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鮑信伝

鮑信、この人物を紀として投稿するか、伝として投稿するか、悩みました(反董卓連合軍に参加した群雄の一人だから)が曹操と主従関係に近い同盟を結んでいたことから伝として投稿しました。

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 鮑信ほうしん元嘉げんか2年(紀元後152年)に兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん平陽県へいようけんで生まれた後漢ごかん済北相さいほくしょう後漢ごかん王朝の皇族がおうとして統治するくに(中央から派遣される役人が太守たいしゅしゅとも)として治めるぐんに相当し、どちらもいくつかのけんが集まった行政区分のこと))である済北国さいほくこくの王の補佐官であり徴税権しか持たない王に代わり行政権や軍事権を行使する事実上の太守に相当する)である。字は不明。


 その8代前の先祖は前漢ぜんかん司隷校尉しれいこういれい(帝都のあるしゅう(いくつかの郡と国が集まった行政区分)のこと)の長官)の鮑宣ほうせん(彼はその高位を鼻にかけた嫉妬深い人物だったという)といい、父は後漢の少府侍中しょうふじちゅう(皇帝相談役)の鮑丹ほうたんという。またほう氏は儒教によって身を立てた并州へいしゅう上党郡じょうとうぐん陳留県ちんりゅうけんの一族だったという。弟に鮑韜ほうとうがいる。


 西晋せいしん王沈おうしん魏書ぎしょによれば沈着剛毅で智謀にすぐれた倹約を尊び、得た財物はよく人に施していた人物だったという。


 中平ちゅうへい元年(紀元後184年)黄巾こうきんらんが起こった。この時鮑信は私財を用いて義勇兵を募り、参加した同郷の于禁うきんらと共に、近隣の賊徒鎮圧を行った。 


中平6年(紀元後189年)大将軍だいしょうぐん(将軍最高位)の何進かしんの招聘を受けて(何進の政敵だった十常侍じゅうじょうじ(高位の宦官たち)に対抗するため)騎都尉きとい(近衛軍将校)に任命されたのち王匡おうきょうとともに泰山郡にて兵を集めていたものの、成皋せいこうにて、何進が十常侍に暗殺されたことを知ったという。


 洛陽らくよう(当時は火徳のかん王朝にさんずい(火に対する水)は縁起が悪いとして雒陽らくようとされた、後漢ごかん王朝の首都)に戻ると、政治の主導権は、虎賁中郎将こふんちゅうろうじょう虎賁こふん(皇帝親衛隊)を率いる宮廷警備隊長)の袁術えんじゅつ袁術えんすいとも)、司隷校尉の袁紹えんしょうが主導した宮中における二千人(髭が薄く間違えられて殺された者も含む)の宦官虐殺の中で後漢の少帝しょうていしょうは幼くして亡くなった、廃された皇帝を憐れむ平諡)の身柄を確保したのち廃して(翌年の初平しょへい元年(紀元後190年)に殺害する)、代わりに陳留王ちんりゅうおう(名誉職)だった後漢の献帝けんてい曹魏そうぎの諡でけんは帝位を献上したの意の平諡、蜀漢しょくかんでは愍帝びんていびんは憐みの意の平諡)を擁立した太尉たいい(防衛大臣)・領前将軍事りょうぜんしょうぐんじ(中央軍将軍)(のちに相国しょうこく(人臣最高位))の董卓とうたくが握っていた。これに危機感を覚えた鮑信は袁紹に董卓を討伐することを奨めたが容れられなかったため、泰山郡に逃亡してその地で二万の歩兵・七百の騎兵・輜重五千余りを集めた(あまりにも多いため、誇張も混じっていると考えられる)。


 初平元年に東郡太守とうぐんたいしゅ(東郡の長官)の橋瑁きょうぼうの檄文に呼応して反董卓連合軍が結成された。済北相として(劉宋りゅうそう范曄はんよう後漢書ごかんじょによる無位無官であったという説もある)鮑信も参加した。そこで出会った曹魏の武帝ぶていは戦に優れることを指す美諡)と互いの器量を評価し合った。袁紹と武帝により推挙されて破虜将軍はりょしょうぐん雑号将軍ざつごうしょうぐん(臨時の将軍職)の一種)を自称した。また鮑韜は俾将軍ひしょうぐん(将軍直下の副官相当)を自称した。


 将軍職を自称したことに関して、この部分が無位無官説の根拠になっている。当時、官職のある者と無位無官の者が並ぶことは非礼であるため官職を自称したということらしい(武帝もこの時奮威将軍ふんいしょうぐん(雑号将軍の一種)を自称していた)。


 兗州刺吏えんしゅうしし兗州えんしゅう監督官)の劉岱りゅうたい(曹操配下の同姓同名の人物とは別人)・陳留太守ちんりゅうたいしゅ陳留郡ちんりゅうぐんの長官)の張邈ちょうばく広陵太守こうりょうたいしゅ広陵郡こうりょうぐんの長官)の張超ちょうちょう(張邈の弟)・山陽太守さんようたいしゅ山陽郡さんようぐんの長官)の袁遺えんい・橋瑁と共に酸棗さんそうに駐屯した。酒宴ばかりで戦をしようとしない諸侯に対し、曹操は戦をすることを主張した。鮑信と張邈は曹操の求めに応じ(ただし酸棗の軍とは別行動を取っていた長沙太守ちょうさたいしゅ長沙郡ちょうさぐんの長官)の孫堅そんけん潁川太守えいせんたいしゅ潁川郡えいせんぐんの長官)の李旻りびんは積極的な攻勢に出ており、曹操たちの戦った以後に王匡も交戦を行っている)共に戦ったが、董卓の派遣した中郎将ちゅうろうじょう(近衛軍将校)の徐栄じょえいに大敗、鮑韜が戦死し自身も重傷を負った。劉岱と橋瑁、孫堅と後将軍ごしょうぐん(中央軍将軍)の袁術、といった諸将間の対立や兵糧の欠乏によって反董卓連合軍が解散したため鮑信も済北国に帰還した。


