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呉孫子伝

今回は「呉」の孫子です。

戦国時代に魏の龐涓を自刎させた斉の孫子ではありません(いずれ斉の孫子もやろうと思います)。ためになったと思ったら★やブックマークをお願いします!

おすすめの本・・岩波文庫 史記世家(上) 史記列伝(2) 世界史劇場 春秋戦国と始皇帝

 孫子そんし景王けいおう10年(紀元前535年)(景王元年(紀元前544年)、霊王れいおう27年(紀元前545年)ともいわれる)に生まれた姜斉きょうせい楽安らくあん出身(後漢ごかん趙曄ちょうよう呉越春秋ごえつしゅんじゅうでは出身となっている、北宋ほくそう欧陽脩おうようしゅう欧陽修おうようしゅうとも)や宋祁そうぎたちの新唐書宰相世系三下しんとうじょさいしょうせいけいさんげには姜斉の広饒こうぎょう出身とあり、左丘明さきゅうめい孔子こうしの諱(孔丘こうきゅう)を避けて左邱明さきゅうめいとも)の春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん山東通志さんとうつうしには姜斉の臨淄りんし出身とあり、他にも姜斉の恵民けいみん出身という説もある)の呉の将軍、軍事思想家である。諱は慣習的にとされているが、呉越春秋にのみ見られるものであり、前漢ぜんかん司馬遷しばせん史記孫子しきそんし呉起ごき列伝では一貫して孫子武そんしぶという名前が使われている。また、その字も長卿ちょうけいとされているが新唐書宰相世系三下にのみ見られるものである。軍事思想家の諱が武であるという出来すぎなところもあわせて、子武しぶが字で武は諡という説もある。


 新唐書宰相世系三下によれば春秋しゅんじゅう時代、姜斉の大夫たいふ大夫だいぶ大夫たゆうとも)(領主系貴族)だったちん氏(ちんの公族の陳完ちんかん公子完こうしかん田完でんかん嬀完きかん、諡をとって陳敬仲ちんけいちゅう田敬仲でんけいちゅうとも)が姜斉に亡命し工正こうせい(職人統率役)となったことにはじまる)の分家のでん氏(ちんでんの音が同じであることから名乗り始めた)の出だという。そん氏を名乗ったのは孫子の祖父できょの討伐戦で功を挙げ、姜斉の景公けいこうけいは大きくめでたいの意の美諡)に楽安に封ぜられた田書でんしょ孫書そんしょとも)の時からだという。父は孫憑そんひょう、母は鮑姜ほうきょう(名は不明、きょう姓のほう氏の出の意)である。またこの田書は孫氏ではなくえい武公ぶこうは戦いに強いさまの意の美諡)の息子の恵孫けいそんの子孫でその曽孫の孫炎そんえん姫炎きえんとも、諡をとって孫昭子そんしょうしとも)が孫氏の始祖とされ同姓同名の氏(えいの公族の姓)の田書でんしょと混合されているという説もある。


 春秋左氏伝や山東通志に孫氏の先祖は楽安に代々生きた、という記述があることから孫氏は陳氏(田氏)の出という考えが有力である。


 若い頃からいん阿衡あこう(君主の補佐役、名誉職とも、伊摯いしの別名とも)であった伊摯(通称の伊尹いいんが有名)、姜斉の甲公こうこう(姜斉の4代目までは十二支を用いた諡号が贈られていた、一般的に本名の呂望りょぼう姜望きょうぼう、尊称の太公望たいこうぼうが有名、清華簡せいかかんによれば呂上甫りょじょうほ師上父しじょうほとも)、姜斉の宰相さいしょう(君主の補佐役)であった管夷吾かんいご(一般的に字を合わせた通称の管仲かんちゅうが有名)の兵法を研究したという。 


 敬王けいおう3年(紀元前517年)に一族内で内紛が起き、孫子は妻子を連れて呉へ亡命した。


 いつ頃かは分からないが伍員ごうん伍員ごえんともいうが伍員ごいんは誤り、字を用いた通称の伍子胥ごししょが有名)の知遇を得たのち、支援を受けて孫子そんし(一般的に孫子そんし兵法へいほうと呼ばれる)を記した。

