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斉孫子伝

前に予告していた田斉の孫子です。

孫臏兵法を読んでみましたが竹簡の劣化によるアナが多く、会話としてとても成立しないものになっているため、孫臏兵法に関しては内容の要約を書きました。

高評価お願いします。

 孫子そんしは生年不詳の田斉でんせい軍師ぐんし(狭義では軍事顧問、広義では君主補佐役)、軍事思想家である(とう武廟六十四将ぶびょうろくじゅうよんしょうとう王朝以前の優れた軍事指揮官64人のこと)では将軍として選ばれている)。その本名も不明で、後述の経緯から当時からの伝統的な通称として孫臏そんぴんと呼ばれている(本名を孫蒙そんもう孫濱そんひんとする説がある)。けんの中間地域出身である(どちらも田斉領)。字は伯霊はくれい子臧しぞうという説もある)。


 父親の名は孫操そんそうであり(その他の家族構成や姓名は不明)約120年前の先祖に孫子そんしこと孫武そんぶ孫子武そんしぶとも)がおり孫武の次男の孫明そんめいから、孫順そんじゅん孫機そんき→孫操→孫子と繋がってきたとされる。そん氏は姜斉きょうせい大夫たいふ大夫だいぶ大夫だゆう(領主系貴族)の田書でんしょ孫書そんしょとも)とその子の孫憑そんひょうの子孫とされているが孫氏の末裔とされる唐の孫壬林そんじんりんは碑文にえい武公ぶこうは戦いに強いという意の美諡)の子孫だと記している(衛の武公の子孫の田書でんしょちんの公族の子孫の田書でんしょを混合したともされる)。代々兵法の研究を行い、孫子そんし(一般的に孫子そんし兵法へいほう)に加筆修正を繰り返してきたとされる。


 若いころに龐涓ほうけんと共に兵法を学んでいた(民間伝承によればその師は鬼谷子きこくしだという)。学問を修めたのち、二人は仕官の旅に出た。龐涓は(首都の大梁たいりょうに由来してりょうともいわれる、しんから分裂してできた国のためしん三晋さんしんとも呼ばれる)の恵王けいおうけいは賢さや穏やかの意の美諡だが実際には無能、暗愚を指す悪諡として使われることもある)に仕官することに成功した。一方で仕官に失敗し、放浪していた孫子を龐涓は仕官のあっせんを行うと魏に招いた。孫子は龐涓の誘いに応じて魏に入国したが、そこで捕縛される。そして、何の容疑かも分からぬままに有罪を宣告され、顔に罪人の証の墨を入れられ臏脚ひんきゃくけい臏刑ひんけいとも、王朝の時代までは足の骨を削る刑を指していたが、西周せいしゅう王朝の頃から足を切断する刑を指すようになった)に処され歩けなくなったのちに幽閉された。


 臏脚の刑に処された者として孫子は孫臏と呼ばれるようになった。孫子本人もまた自らのことを孫臏と名乗るようになった。


 前漢ぜんかん司馬遷しばせん史記孫子しきそんし呉起ごき列伝には龐涓は孫子の才が自分のそれよりも優れていることから国外の敵となったときのこと、国内の政敵となったときのことなどの憂いを断つために偽って孫子を魏へ招き臏脚の刑に処して歩けなくしたと記しているがこの記述には疑問が残る。龐涓は将軍だったという。つまり龐涓は武官であって法務官ではなかったのである。そのため孫子を拘束し、臏脚の刑に処すような権限は龐涓にはなかったと考えられる。つまり、史記孫子・呉起列伝の記述はその信憑性が低いのである。


 この時幽閉されていた孫子は武術の研究を行い、1日1つ1年で365の技を編み出したという。当時の服装に常設されていた長袖を用いた戦い方に由来して長袖拳ちょうしゅうけんとも呼ばれているこの孫臏拳そんぴんけんには孫子の脚が不自由だったことから松葉杖を用いた孫臏拐そんぴんかいもある。しかし、孫臏拳が伝わった経緯などもわかっていないことから伝説の域を出ない。