 この時、袁紹の軍勢は大軍で袁紹自身の名声も合わせた勢いがあった。そのため反董卓連合軍解散後に多くの人物が袁紹の許を訪ねたが、名のある人物の中で鮑信だけが唯一武帝を天下の争乱を収められる人物だと評価した。


 初平2年(191年)に奮威将軍の韓馥かんふくから冀州牧きしゅうぼく冀州きしゅうの長官)の地位を恫喝によって奪い力を集中させる袁紹の所業を董卓のそれと同じだと断じた鮑信は武帝に黄河こうが以南の地域の制圧を提言した。武帝は東郡太守とうぐんたいしゅ東郡とうぐんの長官)になると、改めて鮑信を済北相にするよう上奏した(ただし無位無官説によればこの時に初めて済北相に就いたとされる)。


 青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞく青州せいしゅうに割拠していた鎮圧された黄巾の乱の賊徒(通称は黄巾賊こうきんぞく)の残党)が兗州に侵攻した。鮑信は兗州刺史の劉岱に、相手の兵糧の欠乏を待ったのち攻勢に出る長期戦を行うことを提言したが(済北国が兗州所属の国のため軍議に参加していた)劉岱は聞き入れずに突撃を行い戦死したため、陳宮ちんきゅうは武帝を兗州に招くことを提言した。鮑信以下主だった兗州の人間は皆これに賛同した。武帝は兗州牧えんしゅうぼく兗州えんしゅう長官)となった。


 初平3年(紀元後192年)に鮑信は武帝と共に青州黄巾賊討伐に乗り出した。数において州軍を大いに上回る青州黄巾賊を討ち破るために武帝と鮑信は奇襲をかけることで同意し、決行の地の選定を行っていた。寿張じゅちょうを偵察していた武帝と鮑信は青州黄巾賊に遭遇してしまった。主力歩兵隊が到着していない状況であったため兵数で劣る武帝と鮑信は窮地に陥った。そのため鮑信は武帝のために退路を切り開いて武帝を脱出させたのち、踏みとどまって戦い、遂に討ち死にした。


 武帝はその遺体の所在を敵の捕虜にまで尋ねたがその遺体は遂に見つからなかった。


 武帝は鮑信を模した木像を作り、人々に崇めさせた。


 配下の者たちに家財を分け与えていたため家にはほとんど財産が残っておらず、人々は鮑信の事を大いに尊敬した。


 子女は鮑卲ほうしょう鮑勛ほうくん鮑勲ほうくんとも)がいる。


 二人とも建安けんあん17年(紀元後212年)に取り立てられた。


 鮑卲は亡父の鮑信の風格を継いでいるとされ、曹魏の新都亭侯しんとていこう(人臣最高の爵位である列侯れっこう(元々は前漢の武帝の諱(劉徹りゅうてつ)を避けて徹侯てつこう列侯れっこうとしていたものが定着)の最低位)に封ぜられ、騎都尉きとい使持節しじせつ(地方監督官)を兼任した。その死後(鮑勛に連座?)は跡を息子(鮑信の孫)の鮑融ほうゆうが継いだ。


 鮑勛は節操の高さと清廉さを世に評価された。丞相掾じょうしょうえん(丞相補佐官)に任じられ、太子中庶子たいしちゅうしょし(太子の家庭教師)の時には曹魏の文帝ぶんていぶんは内政に優れたという意の美諡)の勝手にはさせず上奏文を即座に破られるほどに煙たがられた。郡に派遣された際に文徳皇后ぶんとくこうごう(文帝の正室)の弟(郭成かくせいもしくは郭都かくと)が不正を行っていたので処罰し、文帝の怒りを買った。尚書令(内政長官)の陳羣ちんぐん尚書僕射しょうしょぼくや(尚書令副官)の西晋せいしん宣帝せんていせんはあまねくの意の美諡)の推挙で御史中丞ぎょしちゅうじょう(皇帝への謁見取次役)に昇進した。遠征を繰り返す文帝を諫めたが治書執官ちしょしつかん(法務官)へ左遷された。遠征ののち文帝の本陣を横切ってしまった陳留太守の孫邕そんゆうを見逃した(当時この行為は重罪だった)。この行為を告発しようとした軍営令史ぐんえいれいし(軍監督官)の劉曜りゅうようが罪を犯すと鮑勛は劉曜の免職を要求したが、逆に自らが孫邕を見逃したことを告発され激怒した文帝に、延尉えんい(高級裁判官)の高柔こうじゅうが鮑勛は懲役5年で鮑勛の部下は罰金でいいと判決を出したのを皮切りに太尉の鍾繇、司徒しと(旧の相国)の華歆、陳羣が助命を嘆願したがついに処刑された。20日後文帝は没するが人々は文帝が病に苦しんでいる時も常に鮑勛のことを憐み、悲しんだ。鮑勛は西晋せいしん陳寿ちんじゅ三国志さんごくしに立伝されている。


 鮑勛伝を読んでみると、それは親の善良さを引き継いだ人間がついに皇帝の暴虐を止めることができなかった、そういう虚無感の湧く内容になっている。鮑勛伝の附伝としてでも鮑信伝を立伝すべきだったのではないかと思われて仕方がない。


あまり有名な人物ではありませんが彼がいたからこそ曹操は生き延び、魏武の強が始まり、そして三国志が始まるのです。

次回に乞うご期待!

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