 

 敬王5年(紀元前515年)に呉では武王ぶおうは勇ましく戦に強かったという意の美諡、一般的に通称の闔閭こうりょが有名(闔閭こうろ闔廬こうりょ闔廬こうろとも))が先王の道王どうおうどうはみちびくの意の美諡、武王の従兄弟(とう司馬貞しばてい史記索隠しきさくいんでは兄弟、春秋左氏伝では叔父とも)、一般的に諱のりょうが有名)を殺して即位した。武王の側近となっていた伍員は七度武王に孫子を推挙した。献上された孫子に目を通して感銘を受けていた武王はそれに応えて孫子に目通りを許した。


 史記孫子・呉起列伝にその時の応対の様子が記されている。



武王曰く


「吾(武王のこと)は子(先生の意の二人称、ここでは孫子のこと)の兵法書にことごとく目を通しました。どうか一つ兵の調練のことについて指南していただきたい。」


孫子応えて曰く。


「可。」


武王続けて曰く。


「突然のことで兵はいない。女官と吾の愛妾を用いて指南して頂こう。」


孫子応えて曰く。


「可。」


武王から180人の女官と愛妾を授けられた孫子は180人を2隊に分け、それぞれの隊長に武王の寵愛が格別高い愛妾を据え、おのと鉞 (まさかり)を授け(いずれも君主から権威の委譲を受けた象徴)、二人に命を給いて問うた。


「そなたらは自分の前後左右を知るか。」


愛妾答えて曰く。


「我らこれを知る。」


孫子続けて曰く。


「前と言ったらそなたらの胸を見よ。左と言ったらそなたらの左手を見よ。右と言ったらそなたらの右手を見よ。後と言ったらそなたらの背を見よ。」


女官、愛妾一同応えて曰く。


「可。」


孫子は命じた。しかし、女官、愛妾は笑うばかりで動かなかった。孫子これを見て曰く。


「命令の周知がなされていないのは将の責である。」


孫子は命令をもう一度徹底し、再び命じた。しかし、やはり女官、愛妾は笑うばかりで動かなかった。孫子これを見て曰く。


「命令の周知がなされていないのは将の責だが、命令の履行がなされていないのは吏士りし(現場の兵たちのこと)の責である。」


隊長の愛妾二人を斬るように命を出した。その様子をだい(物見櫓)から見ていた武王慌てて降りてきて曰く。


「吾はその二人が死ねば、食物が喉を通らぬ。どうか許して頂きたい。」


これに孫子顔色一つ変えず曰く。


「臣、既に已に命を受けて将為り。将、軍に在りては、 君命も受けざる所有り」

(将軍が一度命を受けて戦場に在ったなら君主の命をも超越することができる)


孫子はついに愛妾二人を斬った。孫子は次に寵愛を受けていた愛妾二人を隊長に据えて命令を出した。女官、愛妾は命令にことごとく従った。孫子曰く。


「兵(女官、愛妾一同のこと)の調練は完了いたしました。どうか総覧して頂きたい。」


武王は愠色を示して曰く。


「それには及ばず。子は宿舎に戻るがよかろう。」


孫子応えて曰く。


「王、徒 に其の言を好み、其の実を用うるを能わず」

(王は謀を好む、されど実践は振るわず)


 

 武王の無茶な命令に孫子が皮肉で返した孫子勒姫兵そんしろくきへい孫子勒兵そんしろくへいとも)と呼ばれる有名な逸話であるが、その時正式な将軍でもなかった人物が君主の愛妾を殺すという史実とは考えにくい内容であるため史実ではないという見方が有力である。