 顕王けんおう13年(紀元前356年)に魏へ田斉からの使者(姓名は不明)が訪れた。この年に田斉の威王いおうは厳かの意の美諡)が即位していることからその通達だと考えられている。孫子はこの使者に接触を図った。談話の内容は伝わっていないものの使者は談話の中で孫子の非凡さを見出し、自らの帰路に乗る馬車に同乗させた。各国の使者は国境で検問されないのが一般的であり孫子を幽閉先から密出国させるためである。


 使者は田斉の王族(系統不明)で上大夫じょうたいふ(特に高位の大夫)の将軍である田忌でんき陳忌ちんき田臣思でんしんし田期思でんきし徐州子期じょしゅうしきともいわれこのことから字は子期しきとする説もあるが春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代の王族、公族はが字に入ることがほとんどなので子期が正しいだろう)で徐州じょしゅう付近の領地を所領としていた人物と考えられている、竹書記年ちくしょきねんに記述がある顕王15年(紀元前358年)に魏軍と桂陽けいようで戦い勝利した田期でんきという田斉の将軍と同一人物ともされる)のもとを訪ね、賓客とすることを求めた。この時の孫子と田忌の対話の内容は伝わってはいないものの、孫臏兵法そんぴんへいほうの篇のひとつである陳忌問塁ちんきもんるいに孫子と田忌の兵法に関する様々な問答が記されており、田忌の孫子への信頼具合が伺える(特に自軍が劣勢時の陣形、軍令に関する内容のものが多い)。


 孫子が田忌のもとで賓客になってからのことである。田忌は競馬(流鏑馬により近いもの)の大会をよく主催していた。この大会には田斉の王族の他に威王もまた参加していた。


 この時の逸話が史記孫子・呉起列伝に記されている。



 孫子、田忌に策を献じて曰く。


「我(孫子のこと)、馬に上中下があることを見ゆ。即ち相手の上の馬に下の馬を当てて、中の馬に上の馬を当てて、下の馬に中の馬を当てるべし。我、この策を持って主(田忌のこと)を勝たせん。」


 田忌、これを容れて臨む。上の馬に下の馬は負け、中の馬に上の馬が勝ち、下の馬に中の馬が勝つ。即ち田忌、威王の千金をも手にせしめる。


 孫子曰く。


「これ即ち兵法の益なり。」


 田忌、大いに得心せん。



 田忌の孫子に対する信頼はいよいよ増した。そしてついに田忌は競馬の際の献策と併せて威王に孫子を推挙した。威王もまたその推挙を受け容れて孫子を自らの兵法の師とした。孫臏兵法には威王問いおうもんという篇に威王の諮問とそれに対する孫臏の問答が記されており兵法の師として威王から大いに信頼されていたことがうかがえる(用兵に関することと、用兵を駆使するための大将の普段の振る舞い方について記されている)。

 

 顕王15年(紀元前353年)に桂陵けいりょうたたかいが起こった。


 孫子が参戦するまでの戦いの経過を記す。 


 

ちょうは魏の同盟国(属国)のえいに攻め込み、しつ富丘ふきゅうを征服した。

・魏は衛を救援するために同盟国のそうとともに出兵し、趙の首都である邯鄲かんたんを逆に包囲した。

しんが防備の手薄になった魏に攻め込み、少梁しょうりょうを征服した。



 この2年前の顕王13年(紀元前356年)に魏に対して趙、田斉、宋、えんは包囲網を築いており、この状況を打開するために魏は懐柔した宋とともに打って出たものの秦の介入もあいまってこの戦いは泥沼化した。


 ここからは田斉と、孫子が参戦した経緯を記す。


 

・威王は臣下に趙へ救援を送るべきかどうか臣下に諮問した。援けないべきという意見を寵臣の鄒忌すうき騶忌すうき成侯忌せいこうきともいい、敬称として鄒子すうしとも呼称される)は援けるべきではないと述べ、田斉の将軍の段干朋だんかんほう段干綸だんかんりんとも)は救援することが理に適っていると述べた。

