馬岱伝
今回は「ここにいるぞ!」で有名な馬岱です。
記録がほとんど残っていない彼ですが季漢輔臣賛から読み取れることも記載しました。
おすすめの本・・ちくま学芸文庫 三国志(5)、新紀元社 三国志武将事典、中華書局 晋書
馬岱(孫呉の謝承の後漢書には馮岱と記されているがこれは馬を馮と誤記したものである)は本貫地、生年ともに不明の蜀漢の平北将軍(北方軍司令補佐官)である。清(旧の後金)の李維禎の山西通志によると旧名は黄巌だという。字は西晋の陳寿の三国志には記述されておらず、後漢書には徳山と記されている(中華人民共和国の陝西省扶風県郷土志にのみ伯瞻と記されているがこれは同姓同名の別人の字である)。
山西通志によると父(姓名は不明)を早くに亡くし母(姓名は不明)とともに黄氏(名は不明)のもとに身を寄せ、馬飼をしていたという。成人後に従兄の馬超の下に参じて名を岱に改め、馬姓を名乗ったという。
黄姓を名乗ったことから黄一族は母方の実家だろう。
章武2年(紀元後222年)に馬超が死ぬ間際に蜀漢の昭烈帝に上奏した遺言の中で、馬超の子である馬承が幼少だったことから後継者に指名されている(ただし爵位は馬承が継いでいる)。
建興12年(紀元後234年)に第五次北伐中に五丈原において蜀漢の丞相(君主の補佐役)にして北伐軍総大将の諸葛亮が没すると、蜀漢軍はその遺命によって撤退を始めたが征西将軍(西方の反乱鎮圧を行う将軍)の魏延が反発して自らを総大将として戦いを続けることを主張したが、諸将百官(諸々の武官と文官を指す)は誰も耳を傾けなかった。魏延は撤退する軍の道筋を先回りし、橋を落として首都の成都へ自らの正当性を訴える使者を発したが朝廷ではついに認められず、逆に留守居役の長史(三公(太尉(防衛大臣)、司空(土木大臣)、司徒(国務大臣)の3つの最高位の総称)補佐官)の蔣琬と黄門侍郎(皇帝側近)の董允から自身の討伐命令を下され、討寇将軍(雑号将軍(臨時の将軍職)の一種)の王平(旧名は何平)と丞相参軍(幕僚長)の楊儀が率いる旧の北伐軍に追撃され、これを迎え撃った。
この時の馬岱の功績を挙げる。
・王平が魏延の兵を一喝すると兵たちは恐れおののき離散し、全く血を流さずに戦いは終結した。魏延とその子ら(それぞれの名は不明)は漢中に敗走したもののそこで楊儀の命を受けた馬岱に追撃されその首を落とされた。
この時の功績によって馬岱は魏延の爵位であった南鄭侯を賜ることになる。
ただし、曹魏の魚豢の魏略(典略とも)によれば諸葛亮の遺命によって軍を率いていたのは魏延であり、日頃から仲の悪かった楊儀は誅殺されることを恐れ、魏延が人望のないことを利用して魏延のことを讒言してついに魏延を謀殺したという。ただし劉宋の裴松之はその信憑性を否定している。
ここまでが三国志(裴註(裴松之がつけた注釈)を含む)での記述である。
ここからは唐の房喬(一般的に字を用いた通称である房玄齢が有名)らの晋書に拠る。
・建興13年(紀元後235年)に馬岱は兵を率いて曹魏へ侵攻したものの牛金(この時の官職は不明)に迎撃され千人の兵を失い退却した。
これ以降の記述は残っていない。
蜀漢の楊戯の季漢輔臣賛(蜀漢の著名な人物についてまとめられた書物)にその名がないことから延熙4年(紀元後241年)時点ではまだ没していないと推測できる(作成された延熙4年(紀元後241年)時点で既に亡くなっている人物の事績のみが記され、また敵国に投降した人物についても記されているため)。
四川省新都県にて墓が見つかっている。
没年は不明。
子女に関しても分かっていない。中華民国の清史稿によれば四川省漢源県に子孫が300戸(1戸が5人)いたという。
内容のほとんどが異聞でした。
三国志演義の被害者はたくさんいますが、この人物は数少ない演義優遇者でした。
次回に乞うご期待!