 このような出来事がありながらも武王により孫子は将軍に任じられた。


 敬王8年(紀元前512年)にを討とうとした武王を諫めた。将軍として軍を率いて楚の属国であった鍾吾しょうごじょを滅ぼした。


 敬王12年(紀元前508年)に呉王闔閭は孫子の策を容れて楚の属国であったとう空桐くうとうとも)を楚から離反させた。


 敬王14年(紀元前506年)に楚は呉の属国だったとうさいを攻めた(唐と蔡は旧は楚の属国だった国々)。武王に諮問された孫子は出征に大いに賛成した。武王は孫子と伍員と共に軍を率いて救援に向かい、楚の軍の将であった令尹れいいん(楚独自の宰相職)嚢瓦のうが羋瓦びがとも)と司馬しば(軍事長官、大司馬だいしば?)の沈尹戌しんいんじゅつ沈尹戌ちんいんじゅつとも)と交戦した。


 戦の推移について記す。



・楚軍が唐と蔡を占領したのち、呉軍は到着した。呉軍に唐軍と蔡軍の残党が合流した。

・呉軍は淮河わいがから船を出して漢江かんこうに上陸した。

・楚軍は当初、漢江沿岸部と方城ほうじょうより進撃して呉軍の船を破壊して呉軍の退路を断ったのち挟み撃ちする、という沈尹戌が立てた作戦を基に行動していた。

・嚢瓦が、作戦を立案した沈尹戌の名声が高まり嚢瓦をしのいでしまうという内容の史皇しこうからの佞言に乗ってしまい、方城より出撃した沈尹戌との合流を待たずに呉軍と接敵し小別山しょうべつざん大別山だいべつざんの間の盆地で3度戦い、3度敗れた。嚢瓦は敗死しそうになるも沈尹戌の救援によって呉軍の追撃を振り切ることに成功する。

・11月19日(周正しゅうせいと呼ばれるしゅう王朝の暦では冬至が元日)に柏挙はくきょに両軍が布陣した。姫夫概きふがい(武王の弟)が呉軍全軍による突撃を主張したものの、受け入れられなかったため私兵5000を率いて突撃し、楚軍を敗走させた。史皇は戦死し嚢瓦はていに亡命した。

・沈尹戌は敗残した兵をまとめて軍の再編を急いだが雍澨川ようせいかわ付近で呉軍に急襲され追撃されたのち、自刎した。軍は全滅したものの沈尹戌の首と敗報を楚の首都であるえいへ運んでいた沈尹戌の配下の呉句卑ごくひのみは死を免れることができた。

・郢にて楚軍の敗退を知った昭王しょうおうしょうはあきらかの意の美諡)は異母兄の芈結びけつ熊結ゆうけつ公子結こうしけつとも、字の子期しきが一般的に有名)や芈申びしん熊申ゆうしん公子申こうししんとも、字の子西しせいが一般的に有名)の反対を押し切って雲夢うんぼうへ亡命し、そこでもまた攻撃され(呉軍によるものではなく湿地帯にて盗賊の襲撃を受けた)、属国のうんへ亡命したもののそこでも公弟の鬬懐とうかい嬴鬬懐えいとうかいとも)の攻撃を受け、また属国のずいへ亡命し呉軍の昭王の身柄の引き渡しの要求を随の民が占い(昭王引き渡しの是非)の結果から拒否したためここに落ち着いた(この時、昭王の甥の羋綦びき熊綦ゆうき王子綦おうじきとも)が昭王の身代わりとして呉軍に引き渡された。

・11月29日に郢は陥落した。この時孫子は敵地での長期の滞陣を避けるように武王を諫めた。

・姫夫概が呉本国にて呉王を僭称して反乱を起こした。このため武王は楚から撤退を決めた。

申包胥しんほうしょ芈包胥びほうしょ公孫包胥こうそんほうしょとも、また前漢の劉向りゅうこう劉向りゅうきょう劉向りゅうしょうとも)の別録べつろくによれば申勃蘇しんぼつそ芈勃蘇びぼつそ公孫勃蘇こうそんぼつそとも呼ばれる)がしん哀公あいこうあいはあわれみの意の平諡)に七日七晩飲まず食わずで号泣しながら直訴して入手した兵と芈申が率いた楚の残党軍は唐を滅ぼしたのち呉の領内に進撃し、内戦状態の呉に介入したえつ軍と合わせて呉の国内を蹂躙した。