・威王は段干朋の進言を容れて田斉軍の出撃を遅らせ、魏の領土の襄陵じょうりょうに少数の軍を派遣して牽制しながら戦いを長引かせることとそれによる魏軍の疲弊を目指し、魏軍が邯鄲を陥落させたのちもしくは囲いを解き撤退してきたところを田斉軍全軍で迎え撃つという戦略をとった。

・威王は田斉軍の総大将に孫子を据えようとしたが孫子が自身が足切りの刑を受けた犯罪者(実際は冤罪だが)であることから固辞したため、代わりに田忌を総大将に据え、孫子をその軍師とした。この時孫子は輜車ししゃ(婦人用の小さな馬車)に乗って出陣した(10月のこと、またこの人事は敗戦による田忌の失脚を狙った鄒忌と公孫閲こうそんえつ公孫閈こうそんかんとも)の陰謀によるものでもある)。


 

 田忌と孫子の開戦前の軍議の様子が史記孫子・呉起列伝に記されている。



 田忌、孫子に曰く。


「我(田忌のこと)、邯鄲にて雌雄を決せん。」


 孫子これに反駁して曰く。


「もつれる糸を引っ張ろうともほどけず、人の喧嘩を勢いだけでは解決せず。敵の待ち構えんとするところを避けて相手の予想外のところを攻めてこそ敵を引かせることができる。現在、邯鄲に魏軍の精兵は出払い大梁には老兵弱兵しかおらず、大梁を急襲し大梁への道を占領し封鎖すれば魏の兵站が断たれ、邯鄲に出払っている魏軍は慌てて魏の領内に戻ってくるでしょうがその軍は疲弊しており、会戦すれば必ず勝つことができるだろう。」



 田忌同意し、魏の領内へ田斉軍を入らせた。果たして龐涓が総大将の魏軍は邯鄲に少数の兵を残して(実はこの時すでに邯鄲は陥落していた)魏の領内に戻ってきたが、長距離の急速な行軍のために魏軍は大いに疲弊したため士気が低く桂陵けいりょうを通過しようとしたところを田斉軍に奇襲され濮水ぼくすいで大敗し、龐涓は捕虜となった(こののち魏へ帰還し復権している)。


  

 孫臏兵法の擒龐涓きんほうけん篇によればこの時、魏軍と田斉軍はともに8万の軍が出陣しており田斉軍が軍議を開いていた際に魏軍は衛を攻めていたという(駐屯していたとも読める)。孫子は魏領の平陵へいりょうを攻めることを進言し、田忌もそれを容れて軍を急行させた。孫子はわざと負けるように田忌に軍事経験のない人物に指揮させるようにと指示を出した。そこで斉城せいじょう高唐こうとうという二人の貴族に平陵の城を攻撃させたが二人は討ち死にして攻撃は失敗に終わった。田忌が次の方策を求めると孫子は進軍速度の速い戦車せんしゃ(戦闘用馬車)を用いて(この時期騎兵を主力としている国と戦車を主力としている国が並立していた)大梁を急襲し、また魏軍が田斉軍の兵力を見誤るようにその他の兵力を細かく分散させることを指示した。龐涓は田斉軍が平陵で大敗して疲弊し兵站が断たれていてまた兵力が少ないものだと勘違いして兵站を無視して急速に魏領に戻ったが桂陵の地で大敗して捕虜になったのだという。


 批亢搗虚こうこうとうきょ(要所を突くことで相手の虚を突いて形勢を崩すこと)と疾走大梁しっそうたいりょう(迅速に魏の首都の大梁を攻めて魏の兵糧の輸送を止めること)という2つの計略は後世併せて囲魏救趙いぎきゅうちょうと呼ばれる。


 この戦いののち田斉はにわかに強国化し、君主号もこうからおうとした。


 顕王17年(紀元前352年)に魏が韓と盟を結んで襄陵を包囲し、田斉軍を撃破して占領した。このことと桂陵での戦いに関して威王は宣王せんおうせんはあまねき響き渡るの意の美諡)に調停を求めた。


