこには金属製のBB弾らしきものが装填されているのが見えた。
穴だらけの死体に、男の懐から出てきた銃。
黒だった。グレーを通り越してこれ以上染まりようのないほどの黒だ。
少女が静かに右手を上げた。なにを発言するわけでもなくじーっとぼくの方を見る。なるほど。これは多数決を求める挙手なのか。
「待ってくれ」
ぼくは懇願する。確かに犯人はこの男で間違いないだろう。しかし、それがイコールで死んだほうが良い人ってことにはならない。
「おじいさんを殺したのには、なにか事情があったんだろ?」
襲ってきたのは向こうだった。実は大切な人の仇だった。そんな情状酌量の余地がきっとあるはずだ。
「ああ、そうだ。そうなんだよ!」
男は嬉しそうに何度も頷く。よし、その調子だ。
「じじいがホームレスってのは本当なんだ。俺はただホームレスでストレス発散してただけなんだよ。ホームレスなんて、社会のゴミだろ。俺のやったことはむしろ慈善活動なんだ。だから俺は悪くないよな? な? そうだろ?」
男はへへへと媚びるような笑みを浮かべた。少女が返り血対策の目出し帽とサングラスを再装着する。
「待ってくれ小夜ちゃん。これが最後、最後の質問だから」
そうだ。彼自身は救いようのない極悪人かもしれない。けれど、そんな彼にも、死んだら悲しんでくれる大切な家族がきっといるはずだ。
「君、家族は「家族? 今家族って言ったか? あいつら、俺の人生がうまくいかないのは全部親ガチャに失敗したせいなのに、ちょっと家の貯金使い込んだくらいで早く働け家から出てけって俺のことを厄介者扱いしやがって。勝手に産んだんだから死ぬまで面倒見んのは当たり前だろうがよ。ああクソ。嫌なこと思い出させてんじゃねえよ、ぶっ殺すぞ!」
男は顔を真紅に染め、獣のように歯をむき出しにして息を荒げた。
家族には迷惑をかけて疎まれ、人を殺しておいて罪悪感のかけらもない。
ああ、これは負けだ。真に遺憾ではあるが認めざるを得ない。
ぼくは手を挙げ、
「君は間違いなく死んだ方が良い人間だよ」
少女の待ち望んでいただろう言葉を告げた。
「はあ? んだとこのゴミ。誰に向かって言ってんだあ!?」
悪態をつく男に、少女がナイフを振りかぶる。そして――
☓☓☓
「おはようございます」
「……おはよう」
その日の夜、インターホンで目が覚める。玄関の外には菊田小夜の姿があった。
「ぼくの部屋番号、なんで知ってるのさ」
「この部屋からお兄さんが出ていくのを、何度か見かけたことがあったので」
まあ、お向かいさんだ。それは別におかしなことじゃないか。ただ、
「君の施設、門限とかないの?」
「抜け出してきました」
「抜け出してきちゃったか」
「はい」
少女は相変わらずのポーカーフェイスで頷く。「はい」じゃないんだよ、君。
「お邪魔しても良いですか?」
外に放り出すわけにもいかず、ぼくは少女を部屋へと招き入れた。
自分から押しかけてきた割に少女は正座で背筋をピンと伸ばしたまま一言も発さない。なら、ぼくから話を振るとしよう。
「小夜ちゃん。君はどうしてあの男を殺さなかったんだい?」
死体を見ても顔色一つ変えなかった少女。人を殺したいと言っていたはずの少女は、しかしあの救いようのない人殺しを殺さなかった。
あの時ナイフを振り上げたままぴたりと止まった少女は「ごめんなさい。やっぱり殺すのはやめにします」と言い放ったのだ。
とりあえず人殺しを放置することもできず、警察に通報し、やってきた警察官達に事情を話した。なぜ早朝にこんな森にいたのかという点や少女との関係性をこれでもかと詰められたが、少女とうまく口裏をあわせて切り抜けた。それから少女と別れ、今に至る。
「ナイフを振りあげた時、死にたくないなと、そう思ってしまったので」
少女はそう答えた。死にたくない?
「それって殺したくないの間違いじゃなく?」
「はい」
普通逆じゃないか?
