表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

馬岱伝

今回は「ここにいるぞ!」で有名な馬岱です。

記録がほとんど残っていない彼ですが季漢輔臣賛から読み取れることも記載しました。

おすすめの本・・ちくま学芸文庫 三国志(5)、新紀元社 三国志武将事典、中華書局 晋書

 馬岱ばたい孫呉そんご謝承しゃしょう後漢書ごかんじょには馮岱ふうたいと記されているがこれはふうと誤記したものである)は本貫地、生年ともに不明の蜀漢しょくかん平北将軍へいほくしょうぐん(北方軍司令補佐官)である。しん(旧の後金こうきん)の李維禎りいてい山西通志さんせいつうしによると旧名は黄巌こうがんだという。字は西晋せいしん陳寿ちんじゅ三国志さんごくしには記述されておらず、後漢書には徳山とくざんと記されている(中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく陝西省扶風県郷土志せんせいしょうふふうけんきょうどしにのみ伯瞻はくせんと記されているがこれは同姓同名の別人の字である)。


 山西通志によると父(姓名は不明)を早くに亡くし母(姓名は不明)とともに黄氏こうし(名は不明)のもとに身を寄せ、馬飼をしていたという。成人後に従兄の馬超ばちょうの下に参じて名をたいに改め、姓を名乗ったという。


 こう姓を名乗ったことからこう一族は母方の実家だろう。


 章武しょうぶ2年(紀元後222年)に馬超が死ぬ間際に蜀漢の昭烈帝しょうれつていに上奏した遺言の中で、馬超の子である馬承ばしょうが幼少だったことから後継者に指名されている(ただし爵位は馬承が継いでいる)。


 建興けんこう12年(紀元後234年)に第五次北伐だいごじほくばつ中に五丈原ごじょうげんにおいて蜀漢の丞相じょうしょう(君主の補佐役)にして北伐軍総大将の諸葛亮しょかつりょうが没すると、蜀漢軍はその遺命によって撤退を始めたが征西将軍せいせいしょうぐん(西方の反乱鎮圧を行う将軍)の魏延ぎえんが反発して自らを総大将として戦いを続けることを主張したが、諸将百官しょしょうひゃくかん(諸々の武官と文官を指す)は誰も耳を傾けなかった。魏延は撤退する軍の道筋を先回りし、橋を落として首都の成都せいとへ自らの正当性を訴える使者を発したが朝廷ではついに認められず、逆に留守居役の長史ちょうし三公さんこう太尉たいい(防衛大臣)、司空しくう(土木大臣)、司徒しと(国務大臣)の3つの最高位の総称)補佐官)の蔣琬しょうえん黄門侍郎こうもんじろう(皇帝側近)の董允とういんから自身の討伐命令を下され、討寇将軍とうかんしょうぐん雑号将軍ざつごうしょうぐん(臨時の将軍職)の一種)の王平おうへい(旧名は何平かへい)と丞相参軍じょうしょうさんぐん(幕僚長)の楊儀ようぎが率いる旧の北伐軍に追撃され、これを迎え撃った。


 この時の馬岱の功績を挙げる。


・王平が魏延の兵を一喝すると兵たちは恐れおののき離散し、全く血を流さずに戦いは終結した。魏延とその子ら(それぞれの名は不明)は漢中かんちゅうに敗走したもののそこで楊儀の命を受けた馬岱に追撃されその首を落とされた。


 この時の功績によって馬岱は魏延の爵位であった南鄭侯なんていこうを賜ることになる。


 ただし、曹魏そうぎ魚豢ぎょかん魏略ぎりゃく典略てんりゃくとも)によれば諸葛亮の遺命によって軍を率いていたのは魏延であり、日頃から仲の悪かった楊儀は誅殺されることを恐れ、魏延が人望のないことを利用して魏延のことを讒言してついに魏延を謀殺したという。ただし劉宋りゅうそう裴松之はいしょうしはその信憑性を否定している。

 

 ここまでが三国志(裴註はいちゅう(裴松之がつけた注釈)を含む)での記述である。


 ここからはとう房喬ぼうきょう(一般的に字を用いた通称である房玄齢ぼうげんれいが有名)らの晋書しんじょに拠る。


・建興13年(紀元後235年)に馬岱は兵を率いて曹魏へ侵攻したものの牛金ぎゅうきん(この時の官職は不明)に迎撃され千人の兵を失い退却した。


 これ以降の記述は残っていない。

 

 蜀漢の楊戯ようぎ季漢輔臣賛きかんほしんさん(蜀漢の著名な人物についてまとめられた書物)にその名がないことから延熙えんき4年(紀元後241年)時点ではまだ没していないと推測できる(作成された延熙えんき4年(紀元後241年)時点で既に亡くなっている人物の事績のみが記され、また敵国に投降した人物についても記されているため)。


 四川省新都県しせんしょうしんとけんにて墓が見つかっている。


 没年は不明。


 子女に関しても分かっていない。中華民国ちゅうかみんこく清史稿しんしこうによれば四川省漢源県しせんしょうかんげんけんに子孫が300戸(1戸が5人)いたという。


内容のほとんどが異聞でした。

三国志演義の被害者はたくさんいますが、この人物は数少ない演義優遇者でした。

次回に乞うご期待!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