 顕王18年(紀元前351年)に秦、魏、趙、田斉は和睦して、お互いが占領した土地を返還し合うことで同意した(衛や韓に関しては不明)。


 以下の戦いを桂陵の戦いという。


 顕王27年(紀元前342年)に韓は魏との盟を反故にして田斉と盟を結んだ。魏は韓(史記田敬仲完世家しきでんけいちゅうかんせいかでは趙)に攻め込み、韓軍は魏軍と5度戦って5度大敗した。韓は田斉に救援を求めた。威王(史記田敬仲完世家には田斉の宣王せんおうと記されているがこれは威王の在位が安王あんおう24年(紀元前378年)から顕王26年(紀元前343年)までという説によるが誤り、北宋ほくそう司馬光しばこう資治通鑑しじつがんでは安王23年(紀元前379年)から顕王36年(紀元前333年)まで即位していたというが田斉の桓公かんこうかんはつよくいさましいさまの意の美諡、威王の父親)が15歳の時に威王が生まれたことになるので信憑性は薄い、竹書記年や史記滑稽列伝しきこっけいれつでん淳于髠じゅんうこん優孟ゆうもうゆうとは役者や道化師にあたる職業で、もうは字である、姓名は不明)、優旃ゆうせん(職業が優で、せんは字である、姓名は不明)の滑稽こっけい(笑いを伴った話術やそれをもって君主を風刺したり治政に貢献した人物のこと)たちの列伝)では顕王13年(紀元前356年)から 慎靚王しんせいおう悼靚王とうせいおうとも)2年(紀元前318年)まで即位したとあり、竹書記年には顕王13年(紀元前356年)から慎靚王元年(紀元前320年)まで即位したとありこれが最も信憑性があるとされる、他にも安王24年(紀元前378年)から慎靚王元年(紀元前320年)まで即位したという説もある)は臣下に諮問した。


 その時の会議の様子が史記田敬仲完世家に記されている。



 宣王(威王の誤り)諮問して曰く。


「韓を救援すべきかせぬべきか。救援するなら急ぐべきか遅らせるべきか。」


鄒忌答えて曰く。


「援けることに利なし。増援をおくらない方がよいだろう。」


田忌(張丐ちょうかいの誤り)答えて曰く。


「迅速に援けなければ韓は魏に降伏し、韓は魏の陣営に組み込まれるだろう。急ぎ韓を援けるのがよいだろう。」


孫子答えて曰く。


「韓と魏の兵は共に未だ疲弊しておらず。今出陣すれば田斉軍は韓軍の代わりに魏軍と相対することになり韓軍以上に疲弊することになるだろう。そうすれば田斉軍は韓軍の指示を仰ぐことになり立場が逆転することになります。一方援軍を遅らせれば魏軍はますます攻撃の手を強めて韓軍はいよいよ東面して(目上の客に頼むこと)田斉軍の力を頼むでしょう。援軍は遅らせて出陣させるのがいいでしょう。」


宣王(威王の誤り)これを聞きて曰く。


「可。」



 威王は孫子の進言を採用して韓からの使者には援軍の派遣を了承しておきながら援軍の出陣を遅らせた。韓軍はさらに5度魏軍と戦い5度敗れた。いよいよ韓軍は田斉軍に東面した。威王は田斉軍の総大将には孫子を据えようとしたが孫子は桂陵の戦いの時と同じように自身が足切りの刑を受けた犯罪者(実際は違うが)であることから固辞したため、代わりに孫子が総大将に推した田忌を総大将に据え、その補佐役として田盼でんはん田朌でんはんとも、尊称として盼子はんし朌子はんしとも)と田嬰でんえい(諡号の靖郭君せいかくくんが有名、史記では威王の末子とされているが唐の司馬貞の史記索隠しきさくいんや竹書記年では威王の末弟としている)を据え、軍師に孫子を据えた(ただし竹書記年ちくしょきねんには田盼が総大将として記されている)。この時の田斉軍の兵力は12万であった(魏軍の兵力は10万)。