・姫夫概は反乱に失敗し、楚へ亡命して堂谿どうけいの地を授けられて堂谿夫概どうけいふがいを名乗った(堂谿どうけい氏の始まり)。



 以上の戦いをまとめて柏挙はくきょたたかいという。


 史記孫子・呉起列伝には孫子がこの戦いに従軍したと記しているがその事績について記されておらず(史記呉太伯世家しきごたいはくせいか史記伍子胥列伝しきごししょれつでんには記されている)、また春秋左氏伝にはそもそも孫子についての言及がないためこの戦いに従軍しておらず、或るいはすでに将軍職を辞していたとも考えられる。


 敬王24年(紀元前496年)に武王は姑蘇こそにて越王勾践えつおうこうせん句践こうせんとも、諡は不明)が率いた越軍に大敗させられ足の指に受けた矢傷(越の武将の霊姑孚れいこふが射た)がもととなり崩じた(矢じりに毒がついていたとも、傷がもとで破傷風を発症したともされている)。武王に後継者である武王の次男(長男の姫波きはは早死にし、伍員の強い薦めもあったため)の呉王夫差ごおうふさ(諡はなし)の輔弼を伍員とともに孫子は命じられた。

 

 その後については諸説ある。


 歴史書に記載されている内容としては劉宋りゅうそう范曄はんよう後漢書ごかんじょ載記さいき(史書の内容を補うための記事)として引かれた呉越春秋夫差内伝ごえつしゅんじゅうふさないでんには讒言に遭って辞職したと記されている。後漢の袁康えんこう袁文術えんぶんじゅつと同一人物とも)と呉平ごへい呉君高ごくんこうと同一人物とも)の越絶書えつぜつしょ越紐録えつちゅうろくとも)によれば呉のどこかで没したという。


 伝承としては武王が崩じた際に姜斉に帰ったとも、敬王36年(紀元前484年)に伍員が自刎した際に共に誅殺されたとも、或るいは隠棲して孫子の改良にはげんだともされている。


 没年も前述の敬王36年(紀元前484年)や敬王24年(紀元前496年)、元王げんおう7年(紀元前470年)など一定しない。


 新唐書宰相世系三下によれば子女は跡を継いだ孫馳そんはを含めて孫明そんめい孫敵そんてきの3人がいる。


 また、その墓は蘇州そしゅうにあるとされる。


 寿春じゅしゅんを所領とした次男の孫明の子孫は富春龍門孫ふしゅんりゅうもんそん氏となる。孫呉そんごの皇族のそん氏の先祖とされている。


 後漢ごかん班固はんこ班固はんごとも)の漢書藝文志かんじょげいもんしに孫子は82篇と記されているが、現行の孫子や原作の孫子(史記孫子・呉起列伝による)は13篇のため孫子の偽作説や孫子架空人物説や孫子の作者は孫蒙そんもう(足きりの刑(ぴん)を受けたことに由来する通称の孫臏そんぴんが有名)ではないかと考えられることもあったが紀元後1972年に銀雀山漢墓群ぎんじゃくざんかんぼぐんから孫子兵法そんしへいほう孫臏兵法そんぴんへいほうの両方が見つかり現行の孫子と照らし合わせることでやはり孫子が孫子(孫子兵法の方)を記したということが分かった。


 また南宋なんそう葉適しょうせき古今偽書考ここんぎしょこうでは春秋しゅんじゅう時代に他国(史記による)の人間が将軍になるのはおかしいので作り話としているが、他国の、しかも亡命してきた人物を高位に据えるというのは姫夫概の例があるように春秋時代にどこの国でも行っていることなのでなんらおかしい話ではない。


 また現行の孫子が13篇なのは曹魏そうぎ武帝ぶていが後世の人の加筆を排除した結果だとされている。


他にも孫子には戦が経済に与える影響を説いた内容もあるので、伝統的に商業が盛んな姜斉出身の人物が記したと考えられる。やはり孫子は姜斉で代々生きた一族の出なのだろう。


 とにかく、孫子は実在した人物と見て間違いないだろう。

 




どうでしたか?

実在も怪しい人物ですが、孫子の兵法は現代でも見劣りしない不朽の名作です。

次回に乞うご期待!

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