「ねえ小夜ちゃん。殺すのをやめる理由が、どうして死にたくないからになるのか。そう思うに至った過程を、一から教えてくれないかな」
人を殺したい理由を聞いた時もそうだけど、どうもこの少女には思考の過程をすっ飛ばして答える癖がある。どうしてその回答が導き出されたのか、その途中式をぼくは知りたいのに。
「でもわたし、話すのが下手らしいですよ」
「ゆっくりでも、たどたどしくても、まとまらなくたっていいんだ。ぼくは君の話が聞きたい」
回答から思考を逆算することもできなくはない。でもぼくは少女の口から聞きたかった。
「なら、頑張ってみます」
少女は頷き、語り始めた。
「みんなが言うんです。わたしは人殺しの子供で、気味が悪くて、どうせ将来ろくでもない大人になる。カエルの子はカエルだって。わたし、一理あると思いました。だから確かめなきゃと思ったんです。自分が父親と同じように暴力を楽しいと感じてしまう人間なのか。人を殺して楽しいと感じてしまう人間なのか」
「それが、君が人を殺したかった理由?」
「はい。人を殺せば分かると思ったので。もし自分が父親と同じだったなら、死のうと思ってました」
父親が最低な人間だから人を殺したい。
死にたくないから殺すのをやめた。
因果関係が破綻しているようにしか見えなかったその言葉が、ぼくの中で綺麗に一つの輪となった。
「でもわたし、死にたくないと思ってしまったんです。なのでもう人は殺しません。もしわたしがまた人を殺したいと思ったとしても、その相手にお兄さんを選ぶことは絶対にないです」
「そっか」
あれだけ殺してほしいと思っていたはずなのに残念だとは思わなかった。そんなことよりも、なにがきっかけかは知らないが、死のうとしていた少女が生きたいと思えたことがぼくは嬉しかった。
「だってお兄さんはもう、死んだって良い人でも、死んだ方が良い人でもなくなったので」
続けられた少女の言葉に、ぼくは目を丸くして少女を見た。
「お兄さん、最初はわたしのこと、菊田ちゃんって呼んでいたのに、今は小夜ちゃんって呼んでますよね」
唐突に話が変わる。いや、少女にとっては変わってなどいないのか。
「最初はそれがなぜなのかわかりませんでした。でも気づいたんです。名前呼びに変わったのは、わたしが父親のことを最低な人間だって話した後だったって」
「そう、だったっけ?」
「はい。そうです」
とぼけてみたが無駄のようだった。
「あの時お兄さんは、父親のことが嫌いそうなわたしが父親と同じ苗字で呼ばれるのは嫌じゃないかと気遣ってくれたんですよね」
図星だった。顔がかっと熱くなる。恥ずかしい、恥ずかしい。
「まあそういう一面もあったかな?」
などとこの期に及んでまだ誤魔化そうとする自分がなによりも恥ずかしい。
「でも大丈夫です。菊田という名字は母方の姓で父親のものではないので」
「ふーん。そうなんだ」
つまり、ぼくの気遣いは完全に無駄だったということだった。もう恥ずかしくて情けなくてどうしようもなかった。
「でもお兄さんの気遣いに気づいた時、わたしは嬉しかったんです。今までずっと死んだっていいと思ってました。なのに死にたくないって、生きたいってそう思ってしまうくらい、本当に嬉しかったんです」
死のうとしていた少女が生きたいと思うようになったきっかけ。なんだろうと思っていたら、まさかぼくだったとは。
「だからもうお兄さんは死んでも良い人でも死んだほうが良い人でもありません。だってお兄さんが死んだら、わたしが悲しいですから」
「ああ、やっと言えました」と少女がはにかんだ。表情筋を動かしたところを、ただの一度も見たことのない少女が頬を染めて照れくさそうに、けど嬉しそうにはにかんだ。
「今日はそれを言いたかったんです。それでは、また」
「ちょ、ちょっと待ったっ」
放心していたぼくは、玄関へと向かう少女を慌てて追いかけた。
「さすがに時間が時間だから送ってくよ」
なんて言ったは良いものの、彼女の暮らす児童養護施設とぼくの住むアパートの間にあるのは手押し式信号機の横断歩道だけだった。
車なんて一台も通っていないのに、少女は律儀に手押しボタンを押した。 信号機が青になり、一緒に横断歩道を渡る。「それでは、また」と少女は胸の前で小さく手を振り、児童養護施設へと帰っていく。
少女がもう振り向かないことを確認して、ぼくは振り返していた手を下げた。手押しボタンを押し、まだ赤い信号機をじっと見つめる。
……ぼくが死ぬと悲しいと言った少女はしかし、最後までぼくに死なないでとも、死んじゃダメとも言わなかった。
それは死のうとしているぼくが悩まないようにという少女なりの気遣いだったのだろうか。だとしたら、少女は一つだけミスを犯した。
今までずっとさようならと言っていた彼女が、またねと言ってしまった。
「さようなら」と「またね」
たった一言の違い。でもその一言は、ぼくが踏み出した足を引っ込めるには十分すぎた。
だってさ、ぼくが死ぬと彼女は悲しむんだとさ。死体を見ても眉一つ動かさなかったあの少女が悲しむんだとさ。
生まれてからずっと、なんのために生きているか分からない人生だったけど。ぼくが死ぬことで誰かが悲しむ。それは死ぬことよりも、生きることよりずっと怖いことで。でもそんな恐怖とは比べ物にならないくらいとても、とても嬉しいことで。
こんなものは一時的な気の迷いに過ぎないのかもしれない。明日には死にたいと人生を嘆いているかもしれない。それでも。
「明日も生きてみようかな」
少なくとも今日はそう思えた。
信号機が青へと変わった。