 戦いの経過を記す。



・孫子は魏領(宋領の外黄がいこう付近)へ侵攻後すぐに田斉軍に撤退命令を出した。撤退時に1日目は10万人分の竈を作らせた。2日目は5万人分の竈を作らせた。3日目は2万人分の竈を作らせた。田斉軍を追撃する魏軍の次将軍じしょうぐん(副将のこと)となっていた龐涓は(上将軍じょうしょうぐん(総大将)は魏申ぎしん姫申きしん太子申たいししんとも、恵王の息子))宿営跡に残された竈の数が少なくなっていることを確認して田斉軍から脱走兵が続出していると勘違いして(孫子の策によるだけの勘違いではなく覇権国の軍としての魏軍の田斉軍に対する慢心も勘違いの理由の1つである)魏軍から歩兵部隊を切り離して精鋭の騎兵部隊1万を率いて急速な進撃を行った。孫子は騎兵の進軍速度から夕方から日没にかけて隘路(左右を障害に囲まれた細長い道)の馬陵ばりょうを通過すると計算して1万の弩兵を道の左右に伏させた。

・孫子は1本の木の幹に短文を記した。



「龐涓死于此樹之下」

(龐涓此の樹の下に死せん。)



そして孫子は弩兵たちに命じた。



「此の樹の下に松明の火が現れる。それに向かって一斉に矢を放つのだ。」



・果たして日没後その木の下を通りかかった龐涓は文を読むために松明の火を掲げ、それに向かって1万の弩兵が一斉に矢を放った。龐涓は謀られたことを察して叫んだ。



「遂に豎子の名を成せり」

(あの小僧に名を挙げさせてしまったか。)



 龐涓は史記では関連する部分全てで自害し(もしくは討ち死にした)魏申は捕虜になったと記されているが、前漢の劉向りゅうこう劉向りゅうきょう劉向りゅうしょうとも)の戦国策せんごくさくでは龐涓が捕虜となり魏申が討ち死にしたという真逆の内容が記されている(ちゅう(もしくはちゅしゅすう)の孟子もうし孟子もうしにも晩年の恵王が孟子に魏申が亡くなったことを嘆く発言がある)。ここから総合して考えてみるに龐涓は戦場において戦死し、魏申は捕虜になったのち田斉軍によって処刑されたのではないかと推測される。



 一連の戦いを馬陵ばりょうたたかいという。


 この戦いを境に魏は衰亡して覇権国としての地位を失い、逆に田斉は覇権国となって戦国せんごく時代は魏と秦の二大覇権国時代から田斉と秦の二大覇権国時代に突入していく。また魏の恵王は韓の昭侯しょうこうしょうはあきらかの意の美諡)や趙の粛侯しゅくこうしゅくはつつしむの意の美諡)と共に田嬰を頼って博望はくぼうの地で田斉へ臣従した。


 その後田斉軍の総大将として凱旋した田忌は宰相さいしょう(君主の補佐役)となっていた鄒忌の讒言に遭い楚へ亡命し(のちに宣王の御世に帰還する)、孫子もまた歴史の表舞台から姿を消す(前漢の賈誼かぎ過秦論かしんろんによれば田忌とともに対秦の合従軍がっしょうぐん(韓、魏、燕、田斉、趙、宋、衛、中山ちゅうざん、によるもの)に参加したとあるが誤り)。


 一方で馬陵の位置が分からなかったり(馬陵という地名の土地が田斉領、韓領、魏領、それぞれにある)、孫臏兵法が桂陵の戦いと馬陵の戦いが同一の戦いとして記されているように受け取ることのできる内容があるなど、多くの謎が残る。

 

 何はともあれ孫子は自らを裏切り自らの脚を切ったかつての学友への復讐を果たしたのである。


 伝承として楚へ田忌と共に亡命した話がある。


 著作として孫臏兵法があり、後漢ごかんの頃に散佚してしまったが紀元後1972年に銀雀山漢墓群ぎんじゃくざんかんぼぐんから出土している。


 子女は不明。


 没年も分かっていない。






 






謎の多い人物ですが、情報も多い人物です。

小説を作る際に自由に動かしやすい人物でしょう。

次回に乞うご期待!

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